横顔
満つる
横顔
死にたそうな顔というのが仮にあるとして、それがどういうものか正直私には分からないけれど、少なくともこういう顔ではない気がする。
千晶の話だ。
平日の昼、駅ビルのトイレの鏡の前。何かの歌詞を口ずさむみたいにして、「死にたい、な」、千晶は言った。今さっきドラッグストアで買ったばかりの新色のグロスを塗りながら、横に立つ私にだけ聞こえるような声で。
横から
それでもこの言葉を耳にしたらいつだって、私はすぐに目だけを横に向ける。そこには必ず千晶の顔があって、いつ見てもきれいなのにこういう時はそれこそ特別きれいに見えて、それなのに見る度になぜかからだの奥底がひりひりと痛んで、だからすぐに目を逸らさないとと思ってしまうその横顔を、私は今までに何度こうやって見たことだろう。きっと1000でもきかない。
塗り重ねたグロスの色がこれ以上はないくらい千晶に似合って見えて、やっぱり同じ色買おうか、いやでも私にはその色は微妙に合ってなかったしな、そんなことを横目で見た後、考えていたら、ヘタしたらこっちの方が死にかけみたいな顔になってる気がしてくる。
30年後にも千晶が同じように私に言っているかは分かるはずもないけれど、少なくとも今現在私の横にいる千晶は「ねぇ喉渇いてこない?」とか「この後ネイル見に行こ」とか、そういういつも話してるのと変わらない調子でこのきれいな横顔を何ひとつ歪ませないまま流れるように「死にたい」って突然口にするから、今日に限らずいつだって私は相づちすら打たない。って言うか打てない。
暑い
眠い
ウザい
かわいい
そういうのと同じように口にする
「死にたい」。
この広い世界の中には『死』が日常に溢れている国や場所が少なからずあることは知識として知っているけれど、そうしてそれは地球の裏側にだけでなく私たちが住む場所からそう遠くない所にだって存在しているという事実も無論知っているけれど、それでも私のまわりには(多分これはとても贅沢なことで恵まれているのだろう)『死』なんてものはそう簡単には見当たらない。17年生きてきて同級生で死んだ子はまだひとりもいないし、同級生じゃなくても学校という枠の中でひとの『死』を聞いたのだって3回だけだ。それも事故や病気などで、自分から死を選んだ人間はもちろんいない。
身内でだって『死』を見たことはない。両親は元気だし、兄弟はいないし、祖父母のうち三人は私が生まれる前もしくはごく小さいうちに亡くなっていてその記憶はなく、唯一の母方の祖母は健康的なひとり暮らしを満喫している。母親も私と同じく一人っ子で、だから叔父叔母従姉妹は父方だけで、それも前回会ったのはいつだったかすぐには思い出せない程度の付き合いで、皆様変わらずお元気らしい。何よりだ。
「何かあった?」
「んーん。何も」
実際、進学校としてそれなりに有名な中高一貫女子高の生徒なんて、朝起きて学校行って授業を受けて友人各所と他愛ない話をしながら甘いものなど食べ、私や千晶は部活も委員会も入らないまま高校生活も残り半分強、バイトをする必要もなく塾の合間に適当に友人たちと遊んで家に帰って勉強してスマホをいじって寝るだけだ。何もない。
何かあったとしても、通学電車でいつも隠れ見してくる男子校生徒の視線が鬱陶しくて乗る電車を変えたとか、ここの所、模試の成績が今ひとつで親にそれとなく心配されてるとか、その親は何があったか知らないけど夫婦げんかか何かしてたらしく一ヶ月くらい家の中がぎすぎすしてたとか、春休みに美容整形で二重まぶたにした子がクラスにいたのを今頃知って驚いたとか、そんな感じで死にたくなるようなことは何もない。何もだ。
「いつも通り、かな」
ああ、ほんとに。今日も明日も明後日も、いつだって私たちは『いつも通り』だ。『いつも通り』平和で幸せで贅沢で『死』なんてこれっぽっちも現実味がない。それなのに千晶が歌うように呟く「死にたい」を耳にする度、私のからだは静かに静かに悲鳴をあげる。
今日でテストが終わったから、明日からはしばらくテスト休み。その後にテスト返却と申し訳程度の申し送りがあって、そうするとまたすぐに今度は夏休みに入る。
「だから、」
「ん?」
「何か歩きながら食べてかない?」
「何かって、何?」
お腹空いたこれじゃ家までいや駅までだって持たない、そう言い合って学校を出る前に購買で私はピザパンを、千晶はチーズ入り蒸しパンを買って食べていた。
「アイスとかアイスとかアイスとか、」
それって『何か』じゃなくってアイス一択じゃないの。そう突っ込みたかったけれど、テストで散々、選択問題も解いてきた後だけにそんな無粋なことは言わない。代わりに、
「アイスじゃなくって、ソフトクリームが食べたいなあ」
「えー?
