第三章 19話
「ここはまかせて、あの男の加勢に向かっておくれ!」
「分かりました!」
シロナの指示に頷いたイルネスは、フィアーの白い雲から伸びる腕のようなものを潜り抜け、そのままミカグラに向かって駆け出す。
その間にもシロナは術を完成させ、フィアーの一匹を祓った。
同時に背後から憑りつこうとする別のフィアーを横に転がって避け、再び呪文の詠唱に入る。
ノームの少年は状況を察して、邪魔にならないように離れてくれている。
幸い、彼を追うフィア―はいないようだ。
一瞬、手元の『パンクラック』を投げようか迷っているようだったが、シロナが首を横に振ると、少年は理解してくれた。
フィアーを怯ませる効果はあるかもしれないが、それ以上にシロナへのダメージが大きい。
ファンギアの聴力にあの破裂音はきつい。
倒れることはないが、激しい耳鳴りと吐き気を我慢しなければならず、呪文も中断せざるを得なくなる。
次のフィアーを倒していると、ミカグラの体からまた新たなゴーストが召喚され、シロナに向かってくる。
周囲の物体を動かす『ポルターガイスト』や、生物の影に潜んで動きを阻害してくる『シャドー』も現れた。
どれもが低級の魔物だが、とにかく数が多い。
ミカグラがこれほど連続して召喚を行なってくるのは初めてだ。
これではキリがない。
ボルグの加勢に加わり、二対一になったイルネスも状況は芳しくない。
「おらぁ!」
ボルグが巨体を滑り込ませるように接近し、作業斧を振るう。
ミカグラは下からカタナを跳ね上げ、それを迎え撃つ。
一瞬の交差――作業斧の刃は、中央から真っ二つに分断されて地面に落ちた。
イルネスも同時に仕掛ける。
ミカグラの死角に回り込み、軸足へと杖による突きを放つ。
だがミカグラはカタナを振り上げた勢いに乗って体をねじり、空中で制止する独楽のように身を翻して跳び、イルネスの突きをかわす。
そして回転のままにカタナをイルネスの方へ向かって振り下ろす。
イルネスへは届かない。
狙いは――彼女の杖だ。
それを察したイルネスが慌てて杖を引き戻し、辛うじて先端を微かに擦っただけで済んだ。
シロナの見る限り、ボルグとイルネスの動きは一級品だ。
特に少女のスピードは速すぎて目で追うのも苦労するほど。
だが、そんな二人の連携をもってしても、ミカグラを崩すことができない。
「ちっ、もう一手足りねえ! 俺たちが戦った時、少なくとも二回、こいつに接近できた。あの『死神』野郎は何やってんだ!」
「今は私たちで時間を稼ぎましょう!」
愚痴を零しながら予備の作業斧を手にするボルグと、牽制の突きを繰り出しつつ様子を窺うイルネス。
ここにシロナが加われば、もしかしたら隙を作りだすことができるかもしれないが、相変わらずゴーストは止まらない。
これが仮の肉体を持つゾンビやスケルトンなら、イルネスたちが対処することでシロナの手が空くのだが、実体を持たないゴーストはシロナ自身が対処するよりほかない。
「……そんなにジブンが邪魔なのかい、母さん!」
術を撃ち終わった合間に毒づく。
ミカグラはもちろん反応せず、答えるものは誰もいない。
深い愛情があったわけではないことは分かっている。
一人娘の話し相手として、あるいは【
そのくらいのつもりだったのだろう。
偶然拾った獣人の子が女で、娘とほぼ同い年で、言うことをよく聞く。
だから育てた。
母にとってはわずか数年。
しかしシロナにとっては、人生のすべての時間だったのだ。
だからこそ。
ミカグラを利用し、復讐を越えた「ただの殺戮」を、やめさせなければならない。
――この命に代えても。
「……ハァ、ハァ」
息が上がって来た。
もともとファンギア族は瞬発力には長けていても持久戦は苦手だ。
それに加えて老齢に差し掛かる肉体で、ひたすら術を使い続けていれば、ものの数分でこうなることは分かっていた。
