5 決意 (2023 8.2 改)

 それからのことは、あまり覚えていない。すべてが夢の中にいるように曖昧でぼんやりとしていた。人の声が水の中にいるかのようにくぐもって聞こえ、身体の中が乾ききって涙さえ出てこなかった。

 姉の深い緑の瞳を閉じ、傷口を洗って清潔な布で縛る。長い金髪を梳かして編み込み、生きているときのように美しく整える。家族が最後にできることだ。私は一人でそのすべてをやりとげた。母は大げさなほど涙をこぼし、恨み言を吐き、自分の殻に閉じこもったからだ。柔らかい苔を敷き詰めたベッドに寝かせ、百合の花を添える。扉が叩かれた。

「こんにちは」

 エミリアと、鍛冶屋の娘のコゼットだった。コゼットは鍛冶屋の娘というよりは、洋服屋の娘のようにお洒落だ。身にまとう喪服でさえもディナードレスのように見える。二人は出迎えた私をぎゅっと抱きしめた。

「――ローズまで襲われるなんて。ああ、ルビー」

 私はゆっくりと友人の背中に腕を回した。ありがとう、と言いたいのに声が出てこなかった。二人は安らかに眠っているように見える姉に手を合わせ、純白の百合を捧げた。ちらりと顔を上げると、ベッドで横になる母の後姿が見えた。起きているのか眠っているのかはわからない。

「元気を出して」

 コゼットが、覚えのある言葉を口にした。思えば、ジャクリーンに放った言葉と同じだった。その言葉は空っぽになった心に落ちていき、跡形もなく消え失せた。そんな慰めは、虚ろになった心を慰める役にはちっとも立たないのだと、同じ体験をしてやっと気づく。

 また扉が叩かれた。

「私が出てあげる」

 エミリアが言って、椅子にバスケットを置いて出ていった。戸口から現れた男を見て、私は息を飲んだ。麦わら色の柔らかい髪と、整った彫の深い顔立ち。空のように青い目は、大きな宝石のようだ。ハワードだった。

「ルビー、ご愁傷様だったよ」

 悲しそうに眉を落とし、彼は言う。私はコゼットから離れ、一歩後ずさる。とっさにはしごに取りつき、かつて姉のベッドが置かれていた屋根裏に逃げた。ハワードに会ったのはフランクの葬式以来だった。逃げるなんて、とても失礼だということはわかっている。それでも私はどうしても、ハワードの前で健気ないい女でいることはできなかった。

「ルビー、何してるの」

 厳しい声が肩越しにかけられた。振り返ると、寝間着姿の母がいた。ふっくらとしていた頬は青白くすぼみ、頬には涙の跡が張り付いている。いつもの姿とは程遠い、悲しみに支配された顔だった。母の目は森の緑と同じ色をしている。そして姉もそうだった。淡い金髪は私も受け継いでいるけれど、目の色は父と同じ赤色だ。姉と母はそっくりなのだ。己の片割れのような姉を失って、母は――。

「ハワードが来ているのよ。下へ行きなさい」

 そう言われても、私はどうしても動けなかった。ハワードと口をきけば、彼と距離を縮めることになる。私がよほど悲しそうに見えたのか、母はようやく私に道を譲って見せた。そして私の隣に腰を降ろし、しみじみとした声で語った。

「ルビー、私も最初はお父さんのことを愛していなかった。でも、ずっと一緒にいるにつれて、だんだん好きになれた。おかげで、二人も美しい娘を授かることができた」

 私の頬に手を滑らせ、母は目を潤ませる。

「ね、ルビー。こんなことを娘のあなたに言いたくないけれど、ハワードと結婚すればあなたは幸せになれるの。お金に不自由しない。冬だって寒い思いをしなくて済む。ハワードもあなたを愛してくれるわ。それに――」

 母は寸前で言葉を飲み込み、また穏やかに言った。

「うちにはもうあなたしかいないの。お願い」

 きつく唇をかみしめた。姉をなくした直後に、こんなことまで考えたくない。母の飲み込んだ言葉は容易に想像できる。

 それに、ハワードの財力にあずかることができる。

 

 今までは姉が主に稼ぎ、家を支えてくれた。それは姉の穏やかな人柄で仕事の輪を広げ、そこで素晴らしい機織りの腕を生かしていたからだ。しかし私の中に、姉と同じものは一つもない。近所の女性や母と円滑に付き合っていく自信もなければ、美しい模様を生み出すこともできない。姉の劣化版のような私にできること。ハワードの結婚しかない。

「――でも、私には何があるの? 姉さんみたいに優しくもないし、機織りや料理もうまくできない」

 最後は涙声だった。けれど涙は出ない。母は私を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。

「ルビー、ルビー。あなたには美しさがある。人を惹きつける美しさ。女として、それは機織りや料理なんかよりもよっぽど男を魅了できる材料になるの。ね?」

 母の乾いた手が私の頭を撫でる。髪を包み込み、そっと滑らせる。荒れた手のひらが、服の繊維をひっかく音がする。

 息もできなかった。美しさ。お金。立派な家。そんなものよりも、私は愛がほしい。愛してもいないのに、結婚などしたくない。けれど、母の言うようにうちにはもう私しかいない。



 一晩が経ち、姉の遺体は早朝に家から運び出された。教会での儀式が終わると、姉は暗い墓穴に納められた。湿った土がかぶせられ、木の棺はすぐに見えなくなる。最後の祈りが終わった瞬間、列の先頭に立っていた男が大きな声を上げた。村で一番大きな家に住み、一番金を蓄えている男。先代の村長が亡くなり、この男が後を継いだのは、ほんの一年前のことだ。村長の実の息子らしかったが、母親に引き取られたことで育ちは街だ。生まれてこのかた斧も鍬も握ったことがないという噂は本当のようだった。この村の生活に不満を隠そうともせず、でっぷりと太り、常に赤ら顔をしている。酒臭い息で若い娘に触ろうとする姿は、とてつもなく汚らわしかった。

「大狼の被害はこれで二度目だ! 今、十年前と同じ悲劇が繰り返されようとしている。我々は、何としてでもこの悲劇を食い止めねばならない。今夜狼狩りに出る」

 尊大な口調で締めくくり、村長は周囲を見渡した。女たちの間にざわめきが広がり、男たちでさえ顔を見合わせてささやきあっている。

「大狼を俺たちで仕留めるなんて無理だ!」

 誰かが叫んだ。村長はきっと眉をつりあげ、怒鳴り返す。

「どれだけ大きくとも、多勢に無勢、束になってかかれば問題なかろう!」

 神聖だった儀式はあっという間に荒々しい空気で満たされてしまった。村長への怒りを抱え、ぎゅっと目を閉じる。

 目を開け、さりげなくジャックを探した。彼は男たちに混じって立っている。不満の声を上げる様子はなく、ただ唇をかみしめていた。私の手が小刻みに震えていることに気づいた。ジャックは、彼はきっと、この無謀な狼狩りに参加させられる。

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