土用の丑の日

増田朋美

土用の丑の日

その日も暑い日であった。本当に暑い日であった。これだけ暑いと、肉体はもちろん精神もおかしくなる。それは嘘ではなく、本当のことだから、仕方ないというか、どうにもならない。人間には制御できないんだと悟らざるを得ない事例がまだまだあるのかもしれない。

今日も、看病だけはしなければならなかった。今日はちなみに世間では土用の丑の日といってうなぎを食べる習慣があるのだが、

「さあうなぎを食べろ。これでなんとか暑さを乗り切ろう。」

杉ちゃんは、水穂さんの前にうなぎの蒲焼を乗せた皿をだした。 

「ほら、うなぎの蒲焼だから、無理をしてでも食べるんだ。少しじゃだめ、山程食べるんだ。そうでないと、夏場は乗り切れないよ。」

杉ちゃんは、寝たままの状態の水穂さんの口元に、うなぎの蒲焼を差し出した。水穂さんはなんとかうなぎの蒲焼を口にしてくれたのであるが、食べることはできずに咳き込んで吐いてしまった。咳き込んで吐くときは、朱肉のような内容物も出た。それは、真っ赤な鮮血で、うなぎを捌くときより、もっと生臭かった。

「馬鹿な真似はよせ。」

と、杉ちゃんが言うが、それは止まらなかった。

「やめろってば。」

そう言われても止まらない。しかた無く、水のみに入っていた薬を無理やり飲ませると、やっと止まってくれた。でも、それ以上うなぎを食べさせるのは酷だろうなと思わせるほど、畳を偉く汚した。

「あーあ、うなぎを食べて元気よくというわけには行かないもんなのかな。これじゃあ、畳代がたまんないよ。うなぎを買うより畳の張替え代は、かかるんだよ。」

と、杉ちゃんはそういったのであるが、水穂さんは眠ってしまったままだった。

「またやらかしましたか?」

ジョチさんが、四畳半にやってきた。

「はい。もうねえ、こんなふうにパアッとやらかしてくれました。あーあ、畳の張替え代をどうする?」

杉ちゃんが呆れた顔をしてそういうと、

「仕方ないですよ。畳の張替えは、してもらわないと、困るでしょう。汚したままではいけませんから。」

ジョチさんはしかた無く答えた。

「だけどさあ、僕みたいな素人の看病じゃなくて、こういうときに、プロのやつならどうやって食べさせるか、見てみたいもんだねえ。」 

と、杉ちゃんがいった。

「そうですね、何度も女中さんを募集していますが、家の事情にかこつけて、みんな水穂さんに音を上げて辞めてしまいます。どうしてこうなるのという事情で辞めてしまう方も多いです。いくら女中さんを募集しても、大概失敗なんですよね。」

ジョチさんは、がっかりした様子で言った。

「まあ、誰か有能な人材が現れてくれるのを待つしかないか。」

杉ちゃんがそういうと、 

「そうですね。」

と、ジョチさんは言った。

それと同時に、玄関の引き戸をガラッと開ける音がした。

「こんにちは、あの、こちらで女中さんを募集していると伺いました。わたし、野田美香と申します。」

明るい女性の声である。

「そう言えば、昨日電話が有りました。野田美香さんという女性で、ここで働きたいと申し出がありました。」

ジョチさんは、急いで四畳半からでて玄関先に行き、

「はい、お待ちしておりました。どうぞいらしてください。」

と言った。

「初めまして。私は野田美香と申します。現在は働いてないのですが、こちらで女中さんを募集していると伺いまして、こさせてもらいました。料理と掃除しか能がないですけど、一生懸命やらせて頂きますから、ぜひ、こちらで働かせてください。」

そういう女性は、一見するとしっかりしているようであったが、どこか病んでいるのかなと言う雰囲気があった。 

「はあ、そうなんだね。お前さんはどこから来た?富士から?それとも他のところから?」

杉ちゃんがそう言うと、彼女は、

「ええ、出身は沼津なんですけど、今は、富士に住んでいます。あ、通勤は、バスでするから大丈夫です。家は横割で富士駅に近いところなんで。」

と、答えた。

「そうなんだね。じゃあ、車の運転はしないの?」

杉ちゃんが聞くと、

「はい、免許は取りそこねてしまいまして。」

と、笑っていうのみであった。

「そうなんだね。それで、誰かを世話したとか看病した経験はあるのか?」

杉ちゃんがそうきくと、

「はい。以前というかほんとに短い間ですけど、介護施設で働いていたことがありました。そこで鬱になってしまって、すぐに辞めたんですけど。そういうわけだから、全く経験が無いわけじゃありません。」

