第4話 俺の上司
工房で作ったものは、必ず誰が加工者なのかわかるように書類を貼り、班長のサインを貰う。
上司というより先輩、といった感じの距離感で話ができるクラースさんに、つい仕事であるということを忘れ『俺が作ったってわかるようにしてんのに、これなんか意味あるんですかね』と、生意気なことを言ってしまった。
あ、しまった。さすがに怒られるかも、と身構えたそのときに『そう思うでしょ? でもこれは万が一、ミスしたときにオレが責任取れるようにするための証明だから。だから毎回ちゃんと貰いにきてね』と、にこっと笑って返された。
その瞬間、心臓が急に痛くなった。どこか具合でも悪いのか、父さんは特に心臓が弱かったからな、と悶々と悩みながら仕事を続けていたのだが、それは感動したせいなのだと気づいたのは小一時間も経ってからだった。
工房はどこもそうだと思うが、手元に集中していないと大変な事故になることがある。よく切れる刃物を扱うため、このくらいは良いだろう、が大怪我を招くのだ。
あの工房で指を欠けさせた人がいる、その工房では腕を失う寸前だった、なんて話もたまに耳に入ってくる。
だから先輩方は普段いくら穏やかでも、仕事中はかなり厳しい。まだ色々と覚束ない新人は、怒鳴られるのが仕事なのかと錯覚することもある。
しかし俺は顔が怖いだけでなく、雰囲気までもが怖いというのに定評のある男。そのおかげだと言っていいのか、直接誰かに怒鳴られるというのは親以外にはほとんどなく、今までずっとそうだった。
この仕事場でも、どこか一歩引いているような先輩方のその対応。それは同じ新人仲間からすれば、あいつだけは一目置かれているのだという風に見えていたのかもしれない。
実際、『どこか他の工房で働いてました?』と、
俺はなんとなくわかっていた。一目置いているわけじゃない。あまり関わりたくない感じがするから。なんだか嫌な予感がするから。でも言うべきことはしっかり言わねば。
つまり先輩方は、不満と不安を溜め込んでいる状態なのでは。俺としては遠慮せず、もっと声を張り上げてくれても構わないのに、と思ってはいた。
ある新人が、かなりまずいミスをした。最初に削る形を間違え、それを数個とはいえない数で量産してしまったのだ。
材料が駄目になれば、その分工房の損になる。客先から来る苦情よりかはマシな失敗ではあるのだが、彼が今叱られることは確定である。
顔色を悪くしながら小さな声で『どうしよう……』と零すその新人にクラースさんは、『大丈夫、オレがなんとかして仕上げるから。それでもダメだったら叱られるのもオレがやる。食堂でお茶でも飲んでゆっくりしてきて。ほら、慌てない。歩いて行きな。気持ちが落ち着いたら戻っておいで』と女神のような笑顔を見せた。
ミスしないのが一番だが、俺一人だけ注意はされても激までは飛ばされない。そうやって少し距離を置かれている間に、仲間に技術面で置いていかれて、それに追いつけなくなる不安があった。
そしてあの新人のように、庇ってもらうようなこともおそらくない。きっと叶わない。どうやっても態度がでかく見えてしまう俺なんかじゃ。
あいつ、すぐに顔色復活してたな。クラースさんをより好きになっただろう。気持ちはわかる。でもどうしよう、あいつとクラースさんの仲が、俺との関係よりずっと強固なものになっていったら。
そしてクラースさんも今までみたいにちょっと仲良くなったかと思っていても、やっぱ怖い、と口には出さずとも俺だけがわかる微妙な態度でそっと離れて行ってしまったら。
不要な我慢をさせてしまっている先輩方への申し訳なさ。クラースさんの、部下への優しく温かな対応。それを一身に受けていた、新人仲間に対しての羨ましいという気持ち。
危ない。一度にいろんなことを考えすぎて、一瞬意識が飛んでいた。今は危険物を触ってるんだぞ、集中しろ、指を失くしたくないんだろ、と自分に何度も言い聞かせ、その日は無駄に消耗した。終わったあとは疲れ切ってヘトヘトになっていた。
「クラースさん、あの……すみません、サインください」
「うん……ああ、ジルくんか。じゃあ検分するね。そこで待ってて」
