問題編④ 謎と確信

 翌日の空には厚い雲が垂れ込めていた。

 窓の向こうに灰色を望む刑事部屋の中、今淵いまぶちのデスクには今しがた到着した報告書が並べられている。アメリカの警官みたいにホットドッグを頬張っている。

「問題です」

 さわらPが静かにクイズを出題すると、今淵はジロリとエウレカの面々を睨みつけたが、何も言わずにデスクに向き直った。

「ホットドッグは、なぜホットドッグと呼ばれるのでしょうか?」

 すぐに井ノ沢が早押しボタンを押すと、刑事部屋にピコンという音が響いて、刑事たちの目が井ノ沢の方を向いた。

「当時のソーセージには犬の肉が使われていたから」

「え?!」

 菅が驚きの声を上げる。

「正解!」

 さわらPがうなずいた。菅は目を丸くしたままだ。

「本当に犬の肉だからドッグなの?」

「19世紀から20世紀のドイツだと犬の肉は一般的に消費されてたんだけど、ソーセージにも使われてたんだよ。で、それを揶揄してホットドッグって呼ぶようになったっていうのが通説で、それまではタッド・ドーガンっていう漫画家が考えたんじゃないかって言われてたんだけど、それよりも前にホットドッグっていう言葉が使われてたことが分かったんだよ」

 井ノ沢が解説を加えると、菅が何かを思い出したように口を開いた。

「なんとなくホットドッグからの繋がりでサンドウィッチマンのこと思い出したわ。お笑い芸人さんの方じゃなくて、首から身体の前後に看板をぶら提げて宣伝してる人のことね」

「じゃあ、サンドウィッチマンって名付けた人は誰か知ってる?」

「個人が名付けたの?」

 菅が困惑する中、今度はさわらPがボタンを押す。

「チャールズ・ディケンズ」

「さすが、さわらP」

 井ノ沢が拍手を送る。菅が悔しそうに頭を掻いた。

「ディケンズは俺でも知ってるぞ」

 彼らが盛り上がる前で、高梨がブツブツと資料の内容を口にしている。

「死亡推定時刻は17時から17時半の間……まあ、状況的に考えればそうか。死因は頸動脈を傷つけられたことによる失血性ショック。うわ……」

 高梨が反応を示したのは、被害者である仙石廉次郎の現場における遺体写真に目をやったからだった。被害者は血の海に横たわり力尽きているが、その血塗られた両手は首の近くにあり、噴き出る血を手で押さえようとしていた様子を物語っている。遺体のそばには革工芸に使用する工具がいくつか落ちており、それらの鑑識結果をまとめた報告書も添付されていた。

「いずれも工具からも被害者以外の指紋は検出されてないんですね……」

「え、くじりからもですか?」

 菅が声を上げると、高梨はうなずいた。

「つまり、犯人はくじりを使ってから指紋を拭き取ったわけじゃないのか。指紋を拭き取ったら、仙石さんの指紋もなくなるもんね」

 菅の指摘に井ノ沢も同意して、高梨に尋ねた。

「両国さんの指紋は残ってないんですか?」

「両国さんんは両国さんで工具を持っていて、普段から被害者の工具に触れることはなかったそうですよ」

 じっと考え込んでいる今淵を横目に、高梨は手の甲で報告書の束をピシャリと叩いた。目の前にいる上司のモノマネのつもりだったらしいが、当の本人はモグモグやるだけで反応を示さない。

「京子さんが街で被害者の廉次郎さんと口論しているのを目撃したという証言もいくつか入ってきてます。きっと日頃から馬の合わなかった2人の間には積年の恨みのようなものがあったんでしょう。京子さんは弟である被害者の遺産を目当てに、山の中の工房まで彼を追いかけて工具のくじりで殺害を決行。そして、自ら警察を呼んだんです。決まりですよ、今淵さん」

 珍しくまくし立てる高梨を無視して、今淵はデスクの上に並べた現場写真を眺めていた。荒らされた工房内、盛大に破られた窓、散らばった工具、へし折られた木の椅子の脚……。今淵は工具を収めた金属製の棚を捉えた写真をホットドッグを持ったのとは反対の手で手繰り寄せる。

「この棚、相当重かったんだろ?」

 今淵に問われて、さわらPはうなずいた。工具棚を掴んだ時の感触を思い出すように、手を開いたり閉じたりしている。

「重かったですよ」

「大きさもあるんで、3、4人で動かしたらしいですよ」

 高梨がそう言うと、今淵は唸り声を漏らした。

「相当な力がなきゃ、こうはならんだろ」

「まあ、そうですね」

「だが、あの防犯カメラの映像じゃ、あの女は工房に入ってから2分後には外に出て来ていただろ。じゃあ、どうやってあの女は工房の中をこんなにめちゃくちゃにできたんだ?」

