2 大狼 ×

 2人で森を抜け、村に続く小道を走る。カヴァーホーンと綴られた板のかかる古ぼけた北門を抜けた時、私は村から滲み出る空気に慄いた。こんな空気は、葬式の時でも感じたことがない。悲しみと怒りと、そして恐怖が、村を支配しているのだ。思わず立ち止まりそうになった足を無理に地面から引き剥がし、私は走り続ける。四角に固められた干し草が積み上がる牧草地に出た。たくさんの村人が、輪を描くようにして立っている。そこがまさに、事件現場だった。

「エミリア」

 私は数人の女たちと寄り添って立っていた友達の肩を叩いた。エミリアが振り返り、私を見てばつが悪そうな顔をする。彼女を問い詰めている場合ではない。秘密をばらしたことなど、もはやどうでもよかった。

「誰が死んだの?」

 エミリアは茶色の瞳に悲壮感を滲ませ、低い声でつぶやいた。

「ジャクリーンのお兄さん」

 しばらくは言葉が出なかった。ジャクリーンは酒造家の娘で、兄のフランクはその跡取りだった。気の毒に、としか言えなかった。エミリアの隣からは、倒れているフランクがよく見えた。もう死んでいるということは一目見るだけで解った。その身体に覆い被さるようにして、ジャクリーンが肩を震わせている。艶やかな長い栗色の髪が大きく広がり、フランクの腹部を覆い隠している。

「どんな状態だったんだ?」

 ジャックが言った。エミリアが言葉を選びながらゆっくりと言った。

「――喉を食い破られていたんですって。見つかったのはついさっきで、死んだのは昨日の夜みたい」

 母から聞かされた大狼ダイアウルフの童話を思い出し、私はぞくりとした。月の明るい真夜中に、一人で外に出ていると、大狼がやってくる。牙は鋭く、鉤爪はまるでナイフのよう――。私は恐怖に支配されそうになり、慌ててその想像を打ち消した。

 男が一人、真剣な面持ちで近づいてきた。

「ジャック。準備だ」

 ジャックは軽く私の腕に触れた後、男たちについて歩き去っていった。

「後でお見舞いに行かないと」

 エミリアが言い、私は頷く。一晩自宅で安置された後、本格的に葬式が行われる。男たちは今から総出で村の小さな教会へ出向き、葬式の準備をするのだ。

「でもどうして大狼が。ずっと出ていなかったのに」

 私がつぶやいても、誰も何も言わなかった。ずっと姿を見せなかった大狼が、なぜ今頃姿を現したのか。私は唇をきつくかみしめた。




「ルビー、来てくれてありがとう」

 熟れた葡萄の香りが立ち込める大きな家に足を踏み入れると、物陰からフランクの母親であるリーサが姿を現した。彼女の顔は青ざめ、目はまだ赤かったが、気丈にも微笑んで見せた。私は何も言わずに頭を下げた。何を言っていいのかわからなかったのだ。どんな慰めの言葉も、今は腐臭を放つと思った。

 彼女に言われるままに、何度か通った店の中を歩き、初めて奥に足を踏み入れる。大きな酒樽の後ろに、ひっそりとした扉があった。叩こうと手を上げたその時、内側から扉が開いた。死人のように力のない顔をしたフランクの父アルフレッドだった。

「ルビーか。中へ入りな」

 私は扉の隙間から、小さな部屋に滑り込んだ。

 明かりはいくつかのろうそくだけの小部屋。白い布が敷かれたベッドの上に、安らかな顔をしたフランクが横たわっていた。喉元の傷には白い布が巻かれていた。獣に嚙まれたのだから見るに堪えない様子だということはわかる。

 彼の周りを取り囲むように、百合の花が添えられている。慰問客が、一人一輪置いていくのだ。私もフランクに近づいて、美しい純白のその花をそっと添えた。両手を組んで、彼の冥福を祈る。ろうそくの光がちらちらと揺れ、フランクの白い顔を照らし出した。深い影を作り、彼を彫像かなにかのように見せていた。