「何で?」
「だってソフトクリームって意外とお店ないし」
「そんなことないって」
ほら、と全国チェーンのコンビニの名前を挙げる。ソフトクリームって言ったってあそこのでいいんだから。コンビニだから外歩きながら食べるのにちょうどいいでしょ、アイスだって置いてあるし。
「んー、そうかなぁ」
それでも千晶はまだどこか不満げだ。
「私は〇〇のアイスが食べたかったんだけど」
アイス一択かと思ったらそれどころじゃない有名店一択って、どっちがどれだけわがままなんだか。
「この駅ビルに入ってるあそこのアイス買って食べながら、一体どこまで歩くつもり?」
「駅のホームまで」
あんまりな答えにうっかり笑ってしまった。
「だーめ。それなら付き合わない」
「え? 何で?」
「そんな所歩くんじゃ食べた気しないもん。そもそもあそこのアイス高いし」
「明日から休みだからちょっとくらい高いの食べたって良くない?」
「塾はあるでしょ」
私の答えに千晶は頬を膨らませて黙った。
「それこそ明日から学校は休みなんだから、せっかくだから外歩きながら食べようよ」
我ながら悪くない誘い方だと思った。あの呟きを聞いた後はいつだって、できるだけ長く千晶の側にいたかった。
膨らんだ頬を指で突いてから、その手で千晶の腕を取った。千晶はすぐにあさっての方を向いたけれど腕は振り払おうとはしなかったから、組んだまま私たちは駅ビルから外へと足を向けた。
名前を挙げたコンビニは駅の近くにはなくて、少し歩いた所にあるとSiri嬢が教えてくれた。聞くなり千晶はまた頬をふくらませていたが私的にはgood job、ふくれっ面は見なかったことにして外に出る。組んだ腕はSiri嬢に相談する時に私から離していた。
駅の周りは平日の昼の割に人が多かった。「こんなに暑いならもう夏って言っちゃえばいいのに」、空を見上げながら文句を言う千晶に適当な相づちを打ちつつ、日陰を選んでだらだら歩いて行くうちに少しずつ人影が減っていき、つられるように私たちの口数も減っていき、コンビニに着く頃にはそれでもまだ繁華街と言っていい場所なのにすっかり人気もおしゃべりもなくなっていた。
店に入るなり、冷気が肌を刺してきた。
「あー、気持ちいい」
千晶が目を細める。そのまま冷凍庫の前まで突き進み、「アイス、アイス、」鼻歌みたいに節を付けて口にしながら中を覗き込んでいる。冷房とアイスのおかげで機嫌が良くなったみたいだ。
やれやれと安堵したのも束の間、すぐに同一人物とは思えないような低く押し殺した声が耳に届いた。
「……違う」
どうやらお気に召すようなものがなかったらしい。見れば確かにお世辞にも種類が多いとは言い難い。
「だったら千晶は違うお店で買う?」
他のコンビニが近くにあった。私はここのソフトクリームを食べられさえすれば何も文句はない。今あるのは定番のバニラか期間限定のブドウの2種類だとレジ上の大きな写真入りメニューが告げている。ブドウ味はまだ食べたことがなかった。
その写真を見上げながら、ううん、と千晶が首を横に振った。
「私もソフトクリームにする」
わざわざここまで歩いて来たんだもんこの際だから。そう言ってから、私の顔を覗き込んできた。
「
「ブドウ」
私の返答を聞くや否や、誰も並んでいないのをいいことにひらりと身をかわしてレジの前に立った千晶が、「ブドウソフトひとつください」、鈴の音のように涼やかに響く声でオーダーしていた。続けざまくるりと振り向き、呆気に取られている私を真正面から見据えると、見事な微笑みと共に言い放った。
「
想定外の事態だった。その上、いつも横に並んでばかりで正面から千晶の顔を見ることに慣れていない私にとって、目の前の笑顔は不意打ちと言っていい代物で、完全に隙を突かれた私は棒立ちになって目を瞬かせた。