 今淵の指摘に高梨は言葉を失いかけたが、代わりに苦笑いを浮かべた。

「でも、被害者の次に現場に近づいたのは京子さんですし……」

「こういう可能性はないっすか?」

 菅が声を潜めると、みんなが顔を寄せた。

「海野さんと両国さんが共犯だっていう可能性ですよ。今淵さん、『第一発見者が犯人のケースは少なくない』って言ってたじゃないですか。警察が到着する前に現場に近づいたのはあの2人だけですよ」

「あの2人が共犯だとしても、カメラの死角に入っていたのは2人合計で3分もなかった。お前、3分の間に外から窓を破って、工房の中を引っ掻き回して、椅子の脚をへし折って、クソ重い棚を倒せるのか?」

 菅は「そりゃ、無理っすよね」と、この仮説からあっさりと手を引いた。高梨は顔を引きつらせる。

「……それこそめちゃめちゃごつい山賊じゃない限り無理ですね」

 今淵は報告書を丸めて高梨の頭を叩いた。ポコンと良い音がして、高梨は頭を掻く。

「いや……、でも、じゃあ、どういうことです? 誰がどうやって被害者を殺せたんですか? だって、窓ガラスが割れてから血が流れたんですから、被害者は窓が割られた時点で生きていなきゃおかしい。入って来た京子さんを警戒してたはずですよ。それに、京子さんが犯人でないのなら、犯人はどうやって17時からの30分の間に防犯カメラにも映らずに工房の中に入れたんですか?」


★★★ヒント!★★★

容疑者の中に、17時2分から17時28分の間に工房に近づけた人はいないのかもしれない。となると、まだ容疑者として考えられていない容疑者候補が潜んでいる可能性があるぞ!


 今淵は不機嫌そうに食べかけのホットドッグをデスクの隅に放り投げた。

「うるせえ。考えてんだから。ゴチャゴチャ喋るな」

 今淵の理不尽な一言に高梨は表情を引きつらせる。

「えぇ……、すいません……」

 今淵のデスクの端からホットドッグが滑り落ちた。



 あれだけ嫌がっていた山道を登りながら、今淵は悪態をついた。

「全ての山にエスカレーターをつけやがれってんだ……」

「問題です」

 唐突に井ノ沢がクイズを開始する。菅とさわらPが早押しボタンを構える。

「世界で一番みじ──」

 僅差で早押しを制したのは、菅だった。

「よし!」

「菅ちゃん、答えをどうぞ」

「川﨑モアーズ!」

「正解!」

 菅が拳を握りしめる。

「この前、ちょうどこのエスカレーター使ったんだよ」

 鼻の頭に皺を寄らせて悔しさを滲ませるのはさわらPだ。

「うわぁ、完全に押し負けたな……。エスカレーターの問題っていう時点で長いか短いか、それ以外だったら誰が発明したかっていくつか選択肢あったけど、問題が『世界で一番』で始まったから行けると思ったんだけどな~……」

「問題はなんだったんですか?」

 状況が掴めていない高梨が尋ねると、井ノ沢が答える。

「『世界で一番短いエスカレーターが設置されているのはどこでしょうか?』……答えは川﨑モアーズでした。まあ、『世界で一番短いエスカレーターの長さは?』っていう問題の可能性もありましたけどね」

「お前ら、うるせえぞ……」

 昨日と同じようにジャケットを高梨に預けてゼイゼイと喘ぎながら、今淵が事件現場となった工房へ曲がるところまでやって来る。山道はそこで三叉路になっており、まっすぐ進めば山頂の方に向かうことができる。

 左手を向いて膝に手をつく今淵の目には、工房の方へ続く道が映っている。山道の左手は手すりなどない崖になっていて、曇天のもとではその先があんぐりと口を開けた奈落のように見えた。山道はちょうど2つの尾根を中腹辺りで結ぶように走っていて見晴らしは良いが、高所恐怖症の高梨にとっては恐ろしい光景だった。

「クソったれめ……」

 呪詛の言葉を吐きながら工房へ向かう今淵にとって、現場写真よりも実際の現場の方が信じられるらしい。今では廃れつつある「現場百遍」のスピリットを彼は抱えているのだ。

 今淵とエウレカのメンバーと共に工房の中に足を踏み入れた高梨は「うわ……」と声を漏らした。どこからやってきたのか、工房の中に折れた木の枝が転がっていたのだ。見ると、破られた窓がそのままになっている。