と、野田美香さんは答えた。

「そうなんだね。そういうことなら、早速お願いがある、ちょっとこっちへ来て貰えないだろうかな。」

杉ちゃんはそう言って、野田美香さんを四畳半へ連れて行った。美香さんは、それについて行って、真っ赤な鮮血で汚れた畳と、そこを無視して眠っている水穂さんをみて、大いに驚いたようであったが、

「こいつがな、今日はうなぎを食べさせようとしたんだけど、こういうふうに咳き込んで吐いてしまうわけだ。だから吐き出さないで食べてくれる食べ物を作ってくれたらいいんだがな。それを作ってくれる料理人が必要なわけだ。お前さんなんとかしてくれるか?」

と、杉ちゃんに言われて、覚悟を決めてくれたらしい。美香さんは水穂さんをそっと叩いて、

「あの、私、今日から、あなたのお食事を作るために雇われました、野田美香と申します。今日は、最初の日なので、あなたが好きなものを作って差し上げます。何か食べたいものとか、欲しいものはありますか?」

と水穂さんに聞いた。水穂さんは目を覚まして、美香さんの顔を見て、驚いた顔をしていたが、とてもとても小さな声で、

「そばが食べたい。」

とだけ言った。

「わかりました。少しお待ち下さい。」

そう言って美香さんは台所へ行き、材料があるかどうか調べ始めた。

「このあたりにコンビニや、スーパーマーケットはありますか?」

と美香さんはジョチさんに聞いた。

「ええ、コンビニならありますよ。」

とジョチさんが言うと、

「じゃあ、すぐいってきます。」

美香さんはにこやかに言った。こんな暑いとき大丈夫かと、杉ちゃんは言うのであるが、野田美香さんは、元気にコンビニに行った。そして、数分後、そばとそばつゆの入った紙袋を持って戻ってきた。

「そばを買ってきました。あんまり高級なそばじゃないですけど、とりあえず食べてもらおうと思いまして。」

そう言って、彼女は、鍋に水を入れて、ガスコンロに火をつけ、鍋をそこにおいた。水が沸騰すると、手早くそばを入れて、菜箸で手際よくかき回し始めた。なんでも鼻歌を歌っている始末であり、料理が楽しそうだ。そして、そばが柔らかくなると、すぐにザルにあけて、水をかけて冷やす。その手際の良さも素晴らしいものだった。そして、小さなお皿にそばを盛りつけて、小皿につゆを入れてそれぞれをお盆に乗せた。更に蕎麦湯だと言って、そばの茹で湯を計量カップに入れて、お盆に乗せた。

「さあお蕎麦ができましたよ。食べてください。」

そう言って、野田美香さんは、お盆を水穂さんの枕元においた。水穂さんは、それを見てびっくりした顔をする。

「水穂さん起き上がれませんか?それでは、あたしがお手伝いしましょうか?」

と、美香さんは明るい顔でそばを水穂さんの口元まで持っていく。水穂さんは、好物だったので嬉しかったのだろう。今度はやっとそばを口にしてくれた。咳き込むことも、飲み込めないこともなかった。

「あーあやっと食べてくれたよ。これで畳代は追加で払わなくてもいいぞ。」

杉ちゃんがとてもうれしそうに言った。

「どうだ。美人のお姉ちゃんに食わしてもらって、嬉しかったんじゃないの?」

「まあ、そういうことより、美味しそうに食べてくれたのは嬉しいです。」

ジョチさんは汗を拭き拭き言った。

「本当だねえ。」

二人は大きなため息を付いた。

「まあとにかく、やっと栄養をとってくれたんで、僕らも安心したよ。次のご飯をどうするか、期待しよう。」

「ええ。私の予定では、しばらくそばをアレンジしたのを食べてもらおうかと思ってて。そばと言っても、いろんな種類がありますからね。それをやってみようかと思ってるんです。」

杉ちゃんがそう言うと、野田美香さんはにこやかに言った。

「そうですか。その代わり肉は絶対食わさないでくれ。そうすると、水穂さんは大変なことになるから。」

と、杉ちゃんが言うと、野田美香さんは、わかりましたとそういったのであった。

「本当にわかってくれたのかな?」

杉ちゃんは、ジョチさんにいうと、

「とにかく猫の手も借りたいくらいですから、やらせてみましょう。鳴かざれば鳴かせてみしょう、ほととぎす。」

と、ジョチさんは言った。

確かに、野田美香さんはよく働いてくれる女性で間違いなかった。掃除も嫌がらずにしてくれるし、水穂さんの着物を取り替えるのだって、嫌がらずにしてくれる。まるで、そのやり方は、ただ仕事上手な女性というのでは無いのかもしれない。

