神戸北野坂のエクソシスト

巴屋伝助

第1話 蹄のついた足

一、

 幼い頃から、眠るのが嫌いだ。

 眠ると、必ず怖い夢を見る。

 シーツの間に包まれて感じる、あたたかく、やわらかなまどろみの後、それはやって来る。

 悪夢は、胸を押しつぶすような絶望と、背筋を凍り付かせる怖ろしさだけを残して、夜明けとともに去って行く。

 何度、眠りたくないと母に訴えただろう。

「怖かったね」と母が慰めてくれるけれど、「でもね」と母はやさしく唄う。「おやすみしましょうね」と。

 そうして、背中をさすり、寝かしつけてくれた手のひらは、今は、もうない。

 母が教えてくれた怖くなくなるお祈りも、今はもう思い出せない。

 羽山陽はやまようの母は、彼が十歳の夏に他界した。

 今は、父親の後添えを、仮初めに母と呼んで暮らしている。

 恐ろしい夢から覚めても、陽を慰めてくれる人は、もう居ない。

 母が死んでからのこの4年、陽は、たったひとりで悪夢に耐えてきた。母が死んでからというもの、陽の悪夢は、酷くなるばかりだった。

 自分のように明晰な悪夢が頻繁に続き体に不調を来すことを悪夢障害と呼ぶことを、陽が知ったのは、つい最近のことだ。それが精神の病やストレスと密接に結びついているということも。睡眠不足で倒れた陽に、学校の保険医が教えてくれたのだ。

「一度、ご両親に相談して病院に行きなさい」と、保険医は言った。

 思い当たる節はあった。継母のこと、学校や部活の人間関係。思えば、母の存命中から両親は不仲で、その影響は、陽の精神を追い詰めていた。

 原因が原因だけに、両親には言い出せなかった。今の両親が婚前に行っていた不倫のせいで、今も精神障害に悩まされているだなんて、中学生が言い出せるはずもなかった。

 結局、病院にいった方が良いと思っただけで、ずるずると先延ばしにしている。

 それに、陽には、自信がなかった。

 今、自分に起きている一連の出来事が、すべて夢だと言い切る自信がなかったのだ。


 午前三時。家中が静まった。

 低く響いていた冷蔵庫のモーター音でさえ静かになって、リビングでかたりと音を立てたのは、陽の母の形見の小さなマリア像だ。

 ぎっと床板が音を立てる。床の軋みだけが滑るように移動していく。まるで誰かが歩いているかのように。

 ぎっ、ぎっ、と床板を軋ませて、姿のない何者かは、迷いのない足取りで、陽の家の二階へ向かった。見えない誰かの重さを受けて、古い手摺りがみしりと鳴った。

 それまでしんと静まり返っていた二階の廊下に、無数の人間の囁き声が満ちる。虫が囀るような意味のない囁きは、足音ともに廊下を移動していく。

 陽の両親の寝室は、固く閉ざされていて、家の中の異変に気づいた様子はない。

 気づいているのは、ただひとり、陽だけである。

 それは、古い家の立て付けの悪いドアの隙間から『ヨウチャン』と呼びかけた。

 陽は、頭まで掛け布団をかぶって、じっと息を殺している。

 呼気が、リネンを生暖かく湿らせた。

 声は、様々な人物を装って、陽に話しかける。

『ヨウチャン』

『ヨウチャンヨウチャンヨウチャンヨウチャン』

 こういうときは、何の反応もしない方が良い。陽は、身をもってそれを知っている。

 声の主は、陽が知っている人たちの声を手当たり次第に模倣しているらしい。

 一度、小学校の頃の友達になりすましたことがある。

 その時、陽は反応してしまった。

 そいつは、それで味を占めた。

『なあ、ヨウチャン。開けてくれよ』

 友達の声に隠れて、長い爪がガリガリと戸を引っ掻く、背筋が寒くなるような音が聞こえていた。

『ヨウチャン、行こう。一緒に』

 陽は、目を閉じ耳を塞いで、ベッドの中で丸まった。

 何度聞いても、同級生の木戸拓真きどたくまの声だった。

(これは夢だ。)と陽は何度も願い、

(本物の木戸は俺のことを陽ちゃんだなんて呼ばない。だから別人だ──)

 繰り返し自分に言い聞かせた。

 木戸は、小学校の同級生だ。中学からは学校が分かれてしまったが、元は同じ小学校の陸上競技チームに所属していて、一番のライバルであり友達だった。仲は良かったけれど、お互いライバル意識が邪魔をしてあだ名でなんて呼び合えなかった。陽は、「木戸」と呼んでいたし、向こうは、「羽山」と呼び捨てていた。

 しつこい呼びかけを耐えきり、これ以上は反応が見込めないとみると、相手は、最後の手段に出る。

 扉の外が静かになったかと思うと、今度は、庭の方から別の誰かが近づいてくる気配がする。

 庭からやってきた誰かは、扉の前で亡き母と同じ声で言うのだ。

『陽ちゃん、開けてちょうだい』と。

 陽が黙っていると、次第に扉を強く叩いて

『開けてちょうだい。開けてちょうだい』

と催促する。それを無視していると、扉の隙間から焦げくさい臭いが漂いはじめる。

『熱い……、熱い……!助けてちょうだい、開けてちょうだい………!!』

 断末魔の声を残して相手が掻き消えても、人の体を焼いた炎の臭いはいつまでもそこに残っている。その臭いが翌朝になっても陽を悩ませるのだ。

 こんな悪夢に嘲弄される日々が続いている。

 そして、翌朝にも残るこの異臭と同じく、悪夢が現実を侵し始めている兆候が他にもあった。

 庭木や階段の手摺り、陽の部屋の前の廊下の焦げ跡に加えて、陽の部屋の扉には長い爪で引っ掻いた跡がいくつも残っているのだ。

 悪夢の長く鋭い爪は、少しずつ陽の日常に食い込み、ついにその肉を引き裂こうとしていた。  

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