ミカグラを倒す術――すなわち母の『呪い』を解く術は、一つだけある。
だがそのためには、母と同じ代償を支払う必要があった。
『呪い』をかける時に母が命を捨てたように。
同じだけのものを、ジブンも。
その覚悟はとっくにできている。
だが、届かない。
目の前にいるというのに。
ボルグとイルネスも、いずれはスタミナが尽きるだろう。
彼らならば、逃げればミカグラが追いかけてくることはないかもしれない。
しかし、目をつけられたシロナは無理だろう。
彼らが後退した瞬間、こちらに向かってきて一刀の元に斬り伏せられる。
ミカグラと『呪い』は、その瞬間を今か今かと待っているように見えた。
――その時。
視界の端で、何かが動いた気がした。
「あっ……」
イルネスが短く声を上げる。
それは二人の人影だった。
誰かを支えるように立っているのは、褐色肌のエルフ。
そしてもう一人は、身体をローブに覆った男……ジークだった。
「……助かった、ウルウェンテ」
「信じらんねぇ……ホントに行く気かよ」
「ああ。悪いな」
ウルウェンテが渋い顔をしながらも、そっと離れる。
ジークの様子はずいぶんと妙だった。
顔色がかなり悪いし、ローブに包まれている身体も、鎧を着込んでいるようには見えない。
それどころか、盾も、下手をすれば剣すら佩いていないように見えた。
準備をするとは聞いていたが、まともに戦える様子とはとても思えない。
ジークが早足に歩き出す。
ミカグラに向かっているのは明らかだった。
その姿も、力強さは感じられない。
身体のどこかに異変をきたしている動きだった。
彼が何のつもりなのか、どうしたいのか、まったく分からない。
「ジークくん、作戦は――」
シロナが声をかけようとして気づく。
ジークの口元が、微かに動いている。
これは――呪文だ。
それも、シロナがよく知る類のものだ。
死霊術。
彼の前で二度ほど使ってみせた、あの術を使おうというのか。
「キミでは無理だ、やめるんだ!」
シロナは叫ぶ。
この術は、神魔力を遠くに放つのに不向きなシロナが、長い年月をかけて自己流に調整したものだ。
発動には対象に触れる必要があり、危険度が高い。
ジークの動きは少し見た程度だが、ヒューマンの中でも特に優れている様子はなかった。
そんな彼がミカグラに接近したところで、一刀の元に斬り伏せられて終わりだ。
もし、彼が「攻撃を受けながらでも強引に術を使う」なんて甘いことを考えていたなら大間違いだ。
死霊術に限らず、術を使うには神魔力の統一は元より、精神のイメージ、そして呪文そのものにも狂いがあってはならない。
なぜ「後衛」が、その身を削らせてまで「前衛」に守ってもらうのかと言えば、術を「狂わせない」ためだ。
肉体的なダメージだけでなく、例えば魔物の攻撃が目の前まで迫っただけでも、術者は恐怖や焦りによって精神的に不安定になる。
戦闘経験を積んだ熟練の術者なら、その程度では揺らぎもしないが、新米なら術を中断させてしまったり、発動させたつもりで失敗することもよくある。
それだけ術は繊細なのだ。
「ジークさん、これを!」
シロナの危惧をよそに、ノームの少年がジークに向かって『ライカ』を投げる。
改造を施したらしいそれを、ジークは片手でつかみ取り、小さく頷いた。
その間も口では呪文を唱え続けている。
いや、それよりも……『ライカ』を掴んだ、その腕だ。
包帯が隙間なく巻きつけられ、ほとんど肌が見えていないのだが、それは赤黒く染まっていた。
元からそういう色だったのかと思いたくなるほど、白い部分は見えない。
何かの染料か?
シロナはそれを、すぐに否定した。
鋭敏な嗅覚に届いた、錆びた鉄にも似た臭い――おそらく鮮血だ。
怪我をしたのか?
誰かに攻撃された?