千晶は私のことをじっと見つめたままいまだ完璧な笑みを崩さない。さっき塗ったばかりの唇のグロスがコンビニの白っぽい照明の下でも濡れてるように美しく輝いていて、あんまりきれいなその笑顔から逃げ出すように目を逸らせながら、「バニラを、」とうっかり口走っていた。
逸らせた目の先に立つレジの店員さんは若い男のひとだったけれど、正面から彼の顔を見てももちろん何とも思わない。あ、私今何言ってるんだろ、とどこか他人事のように思っただけだ。
店員さんはにこりともしないで言った。
「いくつですか?」
あんまりなその問いかけに我に返って「やっぱりブドウソフトで、」と喉元まで出かけたのに、そのタイミングで千晶が再び顔を覗き込んでくるから、
「……ひとつ、です」
ああバカだな私、と今度ははっきり自覚しながら答えていた。
先に注文した千晶が当然先にソフトクリームを受け取り先に店の外に出ていて、私が外に出た時にはガードレールにお尻を乗せてブドウソフトクリームを舐めていた。
「めっちゃ美味しいね、これ」
店から出てきた私に悪びれる風もなく声をかけてくる。それを無視してバニラソフトクリームを舐めながら私は駅に向かって歩き出す。
千晶はすぐにガードレールから下りると、横に並んだ。
「一口、ちょうだい」
言うなり返事も待たずに顔を寄せ、舌を伸ばして口に運んでいる。
「……呆れた」
私の言葉に、ん? と言う顔して見上げてきた。
「ひとがブドウって言ってるのに」
即座に「ああ、」とソフトクリームから顔を離し、
「だって
「だから?」
「ブドウの方がバニラより値段高かったでしょ。だったら高い方、私が買って、それで
「よく言うよ」
今度こそ本当に呆れて、呆れついでに千晶の持つブドウソフトクリームに大口開けてかぶりついてやった。
「あー、もう! 何これ。めっちゃ美味しい、ブドウ味!」
「だからすぐにそう言ったじゃん。でもバニラも美味しいねぇ」
そう言ってから、千晶は立ち止まって視線を宙に浮かべたまま首を傾げている。
「なんで今まで私、ここのソフトクリーム食べたことなかったんだろ?」
それは私たちの間ではあなたの主張が大抵優先されているからです。なので私がソフトクリームを食べたくなった時はいつもだとあなたには言わずに家の近くのコンビニでひとりで食べているからです。などとは口にせず、黙って千晶の持つブドウソフトクリームを舐め続ける。
ようやく考えるのをやめたらしい千晶が手元に目を向けると、
「やだ、
「いいでしょ、これくらい。本当は私が頼むつもりだったのに譲ってあげたんだから」
言い合う間に、千晶のソフトクリームが溶けてコーンへ、更には持つ手の方へと細い線が一筋出来て流れていくのが目に入った。カバンからウェットティッシュを出して渡そうと思ったけれど、自分もソフトクリームを持っているので片手でそれは難しい。そうこうするうち流れる線が徐々に太くなってきて、気付いた時にはからだが勝手に動いていた。
「あ、」
小さくあがった千晶の声と舌先から伝わってきた感触に我に返った。
舌が──クリームで出来た線と共に、千晶の手を、指を、舐めていた。
少し考えれば分かりそうなものだが咄嗟のことだったからそこまで頭が回らなかったのだ。垂れてきたクリームだけ舐め取るなんてまず無理で、どうしたってその下にあるコーンなり手なりも一緒に舌に触れてしまうってことを。
いくらなんでもひとの手を舐めるつもりなんて毛頭なく、もちろんそんなことをしたのは生まれて初めてで、自分で自分に驚いた。それ以上に千晶も驚いたのだろう。手からソフトクリームが滑り落ちそうに見えた。
