第一章
1 鐘の音
秋の終わり。森はすっかり乾いて黄金と赤に色づき、たくさんの実りを授けてくれる。私はどうしても家に閉じこもっていられなかった。母と姉の目を盗んで家から抜け出し、男たちが木の切り出しをしているであろう森に向かった。
さくさくと降り積もった落ち葉を踏み締めて、森の奥へと進んでいく。鳥や風の声がしっとりとした空気を震わせている。木漏れ日が、私の肌をくすぐって通り過ぎて行く。
しばらくして、斧を幹に打ち付ける鈍い音が、木々の間に反響して聞こえてきた。男たちが冗談を言い合いながら作業を進めている声も。その姿が見えるほどに近づくと、私は大きなブナの木の影に隠れて、ジャックの姿を探した。一番若く、一番輝いているジャックを、私はすぐに見つけることができる。
日当たりのいい岩の影に彼はいた。切り倒されたブナの脇枝を手斧で取り払っているところだった。捲り上げた袖から、よく日に焼けた筋肉質な腕がのぞいている。私とジャックは17歳になっていた。歳を重ねても、私たちは幼い頃と同じに仲が良かったし、これからもずっと一緒にいるのだと思っていた。誰に何と言われようと、私たちは離れない。
ジャックはすっかり一人前の男に成長し、黒い髪ときりりとした緑の瞳、そして逞しい体つきは勇敢な騎士のように精悍な印象を与えている。幼い頃から男たちを手伝い、森を駆け回っていたせいで体力もある上に仕事もできる。今では村一番の働き手だ。
「ジャック! 昼飯にするぞ」
どこからかそんな大声が聞こえ、私はさっと木の影に引っ込んだ。ここにいることが知られれば、母に言いつけられて面倒なことになる。でも、これはチャンスだ。私は男たちがあらかた消えて行ったのを見計らい、短く彼の名を呼んだ。
「ジャック!」
歩き出そうとしていたジャックがこちらを振り返り、眉を顰めた。私と視線がぶつかり、苦笑が彼の顔に広がった。
「お疲れ様ね。ジャック」
「また抜け出してきたのか」
私は微笑み、ジャックの頬に軽く口づけた。
「私が家の中で編み物をしてるような女の子じゃないって、あなたが一番知ってるでしょ」
いつもならジャックはここで、そうだなと頷いて、冗談を返してくれる。しかし、今日は違った。ジャックは顔を曇らせて、どこか投げやりにこう言った。
「聞いたよ。君とハワードの話」
私は顔をしかめ、一歩後ろに下がった。
「誰から聞いたの?」
ジャックはばつが悪そうに横を向き、やがて私の友達の名前を出した。
「エミリアから」
「エミリア? 絶対秘密って言ったのに」
私はゆっくりと踵を返し、ブナの大木の幹に触れた。きっと彼からは、私が拗ねているように見えたに違いない。拗ねていないといったら嘘になる。けれどそれは、酒場の娘であるエミリアが秘密をばらしたせいではない。ジャックは彼らしくない暗い声で言った。
「あいつと結婚するのか」
私はなにも言わなかった。そんなこと、絶対にありえないのに。ジャックが私を信じていないことに少し苛立った。幹を手のひらで擦りながら、私はぐるりと木の周りを一周する。
「まさか」
ハワードとの婚約は、母が勝手に決めたことだ。父が突然行方をくらましてから、うちは一気に貧しくなった。村の人たちの助けもあって、大きな不自由はなく暮らしているけれど、その暮らしをいつまでも続けるわけにはいかない。雨漏りのする屋根を直さなければならないし、税金だって納めなければならない。私が牧師の息子であるハワードと結婚すれば、貧しい暮らしからは解放される。お金もたくさん持っているし、何よりハワードは――見目がいい。
「あいつのほうがハンサムだし金も持ってる」
ジャックは冗談めいた口調で言った。
「私を試さないで。信じてくれないの?」
彼は肩をすくめ、数歩後ろに下がった。両腕を広げ、片眉を上げる。
「さあね。信じてないって言ったら?」
「信じさせるわ。どうすればいい?」
いたずらな笑みを浮かべて、ジャックを見上げた。ジャックは束の間黙り込み、そしておごそかな口調で言った。
「俺と逃げよう」
私は嬉しさと緊張で大きく飛び跳ねている胸を押さえ、おどけた調子を変えずに首を傾げて見せる。
「そうね。どこへ逃げる?」
ジャックは私の後ろに回り込み、明るく言った。彼の息が首筋に触れる。
「君の行きたいところ。海でも、街でも。村の連中が行ったこともない、新しい場所」
落ち葉を踏みながら、私の目の前に戻ってくる。彼はあの頃のように、目を細めて笑っている。この狭い村から抜け出して、好きなところへ。海や街。山や夢みたいに綺麗な森。私はそんな空想をめぐらせた。海はどんな色をしているのだろう。街にも羊や山羊がいるだろうか。
「怖い?」
ジャックの問いに、私は首を横に振った。
「いいえ」
「この村を捨てられる? 家族も」
私は頷いた。胸の中で、溢れるほどの言葉が渦巻いている。それがはっきりと形を成した時、私は口を開いた。
「どこまでも行けるわ。……あなたといられるなら」
ジャックはゆっくりと唇を曲げた。
「ルビーらしいな」
私は手を伸ばし、彼の鼻先を人差し指で軽く突いた。
「後から怖くなって逃げ出さないでよ、うぬぼれやさん」
ジャックの手が私の頬に触れる。斧を握る硬い指が、ゆっくりと髪を耳にかけてくれる。そっと唇を重ねると、焚き火の匂いのする風が吹き抜けた。唇を離し、笑い合う。彼に触れられる時間は、私にとって一番大切な時間だった。
「今から逃げれば夜まで気づかれないわ」
「じゃあ、馬を盗まないとな」
そんな軽口を叩いた、その時だった。
太く低い鐘の音が、爽やかな森の空気を激しく振るわせた。体中の血が引いていくのがわかった。烏たちが羽音を立てて飛び立ち、騒々しく鳴き交わしながら去っていく。ジャックの腕をきつく握りしめると、ジャックが村の方を振り返った。青ざめた顔でつぶやく。
「早く戻らないと」
この鐘の音が意味すること。それは一つしかない。
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