「水穂さん今日もお着替えしましょうね。いつまでも同じ着物で寝ているわけには行きませんよ。今日は、夏にピッタリの着物に着替えましょう。」

と、美香さんは、そう言って、着物をカバンの中から取り出した。水穂さんは、目を覚まして、美香さんが持ってきた着物を見てしまった。

「これ、どう見ても、化繊の浴衣ですよね?」

水穂さんは小さい声で言った。

「それではいけませんか。いいじゃないですか。そんな派手な花柄の着物よりも、こういう柄のほうがいいって、私ちゃんと調べてあるんですからね。トンボかすりは、強い意志を持って、まっすぐに生きるという意味の柄だそうですね。」

と、美香さんは、そういったのであった。

「いけないというか、化繊の浴衣というものは、少々、贅沢すぎるというか、そんな気がするんです。」

と、水穂さんが言った。

「そんな事、ポリエステルは、一番普及している着物の生地じゃないですか。それの何が行けないというのです?その派手な花柄の着物でなければならない理由なんて無いでしょう?」

美香さんはそういうのであるが、

「理由ならありますよ。」

水穂さんは、小さな声で言った。

「へえ、それはどんな理由ですか?化繊に対してアレルギーでもあるとか、そういうことですかね?そんな事聞いたことはありませんよ。さ、暑いですから、すぐに着替えましょう。行きますよ。」

と、美香さんが水穂さんの着物の兵児帯を解こうとすると、水穂さんはえらく咳き込んでしまったのであった。

「水穂さん、咳き込んで誤魔化してはいけません。私、知ってるんですよ。水穂さんは、今の時代であれば十分に治療できると思うし、いつも派手な花柄の着物着て暑そうな着物を着てるけど、そうじゃなくて、もっと涼しくあしらえる着物だってあるはずです。だから、それに切り替えることだってできるんじゃないですか。大丈夫ですよ。病気を直して、またピアニストに戻ることはできます。」

美香さんはわざと明るくそういったのであるが、水穂さんは咳き込んだままだった。美香さんが、薬を水穂さんに飲ませると、やっと止まってくれた。薬には、眠気を催す成分があったらしく、水穂さんは、眠ってしまうのであった。その間に美香さんは、水穂さんのタンスの引き出しを除いてみた。その中には、紺色やモスグリーンなど様々なものがあるが、皆梅の柄とか、井桁かすりなどの、着物を入れてあるだけであった。

「なんで、着物ばっかり持っているんだろ。」

美香さんは思わずいうが、

「何を覗いているんだ?」

と、杉ちゃんがでかい声で言った。

「水穂さんのタンスを覗いて、何をしているんだよ。」

と、杉ちゃんに言われて、美香さんは思わず振り向く。

「ええ、こんな着物ばっかり持って、あつそうだなと思ったんで、これを持ってきました。」

「ああ、絽の着物を持ってきたのね。残念ながら、水穂さんには、絽は着せてあげられないねえ。そんな事したら、水穂さんが可哀想だもん。」

と、杉ちゃんは美香さんが持ってきた着物を見てそういったのだった。

「どういうことですか。なぜ、水穂さんに絽というものは着せては行けないのでしょうか?穴が開いているし、よほど涼しいのではありませんか?」

美香さんはすぐに言った。

「お前さんは同和問題の事は何も知らないの?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。知りません。何も教わりませんでした。着物とそれと何の関係があるのです?」

美香さんはすぐに答えた。

「そうか。お前さんはそれも知らんのか。今の若いやつは、知らないかもしれないな。学校でちゃんと教えてないんだよな。しっかり、教えてもらってないとこういう弊害もある。お前さんは士農工商って知ってる?」

と、杉ちゃんはいうと、

「知ってます。学校で散々試験用紙に書かされましたから。」

と、美香さんは答えた。

「それでは、その農民より、低い身分とされたやつがいた事は知ってる?」

杉ちゃんが聞くと、

「それは障害のある人とか、病気の人とかそういうことでしょうか?」

美香さんは答えた。

「まあそれも一理あるけどさあ。そうじゃなくてね。この派手な花柄の着物しか着用を認められない人がいたんだよ。そういう人たちは、身分制度から解放されて、なんて呼ばれるようになったか知ってる?」

杉ちゃんがもう一度聞くと、

「知りません。」

と、彼女は言った。

「そうなのね。じゃあ覚えておけ。水穂さんみたいな人は、新平民と呼ばれて散々バカにされたんだ。それで銘仙の着物しか着用できなかった。だから今でも、馬鹿にされるんじゃないかっていう恐怖と隣合わせなわけよ。それで、バカにされないように、銘仙の着物しか着られないってわけ。他のものを着ると、そういうバカにされたやつが、高級品無理やり着て、変なやつとかそういう事を言われちゃうから、それでならはじめから銘仙の着物を着てるってわけだ。わかるか?」

