『レザークラフターの殺人』
問題編① 不可能犯罪?
残暑が引いて、朝晩がグッと冷え込むようになってきた。
陽が落ちかけた山道を2人の男がえっちらおっちら登っている。彼らは山の中腹に停めたパトカーから運動不足の身体を引きずるようにしてやって来た。
「おい、
少し腹が出てきた男が前を行く背中に小言の口火を切る。
「いつ着くんだバカ。もう1時間くらい歩いてるだろ」
前を行く高梨が溜息とともに立ち止まって、追って来る汗に滲んだ上司に気弱な声を返す。
「まだ30分も経ってないですよ。頑張って下さい、
「うるさいバカ。半人前のくせして登山家気取りか」
今淵は小脇に抱えていたスーツのジャケットを高梨に押しつけた。両膝に手をついて今淵が咳き込むと、山道の脇に生い茂る木々の向こうからヤギが首を絞められたような鳴き声と茂みを何かが遠ざかっていく音がした。
「なんでこんな辺鄙なところで殺人なんか起こるんだよ……」
シャツの袖で額の汗を拭って、今淵は見る見るうちに闇に没していこうとする行く手に目を細めた。
「もうすぐですよ」
高梨が左手の木々の方を指さした。木立を縫うように遠くから光が差していた。
「この先を左に行った崖のそばに現場がありますんで」
「俺をおんぶしていけ」
「えぇ……、さすがに無理ですよ……」
それから10分ほどかかって2人は開けた場所に辿り着いた。木を切り拓いてできた広場には2階建ての木造の建物が崖の方を向いて佇んでいる。建物の中から漏れた光が薄闇の中に水に溶いた絵の具のように広がっていた。建物とその周辺では鑑識作業が行われており、作業服姿があちこちで動いている。
「もうひと仕事終えた気分だぞ」
今淵は伸びをしながら大口を開けてあくびをした。臨時で設営されたテントの中に入り、文句を言いながら現場に入るために靴や頭のカバーを粛々と取りつける今淵は、木造の建物を見上げる。
「こんなところに工房なんか作ったのか」
「被害者の
「結局殺されてるじゃねえか」
辛辣な言葉を返して、今淵はテントを出て建物の中に足を踏み入れた。
中には木の香りを押しのけるように、血のにおいが漂っている。
「ここは工房として使われていたようですね」
部屋の中央には広い作業台があり、革を処理する道具がばら撒かれている。壁際の棚には巻物のようにして様々な革が収められていて、それらが血のにおいと混じって部屋の中を生臭くしている。その棚もあちこち壊れていて、丸まった革が床に落ちていた。
「被害者はここに倒れていました」
血のにおいの正体は、作業台の下に広がる血溜まりだ。血溜まりは作業台の下から部屋の奥の方へ広がっているが、すでに遺体は運び出された後だ。
「なんだこりゃ」
今淵が目を細めて視線を向ける先には、下半分が盛大に破られた窓がある。窓の桟の木枠やガラスが部屋の中に散らばっている。
「窓が破られたみたいですね」
「そんなことは見りゃ分かる」
今淵は血溜まりのそばにしゃがみ込んで、じっと観察を始めた。ガラスの破片が赤黒い血を被っている。
「殺しの前に窓が破られてるな」
「侵入していた犯人に出くわした被害者が殺されてしまったってことなんですかね?」
高梨の問いを無視して、今淵は血溜まりの中に転がるいくつかの工具の中からひとつを指さした。木の柄に細い円錐の金属部分がついた道具だ。
「なんだありゃ?」
「くじりという工具らしいです。革に穴を開けたり印をつけたりするために使うみたいですね」
「凶器か?」
「鑑識の話では、その線が濃厚らしいです。被害者の首には尖ったもので傷つけた痕があり、それが頸動脈を破って失血死に至ったんだそうです」
鼻から息を吐き出して立ち上がると、今淵は腰をトントンと叩きながら部屋を見回す。
「ずいぶん荒れてるな」
革を収めた棚がところどころ壊れているだけでなく、被害者である仙石廉次郎が使っていたであろう簡易的な木の椅子も足が一本へし折れているし、金属製の重そうな工具棚も倒れていた。血溜まりはその工具棚から作業台の方へ向かって伸びている。
「今は盗まれたものがないか調べていますが、被害者が手掛けた革製品は残っていますし、荒らし方が物盗りっぽくないんですよね」
今淵は工房の奥の階段に目をやった。
