エモいってのは何なのかしら
Ⅱ
「『エモい』っていうのは、いったいどういう感覚なのかしら」
幾度目かの逢瀬の日。
関内駅前のルノアールの一角で、志乃はそんな疑問を口にした。
買われてやるのはともかくとして、制服で会いに来るのは絶対にやめろと念を押したのが功を奏したのか、今日の志乃は飾り気のないブラウスとカーディガン、同じくシンプルな黒のレギンスといういでたちだった。
「使い時みたいなものがあるの?」
少しだけ考えてから、祷子はこたえた。
「そんなん別段考えたりしないっしょ。昔の『ヤバい』『エぐい』『イカツい』と大して変わんないんじゃない?」
「それなら『ヤバいこと』と『エモいこと』は同じなの?」
「同じ……じゃないかもしんないけど。なんかこう、普段と違うようなことが起きたり、そういう出来事に遭ったりして、テンションアガったりするじゃん? そうなると、うわそれエモくね? ってふうにはなるけどさ」
『ヤバい』はいささか情緒をおざなりにした感は否めないかと、祷子は思った。
「推しのホストとか配信者とかに認知されると、アガるじゃん? 嬉しくなるじゃん? そうやって脳みそエモくなるわけじゃんか」
「それなら、嬉しいとか、気持ちいいとか、そうやって表現すればよいのではなくて?」
どれだけこちらが真摯に疑問に答えようが、このように志乃は身も蓋もないことを言う。
祷子の前に志乃が現れてから一か月、ふたりはたびたびこうして他愛もない逢瀬を嗜むようになっていた。金で買われて他人を構ってやるというサービスの構図は変わっていないものの、どこか祷子は針の筵で座禅でも組まされているかのような居心地の悪さを拭えずにいた。会うなり大金を渡されることへの後ろめたさもあるが、癪なのは志乃の真意がまったくわからないところにあった。もともと、友人と呼べるほどの間柄ですらないのだ。
普段は何をして過ごしているのか。寮に戻らずどこで寝泊まりしているのか。進学や就職についてはどう考えているのか、といった、生活指導教員顔負けの鬱陶しさを発揮したかと思えば、界隈の少年少女たちはどんな嗜好を持っているかだとか、
橋玄通りは、関内付近の色街に隣接する橋玄地区の一帯を指し、未だ記憶に新しいかつての世界的疫禍を境に、広場などで屯する若者たちの集団が目立つようになりはじめた。飲食店の営業縮小に端を発する路上呑みの流行が火付け役となったかたちとなる。成り立ち自体は新宿で勃興した若年層コミュニティ文化とさしたる違いはなく、同じくSNSを利用した援助交際や未成年飲酒が横行する現状は、市行政や神奈川県警の課題でもあった。
祷子もまたそんな橋玄通り界隈で日がな一日を友人たちと過ごす少女のひとりであるが、周囲の多くの若者とくらべれば、著しく恵まれた境遇にあることを、彼女は自覚していた。しかし界隈において、隣人の境遇をいちいち詮索してくる者などまずいない。仲間内で自分の保護者の毒親っぷりをネタにできるような間柄にならない限り、根掘り葉掘り尋ねるべきではないというのを、若者たちは一種の
祷子にとっては、少なくとも学園よりかは居心地のいい場所だといえた。
元より上の世代が着こなしていた地雷系のファッションに憧れがあったし、実際に愛らしい黒を身に纏い、きらめくシルバーをじゃらつかせることで、なんだか自分が学園の野暮ったいぼんくら娘どもとは一線を画すような、ある種の超常性を持ち合わせているかのような錯覚すら感じられた。
泣き腫らして赤らんだかのような涙袋に、不健康なほどに白んだ肌。
家庭で、学校で、職場での無理解に晒され、友人の、恋人の、先輩の、上司からの心無い言葉に打ちひしがれ、半ば諦念すら入り混じったセルフネグレクトへの帰結。
要は癇癪起こしたやけっぱち、エナドリを食道に流し込み、ストロング系をかっくらい、胃と肝臓をこれでもかと酷使する。
おわりおわり全部おしまい。うるせー知らねーやってらんねー、しらふでまともでいられるかってんだ。誰もあたしのことなんかわかってくんないし、だったらあたしもお前らのことなんか知ったこっちゃねーし。
こうやって酒入れて、友達とたむろしてんのが一番エモくてキマんだから。
つってもさ、なんか最近ホス狂の子多くない?
あ~わかる。仕事入れまくってんのか知んないけど、既読つかない子多くなったかも。やばいよね。
やば。
新宿からクラブの支店がいろいろ雪崩れ込んできてんだってさ。エース目指して百とか二百とか余裕でぶっこんでんだって。太パパ引いても一人頭五万なわけじゃん?
まじぴえん。でもさ、そんだけ推せんのも推してもらえんのもエモくない? あたしそこまでなんかを推せたことなくてさあ。それでにっちもさっちもいかなくなって、トんじゃったとしてもさあ。それはそれでエモいっていうか。
それな。なんかこう、人魚姫的な……
「『エモ』くなんかないわ。何一つ」
初日以降、温厚に祷子の受け答えを黙って聞いていた志乃が、ぴしゃりとそう断言した。
「自己憐憫に浸って、傷を舐めあうことをなぜ正当化するの。なにが楽しいの。なにが面白いというの。大概にすべきだわ」
「抜いた後のオッサンみたいな説教すんじゃん」
急ブレーキで話の腰をへし折られ、さすがに祷子もかちんときた。
「自分の体を切り売りして、はした金を握りしめて、多少作りのいい顔の男性に貢いで貢いで、それがいったい何になるの? 何が残るの? 何が『エモい』のかしら」
「こっちの言い分聞く気ないなら、あたし今すぐ金突っ返して帰るけど」
年齢に不相応なほど落ち着いた志乃には、めずらしい激昂ぶりだった。
「まず、そういう阿呆みたいな理屈くらい、あたしの周りの子たち全員わかってるわけ。あんたがホス狂とかを見下して、単なる浪費家みたいに思うのは勝手だけどさ。そういう説教はまじで耳タコだし、ましてやあんた、ほかの誰かの人生に責任持てるわけじゃないっしょ?」
「ホストクラブやコンセプトカフェの男性が責任をとってくれるというの?」
「推し活っていうのは、遊びであって遊びじゃないんだよ。必死こいて金を用意して、必死こいてる誰かにそれを貢いで、誰よりも長く深く愛してもらう。だからホストはウォッカをイッキする動画をなんとしてもバズらせようとするし、女の子たちは自分じゃ飲みもしないアルマンドを買ってやったりする。それでようやく、橋玄通りって界隈で価値ある存在になれる」
「価値?」
「そう、価値。プライオリティってやつ」
「道路一本挟んだ向こうでは、何の意味も持たない価値とやらが、価値ですって」
「ンなことみんなわかってるって言ったっしょ。まじで説教しか頭にないわけ?」
祷子の煽りに何も言わず、志乃は隣のイスに置いてあった、やや大ぶりな鞄に手を突っ込み、握りしめたそれをテーブルの上に置いてみせた。
黒地に翼を象ったメタリックピンクのエンブレムがあしらわれた、優雅な曲線を描くボトル。時価にして五十万をくだらないしろものだと、祷子は記憶していた。
「これが、こんなものが。智晶の価値のすべてだと言いたいの」
ボトルの底辺には、名状しがたい赤黒いかたまりが付着していた。
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