「風で飛ばされてきたんですかね……うわっ!」

 枝をどけた高梨がまた間抜けた声を上げた。

「今度はなんだ?」

 呆れて振り返った今淵の目に、床の赤黒い汚れが飛び込んでくる。高梨がどけた枝の下には変色して赤茶けた血溜まりが生々しく残されたままだった。床に広がる事件の痕跡を井ノ沢が指さす。

「これは鉄イオンの酸化反応でいいんだよね?」

「そうだね」

 菅が返事をする向こうで、高梨がボソリと口にする。

「清掃が入ってないんですかね……」

 通常であれば、血などの汚れは特殊清掃業者によって綺麗に取り除かれるものだ。

「もうここをぶっ壊す気なのかもしれんぞ、あの女が」

「だから、そのままに……?」

「もうガイシャが手掛けた作品は運び出されたんだろ?」

「みたいですね。事件に関連なさそうなものは全部、京子さんが引き取ったと聞きました」

「ふん、守銭奴め」

 今淵はそう吐き捨てて工房内を見て回った。井ノ沢が芝居がかった声色で言う。

「『食べるために生きるべきなのであって、生きるために食べるべきなのでは……』」

「モリエールの『守銭奴』ね」

 即座にさわらPが反応する。井ノ沢がニヤリと笑う。

「本当は『食べるために生きるのではなく、生きるために食べるべきだ』っていう諺なんだけど、言い間違えちゃうんだよね」

 部屋の隅には、窓から吹き込んできたであろう草や小枝などの終着点が築かれていた。その中には、山に捨てられていたお菓子の袋の切れ端や動物の毛らしきものも含まれていた。


★★★ヒント!★★★

工房の窓は破られたままで、空気が入れ替わっている。仮に工具棚のそばに動物の毛が落ちていたとしても、部屋の隅に自然と流されてしまうはず!


「革製品の材料はそのままなんですね」

 棚には相変わらず丸められた革が収められている。

「引き取る必要がないと思ったんだろう。あの女にとっては、ガイシャが遺した作品さえあればいいんだ」

「なんか、世知辛いですね……」

 昨日と同じ言葉で感傷に浸る高梨を無視して、今淵は住居になっている2階に上がっていった。

 2階は1LDKの間取りになっていて、広いわけではないが落ち着いた住環境が整えられていた。

「電気は基本的にソーラーで、あとはバッテリーと発電機で賄っていたみたいですね」

 2階の窓から外の納屋を見下ろしていた高梨がそう説明した。菅は、ほぉ、と息をついた。

「そういえば、俺の知り合いでペロブスカイト太陽電池の研究してる奴がいたな」

「お、次世代太陽光発電」

 井ノ沢が反応を示すと、さわらPが首を傾げた。

「初めて聞いた」

「安価で形状変化できて弱い光でも発電できて高効率っていう、ハロゲン化鉛系半導体を使った太陽光発電なんだけど、日本人が発明したんだ」

「へえ、すごいですね」

 感嘆の声を上げる高梨の横っ面を引っ叩いて、今淵が睨みつける。

「仕事をしろ、仕事を」

「すんません……」

 彼によれば、被害者である仙石廉次郎はメインの山道から工房へ向かう道よりこちら側の土地を所有しているようだった。山頂へ続くメインの山道の方が自治体の管理となっている。高梨の説明を聞きながら、5人は2階をゆっくりと見て回った。

「風呂も便所もあるのか。……だが、物色された形跡はなし、か」

 今淵はつまらなそうにそう言うと、1階の工房へ戻った。

「今淵さん、被害者は17時よりも前に殺されていたってことはないでしょうか。それなら、この不可能状況も……」

「防犯カメラの時刻でそれはないと分かったろ、バカ」

 考えを一蹴され、しゅんとする高梨を尻目に、今淵は作業台の上に腰を下ろした。

「窓はガイシャが血を流すよりも前に破られてた。つまり、ガイシャはこの工房に入った時に異変を察知したわけだ。山の駐車場からここまで歩いてどれくらいかかった?」

「ええと、30~40分ってところですかね」

「ガイシャがここに入った時、あの女は山の駐車場にいたことになる。その間に犯人はガイシャを殺して逃げおおせた。部屋を荒らしたのは、殺しの前だな」

「でも、下りる山道は一本で、そこを京子さんがやって来てるわけですから……犯人はどうやって逃げたんでしょうか?」

「森の中だ。この家の防犯カメラはこっちに向かって来る道に向けられていた。だから、まずはこの家から出て、カメラに入らないように森の中へ。そして、向こうの登山道に出て、道の向こう側の森の中へ。そして、登山道に沿って下りて行けば、カメラには映らん。ここに来る時も同様にすればいい」

