第三章 16話
――オン、アダラ、ウイアラ、マリシ――
あの日の、あの光景。
鮮烈に記憶へ焼き付いている。
あの時の、シロナの神魔力の動きまで正確に。
呪文をなぞることは難しくない。
問題は、その神魔力を自分の体が辿れるかどうか。
じわりと全身の熱が右手に集まってくる。
ジークは木剣を左手に持ち替え、バンシーの背中に向かって右手を突き出した。
呪文が完成する。
同時に、ジークの掌から電撃のような激しい衝撃が迸る。
一瞬でも油断すれば手が弾かれ、そのまま消し飛びそうだった。
気づけば、バンシーはこちらを振り返り、ジークの腕を両手で掴んでいた。
さらに首を伸ばし、今にもこちらの顔を噛み砕こうと大口を開く。
ジークはそれを、腕一本で押さえ込んでいた。
しかしいつまで続くか――
体内の神魔力があっという間に燃焼して消えていく。
「師匠……!」
すぐ側で、イルネスが杖を構えたまま叫ぶ。
オークの時とは違い、攻撃していいのか判断できず、戸惑っているのだ。
「黙って……見てろ……!」
今、ジークとバンシーの攻防はギリギリのバランスでせめぎ合っている。
ここにイルネスの攻撃が加われば、神魔力の奔流がどちらに流れるか分からない。
最悪、ジーク側に流れてきたら、耐え切れずに圧し潰されてしまう……そんな予感があった。
今、ジークが生き残るには、せめぎ合いでバンシーに勝つしかない。
しかし残された神魔力は、残り僅か――あと数秒も持たない。
シロナはこんな命懸けの術を、平然とやってのけていたのか。
もう術を中断することもできない。
それこそ予感通りに、神魔力の奔流に潰されてしまうだろう。
――自分にもできるかもしれないと、思い上がった結果か。
自分の浅はかさと、実力のなさに絶望しかけていた時だった。
「何をやってるんだ!」
幻聴かと思った。
その声の主は、ジークの隣に立つと、ジークの手に重ねるように自分の手を添えた。
銀色の体毛に覆われた、温かな手だった。
「……シロナ、さん」
「いいから集中しな。ゆっくり手を抜くんだ」
言われるままに、ジークは右手を下げた。
シロナは変わらずに手を突き出し、バンシーを抑え込んでいく。
そこからは瞬く間の出来事だった。
老婆の姿だったバンシーはみるみる小さくなっていき、拳大ほどのサイズになると、そのまま透明となって音もなく消えていった。
――倒した、のか?
「あっけねぇ……何が、どうなってんだ?」
後方で待機していたウルウェンテが、周囲を警戒しつつも近づいて来た。
しばらく呆然としていたジークは、どっと沸いて来た疲労感に襲われ、膝から崩れ落ちそうになる。
それを、隣のシロナが咄嗟に支えた。
「っと……ジークくん、とんでもない無茶をやってくれたものだね。見様見真似でこんなことを……危うく神魔力が枯渇して死ぬところだったんだよ?」
「すみません……」
「ジブンが偶然、近くにいたからよかったものの……いや、君と関わり合いになってしまった時点で、ジブンの責任かもね」
呟くシロナは、どこか寂しそうだった。
まるで「最初から出会わなければよかった」と言われているようで、ジークは気付いたらシロナの手を握っていた。
「ジークくん?」
「オレは、感謝してます。結果的に、シロナさんに迷惑をかけてしまいましたが……でも、後悔はしてない。シロナさんに会えて、オレはよかったと思ってます。あの時も、今も」
ぽかんとしていたシロナは、やがて緩む頬を堪えるかのような複雑な顔をして、そっぽを向いた。
「はぁ、まったく……ホントにジークくんは女泣かせだねぇ。口説き文句はもっと若い子のためにとっときな」
「え?」