と、杉ちゃんは言った。

「そうなんですか?」

そう彼女、美香さんが答えると、

「そうなんですかじゃないよ。日本の黒歴史だ。ちなみに銘仙という着物はだな、そういう低い身分の人を工場で安い人件費で働かせたから、大正時代に大ブームを起こせたの。だから今では平和利用したいという人もいるけどさ。お年寄りには、銘仙と言うとバカにする人も居るわけ。ホントはね、今のアンティーク着物ブームにのって銘仙ばかりが売れるのは不味いんだよ。そういう歴史をちゃんと知らないで、おしゃれ心で着ちゃうというのは、問題だよねえ。」

と、杉ちゃんは説明した。

「でも、今は、時代も変わっているんじゃないですか。少しづつですけど、そういう社会的に弱い人に手を出してあげようという人も現れています。それでは、無理して、銘仙の着物を着なくてもいいのではないでしょうか?」

美香さんは今どきの女性らしくそういったのであったが、

「そうかな?」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「多分、お前さんが言うほど、解決してはいないと思うよ。」

「そうなんですか。でも、私もそうでしたけど、精神的な持病を持つ人は、精神障害者手帳をとるとか、そういう事をして国から支援を受けられるようになってます。もし、水穂さんが、そういう身分になっているのであれば、水穂さんは、放置されることもなく、なにか適切な支援を受けているのではないかしら?」

美香さんはそう言うのであるが、

「まあ、弱い立場になれば、支援が受けられるっていう考えが甘いよ。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑った。

「お前さんは、なにか法的な立場で、なんとかしてもらっていることを恥と思ったり、それでは嫌だと思ったことは無いの?」

「ええ。それはありません。少なくとも、あたしは障害者となってしまいましたが、後悔したことは無いし、嫌だとか、恥ずかしいとか、思ったことは一度も無いです。そうなってしまっても、もう仕方ないんだと思って、生きてますから。」

美香さんは、杉ちゃんの問いかけにそう答えたのだった。

「じゃあ、お前さんがここに所属していて、辛かったとか、嫌だとか、もう消してしまいたいということは、なかったの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、たしかに、高校時代は私もつらいものがありました。あの高校で、私は酷いことされたけど、みんなあの学校はいいところだからと言って、取りあってくれませんでした。それと同じだというべきでしょうか?」

と、美香さんは答えた。

「まあそういうことだな。水穂さんも、もうこの身分に生まれてきたからこそ、もうここで死んてしまいたいと思ったことだってあったじゃないかな。この身分に生まれてきたから、大変な大損をすることだって、たくさんあったんだ。それとは、お前さんは、縁がないかな?」

杉ちゃんが言うと、美香さんは、

「そうなんですね。でも、私も、水穂さんの事は理解できないかもしれないけど、自分が置かれた境遇のせいで、不利な気持ちになった事はあるので、なんとなくですがわかる気がします。水穂さんは、そう考えると確かに可哀想な人ですが、でも、これだけ皆さんに愛されているわけですから、それは認めてあげてもいいんじゃないでしょうか。少なくともハキダメギクみたいな私より、ぜんぜん違うのではないかな。だから、その、銘仙の着物というものをバカにされないように着続ける必要も無いのではないでしょうか。私は、そう考えますけどね。それは、行けないのでしょうか?」

と言った。杉ちゃんは、いくら彼女を説得しても、これは無理だなという顔をした。

「だって私、本の中で読んだことがあるんです。この世の中に雑草という花はないと書いてありました。だから、私は、そういう逸話があった人でも、銘仙だけしか着てはいけないという事は無いと思います。だから、水穂さんに絽の着物を着せてあげたいです。」

「お前さん絽の存在を知っていたのか?もしかして絽が、夏の羽二重と同じだと言うことも知っていたのか?」

杉ちゃんは、それまでの口調とぜんぜん違う美香さんの発言に驚いていった。

「ええ、知ってますよ。でも同和問題の事は今始めて知りました。だけど、そういう人だからこそ、絽を着てもいいんじゃないのかなと思いますが、だめでしょうか?」

美香さんは、そういったのだった。杉ちゃんは、一言、

「お前さんには、水穂さんの看病は向かないな。そういう優しい人間は、もっとそれが発揮できるところに行くといいよ。」

とだけいったのだった。


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土用の丑の日 増田朋美 @masubuchi4996

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