陽の人相は、一目でわかるほどに変わった。目だけぎらついて窶れていた。

 それでも、二学期の間、一日も休まず学校には通っていた。

 最初に陽を悪魔みたいだといった女子生徒――田辺たなべ咲良さくらは、いつの間にか学校に来なくなった。元々おとなしい性格の生徒だった。あんなことを言い出したことが信じられないくらいに。

 田辺の不登校の原因には、彼女なりの良心の呵責があったのかもしれないが、陽には、どうでも良いことだった。

 家の内外関係なく、陽は荒れた。陰口や嫌がらせを仕掛けてくる相手には、手を上げるようになったし、教師にも食って掛かった。テストの成績だけは、これまで同様にトップを維持したものの、授業点は、ぼろぼろになった。庇ってくれる教師も友達も居なかった。

 両親は、幾度も学校に呼び出され、陽は、家でも責め苛まれたが、態度を変えることはなかった。

 こうして、陽は、すべてを掛けて打ち込んでいた陸上競技も、学校での居場所もなくした。


 転機は、十二月二十四日夕刻。陽が図書館から帰ってきた時、陽の継母の恭子きょうこは、一階の居間を掃除していた。そこにピリピリした雰囲気の義理の息子が帰宅した。

 このところ酷くなっている彼の粗暴な雰囲気や行動が頭を過ぎって、彼女は息子の挙動に耳をそばだてた。近ごろの荒れた行動も、成長し大きくなった体格も、恭子にとっては脅威だったからだ。義理の息子に、言葉にできない緊張と恐怖を感じていた。

 だから、注意力が削がれていたし、飾り棚の埃を払っていた手は、緊張で小さく震えた。その時、

――ごとり。

「あっ」という間もなかった。

 小さなマリア像が棚から落ち、床に跳ね返って、真っ二つに割れた。

 それと同時に、居間には目もくれずに階段を上がっていこうとしていた息子の気配が、ぞわりと大きく波打ったかのように恭子は感じた。

 陽がこっちにやって来る――。

 そう判断して、やって来るだろう息子の視線から逃げるようにして恭子は床にしゃがみ込み、マリア像を拾い上げようとした。

「母さん、何をやったの」

 抑揚のない冷たい声が恭子の頭上から降ってきた。

 恭子に覆い被さる影は、彼女が思っていた陽の背丈よりもずっと大きく思えた。

 重苦しい沈黙が辺りを満たす。

 恭子は、黙っていた。早く時間が過ぎ去ってくれるように祈りながら。

「ねえ、それ。ぼくの、ママの形見だよね」

 恭子の不誠実さを詰るように、陽は、ゆっくりと言葉を切って尋ねた。

 普段よりも幼いその口調に、恭子は、ぞっとするものを感じた。

 手の中のマリア像が震える。恭子自身が震えていた。

「ごめ……ごめんなさい………」

 やっとの事で声を絞り出した恭子に降ってきたのは、ケタケタと笑う幼子のような嘲笑だった。

「陽くん……?」

 恭子は、思わず頭上を見上げた。

 見上げたばかりの恭子の顔面に降り下ろされたのは、陽の松葉杖だった。

 陽は、キャッキャと小さな子どもみたいに笑いながら、何度も何度も恭子の顔を打ち据えた。

「やめてぇ……。おねがいやめてぇ……」

 悲鳴の間に嘆願するも、返ってくるのは笑い声ばかり。

 継母が泣き叫ぶこともできなくなると、陽は、やっと打ち据えるのをやめた。

 そして、また能面のような顔になり、足を引きずりながら階上の自室へと引き上げていった。


 陽の父親であり恭子の夫である仁志ひとしが帰宅する夜八時まで、恭子は、流血し顔を腫らしたまま居間に倒れ伏していた。クリスマスイブのことだった。

 救急車は、聖夜の街を走り、恭子は、頭蓋骨骨折と顔面陥没で入院した。

 仁志は、陽に話を聞いたが、陽は、「知らない」の一点張りで、取り付く島もなかった。

 それに腹を立てた仁志は、亡き妻の実家に連絡して、彼を預ける約束を取り付けた。冬休み明けも、そのまま実家で生活させ、学校は休学させるつもりでいた。もう顔も見たくなかった。

 それに、問題を抱えた息子と向き合うことよりも、骨折した妻の機嫌を取ることの方が、彼にとって優先すべき事だったのだ。

 あそこまでの暴力を振るったのだから――。

 それが、仁志にとっての免罪符だった。

「明日から神戸のじいさん家に行ってもらう。荷物は全部持って出ていけ」

 勘当を告げるのと同然の言い回しだったにも関わらず、陽は、亡母の実家へ行くことを、拍子抜けするほどあっさりと承諾した。

「父さん。ママの形見を全部もらって良いのなら、向こうへ行って、もう戻りません」

 仁志は、そのくらいなら構わないと承諾した。むしろ家がすっきりして良いとさえ思っていた。

 父の承諾を得た陽は、自分が言ったことを忠実に実行した。

 継母が仕舞い込んでいた実母の着物と宝飾品、先日割られたマリア像にロザリオなどすべて持ち出して、庭で火をつけた。かつて陽の母が焼身自殺を遂げたその庭で。

「あの女も同じくらい良く燃えますように」

 陽が呟いたのを知るものは、誰もいなかった。

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