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八月十九日土曜日。部活引退を目前にした中学三年生の夏だった。
学校どころか、地域の期待を一身に背負って、陽は800m走のスタートラインに立っていた。
小学校の頃から、陽は地域でもトップの陸上選手だった。走っていれば嫌なことはすべて忘れられた。最初は母に褒められるのが嬉しくてはじめた陸上競技だったが、母の死後はそれこそすべて擲つかのようにして競技に打ち込んだ。
耳をじりじりと日差しが焼くほどの快晴。
微かな向かい風は晩夏の気配を含んでわずかに涼しく、陽は、今日のベストコンディションも相まって、絶対に良い記録が出せると確信していた。
そんな自信に裏付けられた滑り出しは、思った以上にスピードが乗った。
──いける。
すぐ後ろに感じていた何人もの対戦相手の気配をぐっと引き離す。
これからは自分との闘いだと、陽は腹をくくる。
絶対に2分を切る──
そう念じて走ることに集中した。
それが、いけなかったのだろうか。
背後に迫る誰かの気配に陽は気がつかなかった。
急速に陽を追い上げたその誰かは、ひたりと陽の真後ろにつけ、彼を突き飛ばした。
突き飛ばされたその瞬間だけを、陽は覚えている。
派手に転倒し、競技場に投げ出された。ぐるりと天地が回る最中、陽が見たのは、同じ小学校を卒業した木戸拓真の姿だった。
──木戸、どうして。
声は出なかった。自分の唇が動いたかどうかも不確かだ。
次に気づいた時、陽は病院のベッドの上だった。
転倒した時に、頭を打って失神したらしい。
「転倒事故……?」
部活の顧問から告げられた言葉を、陽はオウム返しに繰り返した。
「そんなはずありません!後ろから押されたんです!」
必死に食い下がったが、顧問も両親も困ったような顔をするだけだ。
「陽、お前がトップだった。でも、後ろには誰もいなかったんだ。お前には、誰も追いつけなかった」
顧問は涙ぐんだ声で言った。
その涙の理由はすぐにわかった。
ベッドから起き上がろうとして、足に力が入らなかったからだ。
激しい痛みもあった。
靱帯が断裂していると告げられた。
それでも、陽は希望を持っていた。手術をしてリハビリをすれば治ると、医師からも両親からも言われたからだ。
だが、それも長くは続かなかった。
陽の手術は、失敗した。術中に足の神経が傷ついたのだ。
術後、陽の左膝と左足首は強張り完全に動かなくなった。
病院は、ミスを認め、父母は、嘆きながらも病院の誠意と謝罪を受け入れた。
「俺には、走ることしかなかったのに!」
病室で荒れる陽に、両親は、時間を元に戻すことはできないのだから、前を向いて今を受け入れようと言った。
彼の執刀医は、真面目な人間だった。
退院後に、わざわざ陽の家に謝罪に訪れた。
執刀医は、起きるはずのない事故だったと自分の非を全面的に認めた。
陽は、両親と執刀医が話している居間には同席せず、二階から耳を澄ましていた。
涙ながらに、息子さんに申し訳がないと謝りながら、医師は言った。
「私は……、そこに神経があるのはわかっていたんです……。それなのに、手が……、手が勝手に動いて……。申し訳ありません……、そこからは記憶が……!記憶がないんです!申しわけ申し訳ありません!!」
執刀医は、錯乱して泣き叫び、這うようにして陽の家から帰っていった。
陽は、その様子を息を潜めて眺めていた。
これを機に、陽からごっそりと感情が抜け落ちた。気持ちの持って行き場がなかったからだ。のっぺりと塗り固められた無表情の下に、ありとあらゆるものへの嫌悪感だけが誰にも言えないまま蓄積されていく。
「なあ、あれ本当に羽山か」
親しくしていたクラスメイトもそう呟くほどだった。
二学期が始まり、程なくして学校に戻った陽だったが、その松葉杖姿と今までとあまりにも違う雰囲気に同級生たちは、彼を遠巻きに眺めるばかりだった。
「あんなに速かったのに、もう左足動かないんだって」というひそひそ話も、「まあ、元気出せよ。陸上だけじゃなく、お前は、勉強もできるし、大丈夫だって」という慰めも、陽にとって、一瞥に付す価値もなかった。
クラスメイトとの距離も、部活の仲間との距離も、急速に開いていった。
それでもまだ、腫れ物に触るようにされているだけで、いじめと言うほどのことは何もなかったのだ。
ひとりの女生徒が「羽山くんって悪魔みたい」と言い出すまでは。
陽のことを扱いあぐねていた子どもたちはこれに飛びついた。
「どういうこと?どういうこと?」と興味を示すクラスメイトたちに、女子生徒は国語の資料集の百二十七ページを指し示した。
それは外国文学の紹介ページだった。ドイツ文学としてゲーテを取り上げ、「若きウェルテルの悩み」と「ファウスト」について簡単なあらすじと解説を載せていた。
女子生徒が言及しているのは、ファウストの古い挿絵とそれにつけられた解説だった。
挿絵は、悪魔メフィストフェレスがファウストを誘い宴に出かける場面だった。黒い悪魔の左足には蹄があり山羊に似た足に描かれている。
欄外には、解説が添えられていた。
──悪魔は元は天使であったが、堕天の罰で左足が蹄のある足に変えられている。そのため、この挿絵ではメフィストフェレスは山羊の蹄を持つ姿に描かれている。──
「罰が当たったんだ」と最初に言ったのは誰だったか。
「勉強もできるし足も速いからって偉そうにしてたから天罰が下ったんだ」
陽の動かない左足を、そんな風に嘲笑する人間が増えた。
陽は、「悪魔」と罵倒され、避けられるようになった。「寄るな、呪われる」と廊下で突き飛ばされ、「聖水だ」とバケツで水を浴びせられた。
教師に対しても棘のある態度を取っていたこともあって、教師も関わらないようにするばかりで、助けてくれることもなかった。
それを良いことに、いじめはエスカレートする。無視や足を引っかけられたり、小突かれることは当たり前となり、私物を捨てられることも少なくなかった。
学校でのいじめが激しさを増すのに反比例して、悪夢は、なりを潜めた。
代わりに、母の優しい声で呼ぶのだ。
「ヨウチャン、コッチニイラッシャイ」と。
扉の向こうからは、相変わらず焦げくさい臭いがして、魚が腐ったような腐敗臭も漂っていた。
悪夢が形を変えて続いているだけだと、陽は、相手にしなかった。
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