分からないことだらけだが、とにかく彼を止めなければならない。
あの不安定な歩き方、顔色、そして血に染まり切った包帯。
どう考えても出血過多だ。
今すぐ手当をしなければ危険かもしれない。
「いりゃぁっ!」
気合の咆哮が、少女から発せられた。
それまで杖の間合いギリギリで戦っていたイルネスが、踏み込み、ミカグラに肉薄している。
カタナの振り下ろしを紙一重でかわし、脇腹へ杖の横薙ぎ。
赤い鎧が一瞬揺れるが、すぐにカタナを跳ね上げて二撃目。
少女はそれを、マントを切り裂かれつつも小さく後ろに跳んで避け、すぐにまた飛び込んでいく。
一歩間違えば即死の、危険すぎる特攻。
「やるなら先に言え馬鹿どもが!」
遅れてボルグが踏み出し、戦斧を叩きつけるように振り下ろす。
ミカグラはそれをカタナで受け止める。
激しく火花を散らしつつもボルグの斧は壊れない。
作業斧とは違い戦斧、しかも渾身の神魔力がこもっているのだ。
「はぁっ!」
イルネスの杖が、カタナを持つ腕の肘部分を的確に穿つ。
ぐしゃ、と鈍い音がして、均衡が崩れた。
上から押さえつけていたボルグの斧が一気にミカグラを潰そうとする。
ミカグラは前に屈みこむようにしてその圧力を背中側へと受け流す。
斧が背中に食い込むが、悪鬼は気にした様子もなく左手で腰の二刀目を引き抜いた。
狙いは――イルネスの胴。
突きを放った姿勢のイルネスは、それを避けられない。
後ろに跳んだ瞬間に上半身と下半身は両断されているだろう。
だから、イルネスは踏み込んだ。
杖から手を離し、倒れ込むようにしてミカグラへ接近。
直後、引き抜かれたカタナの柄部分が、イルネスの腰を激しく打った。
ごぎっ、と耳を覆いたくなるような音がして、イルネスの体が真横に飛ぶ。
近くの柵をいくつか圧し折って倒れたイルネスは、そのまま動かなくなった。
「まだ終わりじゃねえぞ!」
ボルグが斧から手を離し、巨木のような足で斧の柄を踏みつける。
斧の刃が食い込み、赤い鎧の背中が大きくひび割れた。
男はさらに悪鬼の後ろ首を掴んて引き上げ、仮面をつけたその顔に拳を叩き込んだ。
仮面が割れると同時に、ボルグの拳からも鮮血が散る。
だがボルグはそれを無視するかのように、二撃、三撃と拳を振るった。
さらに打撃を見舞おうとするボルグの背後に、黒い霧と共にスケルトンが姿を現わした。
骨から削り出したような歪なレイピアを、ボルグに向かって構える。
――シロナはそれを、間一髪で妨害した。
除霊の術をスケルトンに注ぎ込むと、骨がバラバラになって地面に転がる。
こうするしかなかった。
ミカグラの呼び出した魔物に術を使いすぎて、すぐには大きな術を使えないほど消耗してしまった。
時間を置けば、ミカグラは回復してしまう。
今はもう、彼に懸けるしかない。
「頼んだよ、ジークくん!」
視線を横に移せば、ジークがすぐそこにいた。
ローブを脱ぎ去り、包帯の解けたその腕は……無数の傷がついていた。
あれは――ルーン文字か?