「でも、鑑識は森の中に人の通った形跡はないと……」

「バカか。だからこれからそれを調べるんだろうが」

 今淵はそれまでずっと高梨が腕に抱きかかえていた自分のジャケットをひったくると、工房の外へ歩き出した。



 ずいぶん時間が経ったのか、工房の外はそれまでの曇天も相まって薄暗さが増していた。風も強まっており、高梨は遠くにある冬の気配に身震いした。

 今淵はジャケットに袖を通して工房を出ると、建物の登山道側へ向かった。森は建物のまわりをぐるりと迂回するように広がっている。工房の前の崖を背にすると、森の向こうにもかなりの急斜面がある。それが登山道の方まで続いている。鑑識官が話していた「カメラの後方の崖」がこれで、崖は登山道から見て建物の奥の方にも続いていた。

 樹木と低木が鬱蒼と茂る森を見つめて、今淵が言った。

「高梨、入れる場所があるか探してこい」

「えぇっ、僕がですか」

「お前以外に誰がいるんだ」

「頑張ってくださ~い」

 エウレカの面々も見守る中。高梨は渋々森へ近づいていく。しばらくウロウロしていたが、やがて今淵を振り返る。

「ちょっとだけ藪の薄いところがあるんですけど、これ入ったら絶対痕跡残りますよ」

「いいから行け。何かあるかもしれないだろうが」

「今淵さんたちもついて来て下さいよ!」

 高梨の絶望を垣間見たような表情と叫びに、さすがの今淵も頭を掻く。

「分かった分かった……」

 今淵の後について、エウレカの3人も森の中に足を踏み入れる。時間帯もあって、森は暗い。暗所恐怖症の高梨にとっては、地獄みたいな場所だ。

「いいですか、入りますよ!」

「やかましい、さっさと行け」

 高梨の尻に軽く蹴りを入れる。葉と枝を踏みしめる音がして、どこかで鳥の羽ばたく音がした。藪の薄いところを狙って一歩一歩を慎重に進む高梨に今淵はイライラさせられたが、ブツブツと恐怖を取り払う呪文のようなものを唱え続ける部下の背中のおぞましさに口を噤むことにした。

「動物は逆に暗闇だと安心するらしいね」

 緊迫する空気を井ノ沢の雑学が緩ませる。菅が服にくっついた葉を払う。

「目が発達したからなのかな?」

「それはあるかもしれないね」

「事件が起こったのも同じような時間だから、人間が動き回るには結構大変だね」

 そのさわらPの言葉には、ぼんやりと犯人像が浮かんでいるようなニュアンスが含まれていた。


★★★ヒント!★★★

動物は暗闇で自由に動くことができる。そして、動物の動いた形跡と人間が動いた形跡は異なるはず! 鑑識は「人が通ったような跡はない」と言っていたが……?


 結局のところ、2人は相当な時間をかけて森の中を登山道へ抜けたわけだが、ろくな収穫などなかった。

「何も見つからなかったじゃ──」

「どうされたんですか?」

 高梨の震える声を遮るようにして、登山道の上の方から声がした。2人が見上げると、いかに登山家といった出で立ちの白髪の老人がこちらに下りて来ていた。

「いえ……、ちょっと調べ物をしてまして……」

 高梨がお得意の愛想笑いを振り撒くが、老人は厳しい目を向けてきた。

「そこはカモシカのウツだから気をつけてよ」

「……はい?」

「カモシカは崖に向かってウツを作るから、それを辿っていくと滑落するよ」

 そう言って立ち去ろうとする老人の背中に今淵が声をかける。

「ウツってのは?」

 老人が振り返るのと、さわらPが早押しを制したのは同時だった。

「獣道!」

「その通り」

 老人は答えると「もう暗くなるからあんたがたも早く山を下りなさい」と言い残して、さっさと行ってしまった。

「カモシカね」

 井ノ沢が呟く。

「あの角が特徴な……」

 さわらPも井ノ沢に呼応する。

「そのウツがあの工房のそばを通っていたってわけね」

 菅の表情も晴れやかだ。

「今淵さん、あの人もああ言ってることですし、帰りましょうよ……」

 縋るような高梨の目に、今淵はニヤリと笑いかけて声を上げた。

「事件の真相が分かったぞ」

 井ノ沢も笑みを浮かべている。

「まあ、僕らは今の話で確信が持てましたけどね」

 暗さを増す山道で、高梨だけが孤立していた。

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