ふと視線に気づいて振り向くと、そこには頬を膨らませたイルネスが、杖を構えたままこちらを睨んでいた。
「師匠……このヒト、誰ですか」
「待て、敵じゃない。まずは杖を下ろして殺気を引っ込めろ」
「ジークさんの、こ、恋人さん、ですか?」
振り向けば、ニムニリトが何故か涙目になりながら質問してくる。
その横ではウルウェンテが面倒臭そうな顔で一歩引いていた。
「だから待て。そういうのじゃない。彼女は……どこから説明すればいいか」
「俺にも聞かせろ」
気が付けば、ボルグも近づいてきていた。
ジーク以上に疲労感を漂わせて、しかしその目は只ならぬ剣呑さでシロナを睨みつけていた。
「見たこともねえ術……もしかして呪術じゃねえのか? 俺たちを襲ってきたのは、てめえか?」
ボルグの戦斧を持つ手が、力んで小刻みに震えている。
シロナの返答次第で、今すぐにでも飛びかかってきそうな怒りを感じた。
二ムなどは怯えてジークの後ろに隠れている。
シロナは全員の顔を一瞥し、最後にボルグに視線を向けて言った。
「分かった、説明しよう。ジブンは、逃げも隠れもしないよ」
シロナは背中の荷物を下ろすと、そこから木組みの小さな折り畳み椅子を取り出し、腰かけた。
それを見て、ジークも黙って座る。
ひんやりした地面が心地よかった。
仲間たちもそれに倣って座り込み、最後はボルグが舌打ちしながら片膝立ちでしゃがみ込んだ。
いつでも立ち上がって斬り掛かれるぞ、という意思表示なのだろうが、とりあえず話を聞く気にはなってくれたようだ。
小さく深呼吸すると、シロナは空を見るように語り出した。
「ジブンは、ある男を探している。もうずっと、四十年以上になるかねぇ」
「……あれ、シロナさん、五十歳くらいだって言ってませんでしたか?」
「そう。ジブンがそいつに初めて会ったのは、五歳くらいの時だったからね」
「おい、何だこの話は」
ボルグが苛立ちを隠そうともせず横槍を入れる。
シロナは視線をボルグに向けた。
「そこの兄さん、襲われたって言ったね。もしかして……赤い鎧の剣士、かい?」
「やっぱり、てめえの仲間か!」
「落ち着いて。ジブンがずっと追い続けてるのが、その剣士さ」
「何が剣士だ! あんなのはただの……バケモンだ!」
叫ぶボルグの体は、震えていた。
怒りだけではない、あのボルグが……恐怖していた。
「ボルグ……何があったんだ? よかったら、オレたちに教えてくれないか」
「てめえに言ったところで……!」
「やれるだけのことは、必ずやる。だから、教えてくれ」
ボルグはさらに怒鳴り返そうとしたのか、息を吸い込んだが……途中でやめて、大きなため息をついた。
「……全滅だ」
地面に視線を落としてボルグが呟く。
それがどういう意味なのか、理解するのが一瞬遅れた。
「まさか『レッドグリフォン』が?」
「……『勇敢なる剣』がやられて、当然俺たちも警戒していた。油断なんてなかったはずだ。だが、ありえない状況が続いて、混乱のままに応戦して――気づいたら、生き残っていたのは俺一人だった。命からがら、みじめに逃げ出した!」
ボルグが地面を殴る。
そして興奮のままに「バケモン」と呼ぶ剣士との戦いを話し始めた。
達人級の剣士であり、謎の呪術で魔物を召喚する術者であり、自身がアンデッドでもある凶悪な怪物。
それがボルグの戦った「赤い鎧の剣士」だというのだ。
先ほどのバンシーも、逃げるボルグに追い打ちをかけるためにそいつが召喚したのだろう、とのことだった。
「こっちは荷物を拾う余裕もねえ。地図も、コンパスも、まともな食糧もない状態で、森の中を逃げ回るしかなかった。この『レッドグリフォン』のボルグがな……」
