4 慟哭 ×
その夜は眠れなかった。薄い布団に潜り込んでからもなかなか眠りが訪れてくれず、安らかな寝息を立てている姉の隣で悶々と天井を眺めていた。うとうととまどろんでは目覚め、まどろんでは目覚めという過程を何度も繰り返し、ようやく眠りについた時は真夜中を過ぎていただろう。
ふと目が覚めた。どれだけ眠ったのだろうか。小さな窓から見える空は淡い藍色で、夜と夜明けの間の時間のようだった。もう一度眠ろうと目を閉じる。眠ろうとするたびに目が冴えていき、私はため息をついた。ふと隣を見て、私は驚いて目を見開いた。姉がいない。水を飲みに行ったのかと思ったが、布団がしっかりと畳まれている。こんな時間になにをしているのだろう。不安になってベッドから出た。母を起こさないように足音を忍ばせ、きしむはしごを降りた。
「……姉さん?」
一階には一部屋しかない。ろうそくは消えていて、姉がいる気配はなかった。煌々と眩しい月明かりが窓や戸口、煙突穴から差し込み、家の中を銀色に浮かび上がらせている。姉の姿はない。私はそっと玄関の扉を開けた。さあっと風が吹き、寝巻きの裾を揺らす。
裸足のままポーチを降り、そして目の前に広がった光景を、私は死ぬまで忘れないだろう。
姉が、固い土の地面に倒れていた。姉の細い身体の下には奇妙な色の水たまりが広がっている。それが血だと気づくまで、しばらくもかからなかった。姉の腕に爪を食い込ませ、肩に噛み付いている黒い影。それは雄牛のように大きく、そこだけぽっかりと空間が開いたように見えるほど黒かった。狼が顔を上げた時、ぎらぎらと輝く黄金の瞳が私を捉えた。
目の前が血の色に染まる。思考が停止し、何も考えられない。自分の荒い呼吸音と鼓動がやけに大きく響いている。手が勝手に動き、気づけば階段に並べられていた素焼きの兎を持ち上げていた。大きく振りかぶり、私はそれを思い切り投げつけた。鈍い音とともに、狼の頭に命中する。しかしそれは何の功も奏さず、狼は怒りのこもった目で私をにらんだだけだった。後ろ足に力がこもり、跳躍の準備をしているのが見えた。剥きだされた牙と爪は、まっすぐに私を狙っている。唾液が細い線を引いて、牙と唇の間で伸びる。死を覚悟したその時、ふいに狼は体の力を抜いた。
何を思ったか、狼はくるりと元の位置に戻り、私に見せつけるように姉の右腕を食いちぎった。血飛沫が上がり、姉が背をのけぞらせて悲鳴を上げる。その金の目は、不思議な光をを帯びて残忍に見開かれている。私は気づく。
――嗤っている。
狼は、嗤っていた。昆虫をいたぶる子供のように、狼は何の罪悪もない目で嗤っていた。そして愉しんでいる。姉をなぶって、私がどんな反応をするのか眺め、愉しんでいるのだ。
これはなんだろうと、私はぼんやりと思った。これは、目の前にいるのは、ただの大きな狼などではない。残虐な知恵をもつ怪物だ。最後に見たときと同じ姿をした、私たちの敵だ。
最後に私を一瞥し、鮮血の滴る腕を咥えあげる。そして狼はあっという間に姿を消した。白茶けた世界の中で、姉の血だけが生々しい色を放っていた。
「姉さん!」
私は階段を駆け下り、姉の元へ駆け寄る。寝巻きのひらひらとした裾を破き、濁流のように血が溢れ出す腕に押し当てる。ぎざぎざに波うつ断面からは、白い骨が生白く飛び出していた。血は止まらない。私は半狂乱になって素手で傷口を圧迫しようと身を乗り出す。
「誰か……!」
喉が渇いて張り付き、声が上手く出ない。舌も石のように硬直し、思うように動いてくれない。
「絶対助けるから死なないで」
かろうじてその言葉が飛び出した。血が止まらない。触れ合っている身体が冷たい。姉を助けたい。助けたい。助けたい。死なないで、息をして。それなのに姉の身体はどんどん冷えていく。あんなに優しかった瞳から光が消えていく。薔薇色にふっくらとしていた頬や唇から色が失せていく。
「なんで叫ばなかったの。なんで外に出たの──!」
責めたいわけではないのに、どんどん声が大きくなり悲鳴に近づいていく。姉の唇がぴくりと震えた。乾いた血がこびりついた白い喉が、ゆっくりと上下する。掠れた小さな声が漏れた。
「だって、悲鳴を、あげたら。あなたが、来てしまう、でしょ」
何故。
何故だ。
何故、自分の命さえ危うい時に、こんなに人を思いやれるのか。どんな余裕を持てば、そんなふうになれるのか。こんな時まで優しくしなくていい。喉元まで出かかったその言葉を必死に飲み込む。その代わり、大粒の涙が次々と頬をつたい、顎から滴った。
「──姉さん」
反吐が出る。あの狼は、私を殺さなかった。あの狼は、残された者がどんな思いをするのか知っているのだ。殺されるよりも辛いことがこの世にはあると知っているのだ。全身から力が抜けていく。怒りと憎しみと悲しみがないまぜになり、言葉さえも出てこない。ただ、涙が止まらない。ぽたぽたと雫が落ち、姉の頬で揺れる。姉が左手を上げ、私の頬に触れた。氷のように冷たいその指先は、細かく震えていた。
「ルビー」
「姉さん。いかないで。嫌──こっちをみて!」
愛してる。
それが、彼女の最後の言葉だった。瞳から完全に光が消え、左手が人形の腕のようにばたりと地面に落ちる。硬く、冷たくなっていく。私の喉から、うめきとも悲鳴ともつかない声が漏れた。震える手で姉の頬に触れる。陶器のように滑らかで、そして氷のように冷えていた。
ぱたぱたと涙が数滴地面に落ちて、あっという間に吸い込まれていく。後には何も残らない。しっかりと握りしめていた大切なものはいつも、両の指の隙間から溢れていってしまう。
燃えるような熱が、身体を包み込む。私は姉の頭を抱え、膝の上で抱きしめた。火のような熱であぶられる。絶望が噴き上げ、骨と肉を突き破って溢れ出す。響き渡った獣のような叫びは、私の喉から出ているのだと気づく。
夜が終わっていた。太陽が昇り始めているのに、私はまだ夜に取り残されたようだった。
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