慌ててソフトクリームを持ったまま両手で千晶の手を包み込む。おかげで私の手の上にも千晶のブドウクリームが垂れてきて、そちらは誰に憚ることなくさっさと舐め取った。と思ったら私のバニラソフトも垂れ始めたらしく、千晶の舌が私の手の上を這った。
……ああ。いきなりこんなことされたらこれは確かに驚くなんてものじゃ済まない。
すぐにそう思ったくらい、舐めるのと舐められるのとでは大違いだった。思わず手を引っ込めそうになって、でもそんなことしたらソフトクリームが揺れて余計垂れてきそうだと気が付いて、それでようやく表情も読み取れないくらい近くにある千晶の顔に目が向いた。
口の端に、ぺったりとクリーム。
お互い顔を反らせながら笑いを噛み殺していた。ってことは私もきっと同じような顔してるんだろう。
もはやどっちがどっちのソフトクリームか何てことは関係なく、顔寄せ合って急いで食べるしか私たちがすべきことはなかった。
「なんでこんなに溶けるの早いの?」
「知らない。ソフトなクリームだからじゃないの?」
「そういう気もするけど、それより外が暑いせいだよ。これってきっと冷房ガンガン効いた中で食べるものなんだよ」
こんなどうでもいいことばかりしゃべってないで黙って食べればいいものを、私たちにはそれができない。おまけに相手の顔を見てバカみたいに笑いながら食べるものだから、口と言わず手も指もあちこちべたべたになって、小学生の子供だってもうちょっとマシな食べ方してるんじゃないかってくらい下手くそに食べてしまった。
そのせいで零れたクリームが足元で白と紫、2色の水玉模様を作っている。食べ終えてからそれを見て、
「これ制服につけてない?」
「……んー。大丈夫っぽい。それに万一ついてたって明日から休みなんだから、すぐにクリーニングに出せばいいでしょ」
「今の絶対に適当にしか見てないくせに。それに自分のにつけてたら絶対に文句言うくせに」
「あ、バレてた?」
なんて言ってまたふたりで笑った。笑いながら、今度こそウェットティッシュでべたべたな手と指と口を拭くべきだと思った。だけどそうする為にはべたべたな指でカバンを開けて中を触らなくてはいけなくて、それを考えたら今更拭いても拭かなくてもどうでもいいような気がしてきて、笑いながらなぜかべたべたな手を伸ばして同じくべたべたな千晶の手を取っていた。
千晶もどうでもよくなっていたのだろうか、嫌な顔ひとつしないで、と言うよりさらに大きく顔を崩しながら手を握り返してきた。べたべたな手同士こんなにしっかり握っていたらくっついて離れなくなるんじゃないか、そんな考えが頭の片隅に浮かんだけれど、そうなったらなったでそれもいいかと思った。だって暑い。まだ夏になってもいないくせにやっぱり暑い。今からこれじゃあ夏ともなればクリームがついてなくたって何もかもがべたべたになってる気がする。
何もかもべたべたになって、何もかもが溶けていって、何もかもが混じり合って、何もかもが一緒くたになって、そうしたら、
ああ、ソフトクリームは美味しいけど食べたって涼しくなんかならないし、頭の中はぐちゃぐちゃのべたべただ。横目で千晶の唇を盗み見すると、丁寧に塗っていたグロスがさすがに少し色落ちしたように見えて、途端にため息が洩れた。
「どうしたの?」
不思議そうな千晶の声。
「ううん、別に、」
前を向いて言った。そうして走り出した。私に手を引っ張られる格好になった千晶が、慌てて足並みを揃える。走りながら横で声を上げる。
「何で? 何でいきなり走ってるの?」
「……いいじゃん、別に、」
ただ走りたくなった。それだけだ。
横で一緒に走りながら千晶が声を張り上げる。
「なんかこれって二人三脚みたい。体育祭の」