仕事だから仕方ないのだが、今話しかけるのには躊躇した。クラースさんは卓に肘をつき、頭を手で支えながらウトウトしていたからだ。顔が髪でほとんど隠れて、表情もろくに伺えなかった。
彼は俺以上に疲れていた。今日、不良品候補を大量に作ってしまった部下の尻拭いを直前まで指導と並行してやっていたのだ。
工房長に見つかって面倒なことになる前に。そんな彼の姿は面倒を避けるためというよりも、落ち込んだ部下の励ましだけに労力を割いているようだった。
いつも真っ直ぐな髪が少し乱れているのが珍しく、顔にかかっているのをそのままにしながらサインをしている。ほとんど目をつむっているが、ちゃんと見えているのだろうか。いや、見えてない。ミミズがのたくった文字で、枠から盛大にはみ出ている。
「クラースさん、もう仕事終わりですよね? 部屋にこのまま戻られます? 肩お貸ししましょうか」
「ん……、いい。ありがと。もうちょっとしたら行く……」
「でもうっかりしたら、食堂閉まっちゃいますし。俺がおばちゃんに夕食包んでもらって持って行きますんで、先に部屋行ってシャワー浴びといてください」
「ん〜〜……ありがと……そうする…………」
目を擦ってあくびをし、ため息をつきながらゆっくり大仰に立ち上がったクラースさんを見た瞬間、彼がこのままこっちに寄りかかってくればいいのに、そしたら俺が堂々と抱えて運べるのに、と想像した。やけに生々しい画が浮かんだ。
ぐっ、と肩に手を置かれてドキッとし、ほんとに来るか、と少し腕を広げて支えるための体勢にしたが、彼はそのままよろよろと廊下を歩いて行ってしまった。なぜかその姿が見えなくなるまで、俺は彼の背中を見送っていた。
いつも沢山食べているからと、食堂のおばちゃんに盛りを勢いよくしてもらった詰箱をいくつも入れた籠を持ち、クラースさんの部屋を訪ねた。ノックをしても出てこないのでまさかシャワーも浴びずにその辺で寝てるんじゃ、と不安になってきた頃に前触れなく扉が開いた。
ふわん、と石鹸のいい香りとお湯の湿気が先に俺を出迎えた。いつも真っ直ぐな髪が束になって、パラパラと散らばり曲線を描いている。顔色だけは少し良くなって肌は温かそうなのに、表情だけは疲れて冷え切り、いつもの笑顔は消えていた。
夜着は羽織っているだけで、前はゆるくはだけている。昼間とは違うその姿が、何とも表現のしようがない色っぽさとして感じ取られ、俺は今なんと声をかけようとしたのかわからなくなってしまった。
多分、『これ夕食です』とか何とか、何の工夫もない台詞を口にしていた気がする。
俺が差し出した籠を見て、ふわりと彼が笑みを漏らした。『助かる。ありがとね』と言われたのはハッキリと覚えている。
扉が閉まってしまうのが、もったいないと思っていた。その変な間をクラースさんは俺が心配している様子を見せたと取ったのか、『大丈夫だよ。疲れてるだけ。心配してくれてありがとね。おやすみ』と、微笑んで手を振ってくれ、自然と扉は閉められた。
いい匂いと彼の姿が扉の向こうに行ってしまった。すでに扉の向こうどころか、雲の上の遥か遠くへ行ってしまった父親をふと思い出し、俺は寂しいのかなあ、と今思えば近いようでかなり遠い、見当違いなことをその場でしみじみと考えていた。
もっと近づきたいだの、触れたいだの、使う言葉は全く一緒でも親子愛とはかなり異なっていたこの感情。自分は鈍い方ではない、と昔から自覚はしていた。人から少し距離を置かれるちょっと悲しいこの体質は、慣れて諦めさえつけられれば冷静さを持ちやすいという長所となる。
その自覚という名の思い込みと、長所にもなり得る、という自分を慰めるための方便こそが、気の遠くなるほどの遠回りを始めてしまった要因のひとつだろう。
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いつも真面目に仕事してる人が、疲れてぐったりしてるとこって良くないですか。色気感じません?あーなんか沢山書いて疲れちゃった。今日二時間しか寝てないわー。あー疲れた。疲れ果てたー。
うっさい寝ろ、と思われたお嬢さんは星とフォローお願いしまーす!
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