「上は?」
「被害者の住居になっていますけど、荒らされた形跡はないと聞いてます」
「1階を物色しているところを見つかったか」
「で、犯人に襲われて?」
「だが、それなら、慌てて逃げる必要はないだろ。窓の破り方も乱暴すぎる。窓ごとぶっ壊そうとしてんじゃねえか?」
「めちゃめちゃごつい山賊が入って来たみたいですよね」
「この時代に山賊なんかいるか。だいいち、こんな山奥に盗み目的で入る奴がいるとは思えん。この近くに住んでる奴はいるのか?」
「いえ、いないそうです。ただ、被害者は名の知れた革工芸師なので、何かあると思って遠くから良からぬ人間がやってきてもおかしくはなさそうですけど」
今淵は倒れた工具棚のそばに回って、そこから作業台の方へ広がる血溜まりに目を留めた。その広がりの方向を目で追うようにして、作業台の縁に細かい飛沫血痕が付着しているのを発見した。
「ガイシャはここでやられたのか」
作業台に向かって立つと、左手に破られた窓がある。そこから生暖かい風がぬるりと入り込んできた。
「ところで、第一発見者がいるって言ったが、そっちはどうなんだ?」
「署で話を聞いているみたいです」
今淵は肩を落とした。
「まーた山道を戻らなきゃならんのか……」
工房を出て、テントの中でカバーを外す今淵は、建物の外壁に防犯カメラが光っているのを見つけた。カメラはこの建物に向かう道の方を睨みつけている。今淵は近くの鑑識の人間を呼んだ。
「おい、あの映像は確保してるのか?」
「はい。署の方で分析に回してあります」
今淵は高梨と目を合わせた。
「事件解決だな、こりゃ」
署に戻った今淵たちの耳に入って来たのは、ヒステリックな女の声だった。
「とにかく、弟の作品をひとつ残らず無事な形で確保すると約束して下さい!」
ふくよかな中年の女が声を張り上げていた。事情聴取を行っている部屋を遠巻きに眺める刑事たちに今淵が声をかける。
「何かあったのか?」
「夕方に山の方で起こった事件の参考人ですよ。被害者の姉らしくて、現場の物を引き取らせろと迫ってるんです」
今淵は呆れたように首を振って、隣の高梨に顎で指図した。
「お前、行って説明して来い」
「ええっ! 僕がですか?」
「お前に言ってるんだから、そりゃそうだろ」
高梨は不安を顔面に貼りつける。
「いや、だって、近づいちゃいけないような空気ですよ」
「いいから行け。静かになったら俺があの女から話を聞いてやる」
尻を蹴られて、高梨は渋々声のする方へ向かって行った。
5分ほどして事情聴取の行われている部屋に足を踏み入れた今淵は、げっそりとした高梨の視線に迎え入れられた。
「ホントにすぐ返してくれるんでしょうね?」
女が最後の念を押すと、高梨は気弱な目でうなずいた。今淵は近くの椅子を引き寄せて腰掛けると、女をじっと見つめた。
「で、なんであの工房の物をそんなに引き取りたいんだ?」
「弟の遺作だからよ!」
女が吠えると、高梨は引きつった顔で彼女を紹介した。
「
「弟のことより作品のことが心配か?」
京子は顔をしかめた。
「弟は有名な職人なのよ。その作品だって価値がある」
「弟の遺体を発見したのはあんたか?」
これ以上話しても無駄だと悟ったのか、今淵は本題に切り込んでいった。
「そうよ」
「その時の状況を話してくれ」
京子は肩をすくめる。
「あの工房に行ったら、弟が死んでたの」
あまりにも簡潔すぎる話に今淵はずっこけそうになる。
「なんであの工房に行こうと思ったんだ。わざわざ山道を登ってまで」
「街で偶然、弟と会ったのよ。ちょっと話をしただけなのに、あの子、急に怒りだして……。それで私を無視して行くから、私も車で追いかけていったのよ」
「じゃあ、一緒にあの工房に入ったのか?」
京子は笑った。
「そんなわけないでしょ。あの子、昔から逃げ足だけは早かったから、すぐに私を撒いたけど、行き先があの工房だってことは分かってた。だから、私も工房へ行ったのよ。そう、わざわざあんな山道を登ってね」
「で、弟を見つけたのか。誰か怪しい人影は見なかったのか?」
「見なかったわね」
「工房の中の者を物色したりしたのか? ずいぶん荒れてただろ」
「失礼ね。私が行った時にもうひどい状態だったわよ。だから警察を呼んだの」