「うちの体育祭は三人四脚だってば」
「あ、そうかー」
何が可笑しいのか、千晶が笑う。あはは。声を出して笑ってる。つられて私も笑った。
笑って細くなった目に、前方からスーツ姿の中年男性がひとり歩いてくるのが映った。ここの歩道は広いから横に並んだままでも十分すれ違えるはずだけど、念のため走りながら歩道の端に寄り、私が前に出て縦並びになるよう繋いだ手を後ろに回した。意図をすぐに理解した千晶は、私の背に身を隠すようにして走る。
それがどうしたことか、男性は明らかに私たちの方に寄ってきていた。慌てて反対側の端へと歩道を横断する。千晶はスムーズに私に従って動いてくれて、これが体育祭だったら私たちは勝てる、そんな巧みな連携。
それなのに、それなのに。男性はなぜか歩く向きを変え、再び私たちの方へと寄ってくるではないか。
このままだとぶつかる。千晶の手をぎゅっと握って足を止めた。急ブレーキ。千晶の頭が私の背に当たり繋いだ手がぺたりと重なった所に、男性がどん、とからだをぶつけてきた。
そう。ぶつかったのではない。明らかにわざとぶつけてきていた。ぶつけられた勢いで私たちの手が離れる。クリームまみれのべたべたな手がいとも容易く。
「歩道走ってんじゃねーよ、クソ野郎!」
一瞬、目が合った。男性の赤く血走った目に憎々しげに睨み付けられ、思わず目を背けた。ち、と派手な舌打ち。続けざま、
「死ね! ガキ共が!」
言葉を吐き捨て、肩を怒らせ去って行く。背後で身を乗り出す気配がした。振り返ると千晶が男性を追おうとしていた。慌てて手を握って引き留める。千晶が私を見る。見開いた目に何かがたぎっていた。
「ダメだよ、」
「何で?」
握った手に力を込める。千晶のからだが全身で叫んでいるように見える。
「わざとやってるひとに何、言ったって、火に油、注ぐだけだから」
「だからってやられっぱなしでいいの?」
いいと思っている訳では決してない。言い返してやりたい言葉が身の内で湧き上がっている。でも。
「だって、知らないひとに向かって暴力振るってきて『死ね』って言うひとだよ? そんなひとにこれ以上、千晶のこと傷つけられてたまるか」
私は知っている。千晶が『死にたい』と呟く理由も気持ちも知らないけれど、呟くのはきっと私にだけだということを。
私は知っている。千晶が呟く時、横で黙っている私のからだが何かで切り刻まれているのを、千晶が肌で感じ取っていることを。
私は知っている。千晶がどんな言葉を呟いたとして、それでもその横顔はいつだって美しいことを。
私は知っている。そんな千晶が私の横にいる、ただそれだけで私には十分だということを。
今日も明日も明後日も、そうして1年後も、多分私たちは同じような生活を送っている。今乗ってるレールに乗ったまま受験してそれでどこかの大学に入って、今よりも早起きして学校に行く。だって制服じゃなくなるから何着て行くか考えて何度か着替えて、メイクだって今みたいにこそっとじゃなくてもっとしっかりしていくんだからその分も余計に時間を見ておかないと。それで授業はともかく、サークルとかって今時はどうするんだろう、入っても入らなくても構わないけれど、バイトはそれなりにしないと社会経験0じゃ先々困るだろう。後は飲み会とか合コンとか街コンとかそういうのにも行ったりするんだろうか、それって私からするときっと面倒くさいやつだ。夜遅く寝ることになるのも睡眠が減ってしんどそうだ。それでも進学先にはきっと私たちと似たような環境で育ってきたひとたちが大勢いて、だからさして嫌な思いもせずに新しい日々に着実に慣れていき、そうしてその先の社会に出て行く時もここから地続きの場所や人間関係を見つけて上手に潜り込んで、で。
で?