そちら方面の知識には乏しいが、形状は何となく見覚えがある。
掌から腕、そして胸に至るまで、細かく刻まれたルーン文字からは、今もじわじわと血が流れ続けている。
正気の沙汰とは思えなかった。
フィアーに冒された凶戦士でさえ、こんなことはしないだろう。
「ぐがっ!」
ミカグラの左腕が、ボルグの顔をカウンターのように殴る。
折れた歯が飛び、鼻を潰されながらボルグが後ろへ倒れた。
その一瞬の隙を突いて、ジークが接近する。
そして、ミカグラに抱き着いた。
遠目に見れば、ジークが赤い鎧を抱擁しているように映るだろう。
だがジークの手には『ライカ』があった。
わずかな操作によって、それは効果を現わす。
ただの『ライカ』ではなく、ノームの少年が改造したという聖魔道具。
一度、ミカグラをおびき寄せるのに使ったのを見たが、かなりの衝撃波が生まれるはずだ。
シロナは反射的に目を覆い、衝撃に備えて身を竦めた。
――だが、激しい光は感じたものの、衝撃はこなかった。
「不発……?」
光を直視しないように指の隙間から覗くと、予想外の光景があった。
ジークの腕の中で、ミカグラが悶絶するように激しく痙攣していたのだ。
シロナは察する。
ジークの身体に刻まれたルーンは、衝撃波を内側に閉じ込めるためにあったのだと。
広範囲に広がるはずの衝撃と閃光が、ミカグラを襲い続ける。
――だが、足りない。
ミカグラが再生能力を持つ以上、完全に倒し切らなければ、ダメージは無意味だ。
そしておそらく、この『ライカ』に込められた神魔力程度では、ミカグラを殲滅することは不可能。
――やはり今からでも、ジブンが術の準備を。
そう思っていると、違和感に気づいた。
激しい閃光に目を奪われていたが、ジークの口がずっと何かを呟いている。
そう、呪文だ。
この『ライカ』を使いつつ、ジークはずっと呪文を唱え続けていた。
そして――発動。
ジークの神魔力が、腕の中でのたうち回る悪鬼に注がれる。
確かに、普通に術を使っただけでは、ミカグラの神魔力の膨大さに逆に圧し潰されて終わるだろう。
そこで改造『ライカ』でダメージを与えた上で実行しようとした。
理には適っているかもしれないが、無茶だ。
事実『ライカ』の衝撃を自身も受けて、耳と目、鼻からも血を流している。
ジークの術が発動してしまった以上、ここにシロナが手を加えることはできない。
前日のバンシーは、ジークに術を中断させ、即座にシロナが術を掛け直すことで強引に状況を引き継いだ。
しかし今、同じことをすれば、この神魔力の奔流がシロナに流れ込み、魂ごと破壊されてしまうだろう。
タイミングを誤ればジークだって無事では済まない。
――いや、それでも、ジブンが肩代わりすべきだ。
そう思い、シロナが手を伸ばそうとしたときだった。
「――ミカグラ、お前のやりたかったことは何だ」
ジークの呟きが聞こえた。
一瞬たりとも力を抜けないこの状況で、歯を食いしばるようにしながら、それでもジークは語り掛けた。
「復讐か? それとも殺戮か? 違うだろう!」
震えるように悶絶していた悪鬼が、動きを止めた。
まるでジークの言葉にじっと耳を傾けるように。
「オレは英雄を目指す。ヒトビトのために戦う剣となる。お前はどうだ!」
ジークの発動している術の質が、変わった気がした。
激しく接触し、削り合っていた神魔力が、二人を中心に渦巻くようになっている。
「オレたちの戦う理由は、オレたちが決めるんだ! 来い、ミカグラ!」
ジークの言葉の意味を、シロナが理解するより先に。
ミカグラの身体から、赤と黒の旋風が一斉に噴き出した。
それはジークの腕から外に漏れることはなく、まるで竜巻のように腕の中で絡み合ったかと思うと、ジークの身体の中へと吸い込まれていく。
びち、ごき、とジークの肉が裂け、骨が砕ける。
内側に飛び込んでくる怪物級の神魔力を、一人の男が飲み干そうとしている。
何て馬鹿なことを考えるんだ、このヒューマンは。
知識が浅いせいか、それとも生来からこういう無鉄砲だったのか。
ドラゴンに裸一貫で挑むような、策とも挑戦とも言えない無謀。
それでも――
「耐えろ、頑張れジーク!」
シロナは、ジークの背中から抱き着いて、必死に叫んだ。
何の足しにもならない行為。
それでもシロナは、祈り、願い、行動せずにはいられなかった。
――ガシャン
地面に、赤い鎧が転がり落ちた。
肉体も、骨もない、鎧とカタナだけの残骸。
目の前にあった赤と黒の暴風も消えていた。
腕をだらりと下げたジークは、シロナに体重を預けながら首を垂れていた。
全身血塗れで、顎の先から赤い雫が滴り落ちている。
抱きしめる男の身体が酷く冷たくなっていることに、シロナは背筋が凍った。
「……すみません、こんなことしか……思いつけなくて」
血でべたべたの手を、シロナの手に重ねながら呟くジークに、ファンギアの女はただ苦笑した。
目から零れる熱い何かが、ただ心地よかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます