第3話 目前に集中せよ
仕事自体には慣れてきた。初月の給料を頂いたあと、母に仕送りしてしまうとやはり少々心許ない額にはなる。
俺の家の事情を色々と話していたクラースさんはそれを察してくれたらしく、毎週の休日の夜に食事に誘ってくれるようになった。ありがたいことに、全て彼の奢りである。
最初はそこまでしていただくわけには、と固辞していたが『一人で食べてもつまんないじゃーん』と、半ば強引にだが連れ出してくれるのだ。本当にありがたい。いい人すぎる。
最初は良い方だと思っていた給与額だが、病気がちとはいえ働いていた父の穴埋めにはあと一歩と少し届かない。二馬力では限界がある。
給与額を上げるには、まだまだ時間がかかるだろう。魔道具は日々、進歩し続けている。牛の歩みではあるのだが、明るい未来が待っている。
でも俺はといえば。生身の人間、これから体力がなくなってゆく一方である。そして母は、俺より先に働けなくなる。昇進するまで続けられるか。ひとつ不安が消えたのに、またそんな不安が出てきてしまった。
「将来何が起こるかなんてわかんないよ。オレは来週解雇されるかもしんないし、ジルくんは転職することになるかもしんない。そんなの誰にもわかんなーい」
「そりゃそうですけど。でもそうならない可能性もあるわけで。もっと切り詰めて貯金した方がいいかなとか、何か始めておいたほうがいいのかなとか」
せっかくの慰めの言葉も話半分に聞きながら、投資なんていっても元手がないですけどね、と俺は言っても仕方ないことをぼやいていた。
お酒がなくなっちゃったなあ、と俺が気づく前にサラッと『何飲む?』とクラースさんが勧めてくれる。いい人だ。いい人すぎて泣けてきた。いや、マジでちょっと涙腺が弱くなっている。どうした俺。
クラースさんが時々来るというこの店は、民家そのものにしか見えないような店構えだ。最初は人の家に勝手に入るような感じがあってキョロキョロしてしまったが、いざ着座してしまえば実家に帰ってきた感があり、それがなんとも面白く居心地のいい空間だった。
客間というより家族の誰かの自室のようなこの席は、すぐに馴染んで寛げた。ソファーの上には母親が手縫いしたような、カントリー調のカバーがかかったクッションが。祖母の代からありました、というような年季の入ったテーブルは、綺麗に磨き上げられている。
母親やその娘が選んで買ってきたような、ちょっと可愛いデザインのグラスを傾けたクラースさんが落ち着いた声で続けてくれた。
「今やってることに集中したらいいんだよー。そしたらいずれ不安は消えちゃう」
「まあ、そうですね。まず仕事をしっかり覚えないと話になりませんよねえ」
「んーん、それもあるけどちょっと違う。ジルくん前にさ、とりあえずその場から逃げるために作文頑張ったことあるじゃない。それは結局どうなった?」
かつて冤罪をかけられた挙げ句、勝手に課題を課せられるという理不尽な現実から逃げるためにひたすらペンを走らせた。
作文、というかもはや俺の作品である紙の束。最初は嫌々だったし自棄っぱちでもあったのだが、書いているうちに熱中してしまい、毎度なかなかのものが出来上がった。
結果的にそれは教頭先生の目にとまった。高い評価を得ることができた。その実績のおかげであの紙束を交渉のために使えることを確信したし、不純な動機の達成のためとはいえ、ちょっとした大作を最後まで書き上げることができたのだ。
クラースさんが言いたいことはそれだった。遙か先の目的のために日々の我慢を繰り返すのではなく、その過程である目の前のことに集中する。それが結果的に思いがけない良いことを得られるのだと。
我慢が付随してしまうとその効率はやはり落ちる。集中しているとそうならない。嫌々でしかない行動と、没頭し熱中している行動を比較する。
良い結果が得られそうなのはどちらになるか。それは火を見るよりも明らかだと。
「どうせ誰にも先のことはわかんない。だったら今、目の前にあることに全力を出して楽しむこと。そしたら不安を感じる暇なんてなくなっちゃうよ。わりとすぐ幸せになれる上にさあ、輝いてる人ってのはそもそも周りがほっとかない。そんでいずれはー……、めでたしめでたし」
「なんかちょっと納得しました。焦ったらダメですね。焦るとほんと良いことないんで」
「まあ、組織で成り上がろーってんならまた違った考え方もあるけどさ、まだちょっと時期尚早かも。今、君の上はオレだしさあ、ちゃーんとオレの言うこと聞くんだよおー。わかりましたかー、後輩くーん」
「クラースさん、聞いていただいてほんとに有り難いんですが、今日はもうこれくらいにしときましょう。体がめっちゃ傾いてるじゃないですか。わかってます?」
俺は多分泣き上戸寄りであり、クラースさんは笑い上戸寄りである。彼は普段からニコニコとしているが、飲みが進むにつれて最初は頬杖をつく程度であった身体の傾き加減が、どんどんと深くなってくる。
その表情は花が咲き零れるようになる。目蓋は少しずつ伏せられて、ゆっくり閉じては開く仕草を幾度となく繰り返し、まるで夢でも見ているかのようになる。
まるで見えない誰かに甘えているようなその姿を、近くで見るのが好きだった。このテーブルがなくなって、もっともっと近づいてしまえば一緒にいい夢を見られそうな気がしていた。
今思えば、このときからもう心理的にかなり接近していた。まさか自分が、この年上のお兄さんの着ているものに手をかけることになろうとは。このときは全く想像だにしていなかった。
ただ自分の視界に入れること、彼の視界に入れてもらうこと。やはり俺は父親を亡くしたわけだから、そんな親に構ってもらいたがる子供のような欲求を持て余していただけであり、そういう欲に違いない、なんて早々に結論付けていた。
その結論は、ある日を境に覆る。くだらない嫉妬が種火となって。それを知る由もない俺は感傷に浸ること、それにある意味夢中になっていたのかもしれない。
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