その時でも千晶が私にだけ何か呟かずにはいられないとしたら、それはきっと、
「死にたい」であって、
「死ね」でもなければ「滅びろ」でもない。
だって私たちはたしかに『死』もろくに知らない『ガキ』で、空っぽで空っぽで空っぽなだけだ。分かってる。
アイスを食べてもソフトクリームを食べても暑くても笑っていても手も口もべたべたにしていても、それでも空っぽな私たちは絶対に、そう、絶対に、「死ね」とも「滅びろ」とも言わない。「死にたい」と言うことはあっても、「死ね」とは言わない。
だって「死にたい」は「死にたい」であって、本当は「死にたい」ではなく、本当は、
手を繋いだまま、私たちは再び駅へと歩き出す。
ビルの合間から覗く空は青く、白い雲がいくつか浮いて見える。千晶が空を仰いだ。見上げる目の端で何かが光ったように見えた気がしたのも一瞬、千晶は空いた手で目の上にひさしを作ると、
「うちの弟、今頃まだ学校で勉強してるんだよねぇ」
そう言えば千晶には年の離れた弟がひとりいるんだった。この千晶が八歳も下の弟がいるお姉さんだなんて、それも弟を猫かわいがりしているだなんて、世の中ほんと不思議だ。
「なんで高校生の方が小学生より早く帰れるんだか」
「ほんとそれ。高校ってお金かかるくせに休みばっかりだってウチの親がぼやいてた」
「私たちは嬉しいけど」
「だね、」
「……
「ん?」
「駅に着いたら、手、洗うから。さっきのトイレで」
「ん、」
「で、洗ったら、調べる。ソフトクリームのこと」
「ん?」
「だって今日のブドウって期間限定だったでしょ。ってことはまたしばらくしたら違う味が出てくるってことだよね?」
「ああ、」
足を止めた。一拍遅れて千晶も止まる。止まって私を見つめるその口の端に、クリームの跡が残っている。繋いでない方の手の親指を千晶の口元に伸ばして軽くこすると、跡はなんとなく消えた。その親指を舐めながら言う。
「私が好きだったのは、モンブランとメロン」
「そんなのがあったの?」
「うん。他にも結構、色んな味が出てた」
Siri嬢に聞きなよ。彼女なら詳しく教えてくれるはずだから。笑って話をしている間に、千晶が自分の指をひと舐めしてから私に向かってその指を伸ばし、私がしたのと同じことを私にした。するのとされるのとではやっぱり全然違うなあとされるがまま思っていると、指が離れていった。
離した指を今度は自身の唇に押し当て、しばらくそのままでいてからゆっくり離すと、千晶は確かめるように指先を見つめ、くるりと回して私に突き付けた。
「で、ふたりお揃いでグロスを塗る。べたべたに」
「え? べたべた?」
「うん、べたべた」
「何故に? それ、もったいないだけだって」
「いいじゃん。私がいいって言ってるんだから」
「そんなこと言うけど、そもそも私、今ひとつ似合ってなかったし」
「そんなことないって。私ほどじゃないけど似合ってたよ?」
出た。千晶の「私ほどじゃないけど」発言。これが出るってことは、まあまあご機嫌が回復した証拠だ。
「その代わり、明日は塾の前に〇〇のアイス一緒に食べる。決定」
「ちょ、待ってよ? そんな連日なんて私、金欠なんですけど?」
私の泣き言なんて耳にも入れず、千晶は前を向き、続ける。
「だいたい
塗ったグロスがかすれて光る、千晶の唇。その唇がきれいな形で動くのを横目で眺める。ソフトクリームの甘さのおかげだろうか、痛みはほとんど消えている。
どこからかセミの鳴き声が聞こえた気がした。額の汗を手の甲で拭う。
きっと、明日は夏だ。
横顔 満つる @ara_ara50
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