「……ジャクリーン」

 私は部屋の隅に置かれた小さな椅子に腰かけ、うなだれる彼女にそっと声をかけた。ジャクリーンは名前を呼ばれても顔を上げなかった。少し迷って、私は小さな声で言った。

「元気を出してね」

 外に出ると、私は大きく息を吸った。人が死んだときの空気は鉛のように重い。私はどうしても、その空気が耐えられなかった。外に出てもその雰囲気は変わらなかったが、少しは軽い。


 大狼。

 太古より生きる獣で、夜になると狩りを始める。巨大な体躯は岩のように頑健で、鉄をもはねかえす強靭な肉体を持っているという。黒い毛皮は悪魔を呼び、鋭い牙と鉤爪にかかれば、人はひとたまりもなくただの肉塊と化す。十年前まで、この村は大狼に襲われていた。闇に紛れて村に侵入し、影のように人を襲っては去っていく。

 家畜を襲うこともあるが、人を襲うことのほうが圧倒的に多い。それが食うためなのか、ただ傷つけるためなのかはわからない。無残に食い荒らされていることもあれば、一部が欠損しているだけのこともあったからだ。ルビーが生まれた時から大狼の脅威は日常の中にあり、その割に大狼が何を主食としているのかや、その起源は不明だった。謎に包まれているから怖い。対処法が分からないから怖い。ただ無暗に恐れるしかなかった。

 その攻撃は十年前に突然終わった。しかし警戒を解いたわけではない。狼の攻撃がやんだことで多少は気が楽になったのは確かだが、今でも夜遅くに出歩いたり、煌々と灯りをともしておく命知らずはいない。標的をほかの村に移したのだという者もいれば、いや、これは準備期間にすぎないのだと言うように、根拠のないうわさが流れた。


 私は深い青のビロードのマントをきつく体に巻き付けた。父が最後に、街から買ってきてくれたものだった。

 私の家は代々、伐採した木をきれいに整え、街へ売りに行くことを生業にしていた。街へ行くために父は長いこと家を空けた。そして大狼が消えたのと時を同じくした十年前のある日――父は街へ行ったきり、二度と帰ってこなかった。翌朝探しに出た村の男たちが、街への通り道になっている細い獣道で、血の付いた父のマントと帽子、そして母の作った鞄を発見した。中に入っていたのは、木材を売って稼いだ数枚の銀貨が詰まった袋と、空の水筒、そしてパンのかけらだけだった。傍には大狼のものとみられる巨大な足跡が残っていたという。父は、最後の犠牲者となったのだ。


 大きなフードをかぶり、人目をはばかるように自分の家へと急いだ。

 木と煉瓦で作られた小さな家。短い階段一段一段に鉢が置かれ、色とりどりの花はよく手入れされている。母と姉が、丁寧に家を守り続けてくれるおかげでまだ住み続けることができる。ただいま、と小さく声をかけて中に入ると、姉がぱっと席を立った。私から顔を背け、はしごを登って自分のベッドに戻っていく。私は驚いて思わず姉を目で追った。彼女の目は濡れ、泣きはらしたように腫れていたのだ。

「おかえりなさい、ルビー」

「お母さん、姉さんは――」

 母はちらりと姉の方に目をやり、小さく言った。その間も、母の手は休みなく針を動かし続けていた。

「フランクが亡くなったでしょう。それがショックだったのよ。可哀そうなローズ」

 しかし、それだけであんなに泣くだろうか。私はそう思ってはっと気づく。

「お母さんは知ってたの?」

 母は軽くうなずいた。母は布を持ち上げ、細い糸を嚙み切った。

「もちろんよ。ずっと前からね」

 姉は、フランクのことが好きだったのだ。

「向こうもローズを気に入っていたみたいだったのに。……勿体無いわね」

 母は私を見上げ、眉根を寄せた。まるで毒虫の名を口にするかのような低い声で、母は言った。

「あなたも早くハワードと結婚しなさいね。あんな男の子と付き合うのは辞めなさい」

 頬がかっと熱くなった。人の死を、勿体無いで片付けられる母。ジャックをあんな男の子、と言い捨てた母。嫌悪が募った。人に優しくしなさい。人が嫌がることはしちゃだめよ。そう教えた母は、自分の発言をどうとらえているのだろうか。

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