第18話 そうして、彼女の元へ

「カルロス……」

「はい!」

「後ほど私のところへ」

「っ、はい!」


 踵を返し、指揮台へ向かう。

 背後からは、カルロスに謝罪するアリアの声が聞こえていた。

「すみませんでした!」と、あの鋼色の髪を揺らして直角に折れているのだろう。


 大きいシャツから覗く、華奢な鎖骨と、白く細い首。

 そこに、あの禍々しいチョーカーが嵌っていないことを見られて、俺は心底安堵していた。


「中尉……?どうしました」

「……」

「中尉」

「すまん。風の具合を測っていた」


 久しく呼ばれて、まだ耳慣れない自分の階級。もう数ヶ月は経ったのだが、長年の癖は中々抜けない。


「またひと雪降りそうですね」と、俺の誤魔化しに気付かないまま、補佐官であるルールトードが空を仰ぎ見る。

 それを横目にしながら、俺にとっては十年以上も過去の、燃えるスラム街を思い返していた。




 煤けた匂い。


 小屋やゴミが燃え尽き、城壁が見えるようになった、貧民街。

 辺りには暗さが戻り、空には大きな満月が浮かんでいる。

 腕の中、血の抜けた真っ白い顔は、口元の血を拭えばただ静かに眠っているようで。

 疲労による濃いクマが浮かんでいてもなお、皮肉なことに、どこか排他的で美しかった。


「……アリア」


 隊長!


 と。

 いつもなら、そんな声が返ってくるのに。


 自分の額を、そっと丸い額に寄せる。

 綺麗な瞳の色や新しい服を褒めるよりも、剣の腕を褒めると花のように笑っていた彼女。


 もう、すっかりと冷たくなってしまった。

 流していた涙は乾き、はらりと前髪が横に流れても、微動だにしない。


 無骨な男の騎士達に混ざって、それでも身体強化と身の軽さで素早く敵を無力化するその手腕は、一兵士であっても目を見張るものがあった。

 なにせ騎士の型にハマりきらず、その辺にあるもの何でも使って戦うものだから、市街戦ではそこらの男性騎士でも太刀打ちできないほど強かったのだ。


 やれ野蛮だ下品だと口さがなくこけ下す者もゼロでは無かったが、身分に関係なく彼女の手で助けられた者達は、早い救助のおかげでほとんど外傷が無く、みな深い感謝を抱いていた。

 現に騎士達に阻まれ、行き場の無い感情を持て余す住人達の中には、棲家を焼かれた怒りよりも、哀しみを表に出している者さえいる。


 申し訳ありません。と、今際いまわきわで何度も謝って涙していた顔が頭から離れない。

 街のみんなを頼むと、弁明も嘆きもせず。ただ俺をじっと見つめる瞳にだけ感情を灯して。静かに神の御許へと旅立って行った。

 その時の胸の内を、どう表したらいいのだろうか。


(アリア)


 人が変わったようだと、言われ始めたのはいつだったか。

 後々、彼女が操られて利用されたとわかった時には、街の人々も風化させることで心の平穏を守っていた。元凶も煙のように国を後にしていたことで、彼女の汚名を雪ぐことは叶わなかった。

 彼女の本来の気質を知り、無実を信じていた者たちの間で、密かに思い出を暖めるのみ。


「アリーったら、王族の紋章入りの盾で馬車を守るなんて! ふふ! 貴族には出来っこないわ!」


「あの時、そのおかげで、馬車も損害ゼロだったんですって」と、のちに帝国の妃となった王女殿下は涙を浮かべて笑っていたのを思い出す。

 帝国に渡り、酸いも甘いも経験したのだろう。

 要所で手紙をやり取りし、久しく再開した王女殿下は、ただ可憐だった少女から、深みのある美女へと成長されていた。


「アリーだけだったの。王女としての努力を認めてくれたのも、私が私であることを許してくれたのも。当たり前のように、私と帝国へ移り住むことを考えていてくれていたのも」


 愛しそうに懐かしむ皇妃。

 アリア。

 君は「一介の騎士なぞ、王女殿下の目には留まらないでしょう」と割り切っていたが、どうだ?


 「輿入れが近づくにつれて、みんな申し訳無さそうな顔をするのに。帝国に行ったら、まずは食の探索からですねって、からっと言ったのよ! おかげであの帝国の花嫁修行、耐えられたんだから!」

 と、俺の手のひらにのった黒ずむブローチを優しく見ている。


「……それだけじゃ足りなかったのね。……ダグラス大佐。絶対に、アリーを助けてね」

「この身に代えましても」


 そう頷く俺に、皇妃が目を細めた。


「私も貴方も。奪われてしまった大切なものを、取り返しましょう」


 俺は手にしていたブローチを、しっかりと握りしめる。

 子の亡骸を愛しそうに抱きしめて、皇妃は眼を閉じた。子守唄だろうか。ぽそぽそと、子に話しかける母の囁きが、廃れた教会に響いた。

 その歌声に呼応するように、空気が揺れる。

 足元を眩く照らす大きな魔法陣が、あの大火から研鑽し増やした俺の魔力と、元来膨大な量を秘めていた皇妃陛下の魔力を吸って、くるりくるりとまわり始めた。


 今度こそ。


「君を死なせはしない。……アリア」


 強い光にかき消されるように、皇妃陛下と俺の影が、体が。薄れていく。


 伝える先を失って気付いた恋心は、時を経て、もはや執念へと姿を変えていた。





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