第17話 着替え
百、百一、百二……
リュシオン卿の居た場所から離れて、たっぷり百二十歩。
「ふー、緊張したな……」
「アリア……」
「ごめんなガラント。見苦しいところを見せた。最後まで付き合ってくれてありがとう」
上手くいってよかった。そう胸を撫で下ろす私を見て、ガラントは躊躇いがちに口を開いた。
「あれは……どうなんだ」
「問題ない。私は貧民街の出身だ」
領地を持つ貴族の力関係とは最も無縁の者。その救済の手のひらから零れた者なのだから。
貴族の力など知る機会さえも貰えない。通常なら。
「まあ、二度目は無いと思うけれど」
肩をすくめる私に、ガラントは何も言えないようだ。
貧民街出身という事にばかり頭がいって、既に別の師団に配属されていることがすっぽり抜けているようだったが、リュシオン卿も貧民に仕事をくれてやったというような認識だろう。
傍目にはそれを待ち望んでいるように見える形で逃げたから、今回は上手くいったのだ。
事実、貧民街では体に不調をきたしている者も多く、仕事にありつけるだけで幸せなことだと思う境遇なんて少なくない。
「本当に第三師団へ移るのか?」
「……まあ、命じられたなら。そうなる」
「そんな簡単に……」
「私の立場では仕方ないさ。後ろ盾も無いしな……まあ、ガラントやベン達とも話せるようになってきたばかりだから、そうなれば少々残念だが」
「……そうだな」
貴族の身である彼が、ここで下手に慰めてこないことはとても誠実で好ましかった。
ガラントは顎に手を当てて考え込む。
「昼食は、俺に出させてくれ」
「! いいのか?」
「ああ。巻き込んだ詫びだ」
スマートな妥協点の探り方をする。
流石だな、と感心した。
「肉も、魚も食べてみたい」
「いいぞ。じゃあ、急ぐか」
「甘味はあるかな」
「甘いものは、食堂より大通りのパン屋にある焼き菓子が美味い」
ガラントも甘いものが好きなんだな。とかたわいの無い話をしつつ、食堂への足を速める。
食堂で、生まれて初めて牛肉の赤ワイン煮と魚のムニエルを食べたが、非常に美味しかった。サーモンの身の、ふっくらと柔らかいことといったら。
「豚の内臓や森の魔物には、もう戻れないな……」
「はは、良いことじゃ……おま、」
運動後にたらふく食べたからか、隊服が暑い。
襟を大きく緩めて手で扇いでいると、ガラントがギョッとした顔で私の手を取った。
「アリア、まだ時間がある。一度宿舎に戻って着替えてこい」
「……?午後は」「
魔杖を使う時は、隊服とは別に指定の服装がある。個人でローブを持っているものはいいのだが、持ち合わせていない場合は、隊服よりも魔法耐性のかかった防魔ベストを着用するのだ。
もちろんローブを持たない私は、隊服の下に着用するシャツと防魔ベストで参加するつもりだった。
「ローブは持っていないだろう?」
「そうだが、でも」
「サーキットのせいで、シャツが透けてんだよ……!」
静かに怒鳴るなんて、器用な事をする。
私は暑さを我慢して襟の留め具をとじていった。
「言わせるな」
「ごめん……でも、その。最近天気が悪いから替えは寝巻きしかないんだ」
昨日の夜洗ったシャツは、部屋に干している。けれどまだ湿っているだろう。水分の含有量としては今着ているものと大差ない気がする。
「形は?」
「古着のシャツだ」
「……あー、まあ。でも今のものよりマシなんじゃないか?」
「そうか……わかった。ありがとう、着替えてくる」
「おう。皿は片しといてやるから」
「うん」
ガラントに甘えて、私は宿舎へと急ぐ。
ベッドのへりに雑に掛けていたシャツへと着替え戻ると、丁度課業開始を告げる鐘が鳴ったタイミングで、滑り込むように修練場の端、射撃場に着いた。
「おーい、アリア! こっちだぞー!」
ベスト姿のカルロス先輩が手を振っている。
アルバスはローブ。ベンは防魔ベストを着用していた。
「すみません! 遅れました!」
「午前中のことはコイツらに聞いてる。災難だったな! その事なのかガラントはダグラス中尉の所だ。まだ杖配ってる段階だし、今のうちに着替えちゃいな。壁になっといてやる」
渡されたのは女性用の防魔ベストだった。お礼を言い、隊服を脱ぐ。隊服は内側に留め具、外にボタンがあるのだが、凝った造りの服に不慣れな私は焦るとなかなか上手くいかない。
「んんーー?えっと、アルバス、ベン。そのまま後ろ向いとけよ」
ヒソヒソ声でカルロス先輩が顔を寄せてくる。
「アリアちゃん。それ俺がやった服だよな?」
「はい、その……手持ちの服が無くて……朝着ていたものは汗で駄目になってしまい、寝巻きにしているこれを」
「なるほどな、そっかあ」
「ガラントには、大丈夫と言われたのですが……」
カルロス先輩は、私より頭二つほど大きい。もちろん身幅も倍ほどあるのだ。入隊直後に貰ったシャツは、カルロス先輩が鍛錬で入らなくなったもの。とはいえ、手が完全に隠れてしまうほど大きかった。首元もボタンを全て留めても、鎖骨が少し見えてしまう。
「お見苦しいものを、申し訳ありません」
「いや、他の人に気付かれる前にベスト着ちゃえば…」
「カルロス、お前の班の魔杖だ」
「あっ」
ぎくりと固まったカルロス先輩の背後には、驚いた顔のダグラス中尉と、額を手で覆うガラントが居た。
「カルロス……?」
「おっ、お手を煩わせてしまい申し訳ありません! 杖ですね、ありがとうございますっ!」
ワタワタと注意を逸らそうと努力してくれているカルロス先輩の背中で、ダグラス中尉達の視線を浴びつつベストを着用した。
シャツの袖を捲り、ベストとセットになっている手袋へ入れ込んでぎゅっと締める。
そうして、カルロス先輩の隣で何もなかったように姿勢を正して並んでみた。背中はだらだらと汗が伝っていたけれど。
脳裏で、例の技を授けてくれた王女殿下が楽しそうに笑っていた。
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