今淵は腕組みをして、京子をまじまじと見つめた。
「なんで弟は怒ってたんだ?」
「知らないわよ」
「何を話したんだ?」
京子は天井を見上げて記憶を手繰り寄せる。
「あの子の作品を宣伝しようと広告代理店の人と話を進めていたのよ。それを伝えたら『余計なことするな』って。『金の亡者と手を組むつもりはない』って」
「勝手に宣伝しようとしたのか?」
京子は困り果てたように両手を広げた。
「だって、あの子、自分の商品価値を高めようとしないんだもの。それをちょっと手伝おうとしただけよ」
今淵は高梨と視線を交わして、これ見よがしに溜息をついてみせた。京子のバッグの中でスマホが鳴って、彼女は立ち上がろうとした。
「ねえ、ちょっと、電話してきていい?」
今淵は無言で部屋の外を指し示した。京子は電話に出ながら、廊下に飛び出して行く。廊下から騒がしい声が漏れてきた。
「遺産は……」
その声は遠ざかって聞こえなくなっていった。
「なんというか、世知辛いですね」
高梨が嘆くように言うと、今淵は鼻で笑った。
「お前は経験がないだろうが、こんなことしょっちゅうあることだぞ」
「被害者は革工芸で一代でひと財産築いたんだそうです。ああいうお金の絡んだ関係に嫌気が差して山に引きこもるようなったんでしょうね」
「ガイシャに家族は?」
「結婚もしてないようですよ」
「ガイシャの両親は?」
「亡くなってます」
「あの女の他にきょうだいは?」
「いません」
今淵が椅子に深く腰掛けると、ギシリと音がする。
「じゃあ、遺産はあの女が独占できる」
「まさか、それ目的で……?」
若者らしく正義の火を点す高梨に、今淵は冷静に言葉を返す。
「それにしちゃ、状況が不自然ではある」
時計の針が午後八時を回る頃、鑑識に呼び出された今淵と高梨はパソコンのモニターを前にしていた。キーボードの前には鑑識官が陣取っている。
「何か見つかったのか?」
「はい。これを見て下さい。現場の建物に設置されていた防犯カメラの映像です」
画面には、鮮明な山の映像が表示されていた。画面の右側には山道に沿って崖がある。すでに陽が落ちかけて、オレンジ色の光が深緑の木々と黄土色の山道を照らし出す。タイムコードは今日の17時2分となっている。道の向こうからこちら側へ人影が近づいて来る。男だ。
「これが被害者の仙石廉次郎さんです」
鑑識官がそう言って、映像を2倍速で流す。ちょこちょこと歩を進める廉次郎の姿がカメラの下を通って画角から消える。
「次が17時28分です」
映像が素早く送られて、夕闇が深くなった山道をこちらにやって来るのは京子だ。疲れた表情で何かを叫びながら建物に近づいて来る。
「音声はないのか?」
今淵が尋ねると鑑識官はゆるゆると首を振った。
「ありません」
京子もカメラの画角に消える。しばらくして、鑑識官は映像を止めた。17時31分だ。
「これが第一発見者の海野京子さんが警察へ通報をした時刻です」
2分もしないうちに、京子は建物の外の防犯カメラの画角に収まる位置にやって来て、熱心にスマホを操作しだした。
そのままの状況で25分後、道の向こうに警察官が姿を現すと、京子は手を振って彼らを建物の中へと誘導した。
「今淵さん、これって……」
高梨は興奮を抑えきれない様子だ。
「被害者が建物に入ってから、京子さん以外に建物に入った人間も出て行った人間もいません。つまり、犯人は京子さん……!」
「建物へは他の道はないのか?」
今淵が尋ねると、鑑識官は椅子ごと身体を向けて首を振った。
「建物の前は崖ですし、カメラの後方、つまり、山道から見て建物の奥側はすぐに崖になっていて行き止まりです」
「でも、画面の左手は森があるだろ」
「ずいぶん藪が深いんです。人が通ったような跡は見つかっていません」
「ガイシャがやって来るより前の時間帯に人影は?」
「ありません。映っているのはせいぜい動物くらいです」
高梨が今淵と鑑識官の間に割って入る。
「今淵さん、犯人は京子さんで決まりですよ!」
色めき立つ高梨とは裏腹に、今淵は浮かない顔をしていた。
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