エピローグ



【数年前】



「私、結婚するの」


久々の姉との食事。


小洒落たカフェの窓側で、竹花心呂はそう切り出した。


その左手薬指には、指輪が光っている。


「……へぇ」


一瞬耳を疑ったが、そういえば、彼女ももう結婚してもおかしくない年か。


俺は目の前のコーヒーの水面を見つめる。


不機嫌そうな無表情な男の顔が、コーヒーに反射した。


その男が口を開く。


「どの人?」


どの——とは、彼女に持ち込まれる大量の縁談を指している。

心呂あてにとどく熱狂的で打算的なラブレター。


その数が凄まじいことは、俺も知っていた。


「どのって……あぁ、そういうことね」


彼女は紅茶で唇を濡らした。


そのやたらと洗練された動きに、いく当てのない苛つきを感じる。


紅茶を置いた彼女は、さらりと言った。


「縁談は全部断ったわよ」


「……は?」


俺は目を瞬く。


「相手は学生時代からの友人。

プロポーズは私から」


端的に、彼女は俺に答えをくれる。


なぜ?

そんな言葉が浮かんだ。


大物と結ばれようものなら、心呂にとっても得なはずだ。

……そう、周りからも望まれているはずだ。


彼女はそうした望みをちゃんと全部叶える人だった。

俺とは違って。


なのに、どうして。


「どうして……」


漏れた呟きを、彼女が拾わないわけがなかった。


「どうしてと言われても、しょうがないじゃないの。

……強いていうなら、を受け入れる覚悟が出来たから——」


「ふざけやがって」


訳が分からない。

俺は彼女の言葉を遮った。


気がつかない間に、俺は立ち上がっていた。


「ふざけやがって……ふざけやがって!

何で……何で自分だけ……!」


違う。


こんなのは“竹花心呂”じゃない。


散々俺の幸せを遮って。

散々俺の行先で光を浴びて。


それなのに、一人だけ逃げるだなんて。


「……」


心呂はどこか冷ややかな目で俺を見つめていた。


「楽都」


彼女が俺の名前を呼ぶ。

どこか諌めるような、凛とした声。


「私は……楽都の思っているような人じゃない。

楽都も、私の思っているような人じゃない。多分だけど」


俺はゆっくり腰を下ろす。


「……それが?」


俺は息を整えながら聞き返す。


心呂が少しだけ身を乗り出した。

そして、頬杖をついて笑う。


「好きにやりなよ、楽都。

私は止めないからさ」


——それは、俺の思っている笑顔じゃなかった。


上品なイメージとは程遠い、むしろ少年のような笑み。


だが、すぐに彼女は元の澄ました顔に戻った。

立ち上がった彼女は、伝票をさらう。


「……それだけよ。

お金は私が払うわね。

可愛い弟に払わせるわけにはいかないもの」


そうして、俺は一人席に取り残された。


……馬鹿みてえじゃん。


口先だけで、呟く。


知らねえよ、姉があんな笑い方出来るだなんてさ。


何も知らねえよ。


そんな奴を、知ったフリして散々悩んでたなんて。


そんなの、馬鹿みてえじゃん。


「……はっ、やってやろうじゃねえの」



夢から醒めないと。


それが初めてだった。

そう思ったのは、そこが初めてだった。

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逆夢の獏は夢を見ない 灰月 薫 @haidukikaoru

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