自虐の笑みを浮かべ、右手の戦斧を見つめるボルグ。
イルネスが敵の姿を想像しきれず、首を捻る。
「結局、その相手は何者なんですか?」
「知らねえよ。聞くんならそっちだろ」
ボルグの視線が、シロナに向けられる。
シロナは、全員の視線を受けて、ゆっくりと口を開いた。
「……いいよ、すべて話そう。その前に、ジークくん以外とは初対面だからね、自己紹介しよう」
シロナは一つ呼吸を入れてから、告げる。
「ジブンの名前はシロナ。【
シロナはぐるりと全員を見渡してから、戸惑いの表情を浮かべた。
「……あれ、驚かないのかい?」
ウルウェンテがフードを取り払った頭をがしがしと掻く。
「あー、最近、こいつが【
「師匠の知り合いなら、悪いヒトのはずがありません!」
「ボクも、そう思います……ジークさんが信じてるヒトなら、ボクも信じます」
「おいおい……」
ジークは呆れ気味に呟いた。
ウルウェンテはともかく、他の二人はジークの価値観に依存しすぎだ。
まあ、それを信頼の証と受け取れば、悪い気はしないが。
残るはボルグだが、無言でシロナを睨んでいるだけで何も言わない。
早く先に進めろ、という圧を感じた。
シロナは小さく笑ってから、お礼を言う。
「ありがとう。じゃあ、これから話をするけど……これを聞いたら、場合によってはキミたちが聖教会に目を付けられる。冒険者として、まともに働けなくなるかもしれない。それでも聞く覚悟があるかい?」
「話せ。俺にはもう、あいつをどうやって殺るかしか頭にねえ」
ボルグが即答する。
ジークは、仲間たちの顔を順に見た。
イルネスはいつもの自然体で頷き、ウルウェンテは「いちいち確認するな」と面倒そうに手を振っている。
ニムニリトも、生唾を飲み込んだものの、両拳を握ってファイティングポーズのような姿勢を見せた。
それらを確認してから、ジークはシロナに頷いて見せた。
シロナが【
「……物好きなヒトたちだね。少し長くなるけど、最後まで聞いておくれ。信じるかどうかは任せるけど、ジブンは誓って、真実のみを話すと約束しよう」
そう前置きしてから、シロナはある小国の物語を話し始めた――
――大陸の南東に、グリム王国という小さな国があった。
海に面したこの国は産業に乏しかったが、海に面し、交通の要衝でもあったことから貿易と流通によってそれなりに潤っている国であった。
グリム王国の貿易相手に、カムイ諸島連合国があった。
四つの大きな島と、その周辺の小さな島々を支配するこの国は、やはり産業に乏しいが、内乱を繰り返していた歴史があり、武力に長けた国であった。
グリム王国は、カムイ諸島連合国に物資を送る代わりに、その武力に目を付け、軍事支援という形で借り受けることにした。
カムイの軍兵たちは独自に発展させた曲刀「カタナ」や、剛腕から放たれる「強弓」を操り、グリムに巣くう魔物や盗賊を次々に討伐していった。
そして一定の戦果を挙げては帰国し、また次の支援物資が来ると、返礼として新たな援軍を派兵する。
そうしてグリムとカムイは友好関係を続けていた。
だが次第に、この相互バランスは崩れていく。
カムイの援軍を、グリムが都合よく扱い、過酷な戦地ばかりへ投入するようになったのだ。
カムイはもちろん不満を持っていたが、一度、物資と言う「甘い蜜」を与えられた彼らは、これに頼るようになっていた。
この貿易を停止されて困るのはカムイだった。
援軍が損耗しても、貿易物資を得るためにまた派兵を繰り返す。
軍人たちの不満は高まり続けていた。
そして、その事件は起きた。
カムイの軍団長に、ミカグラという男がいた。
義に厚く、部下思いで、自身も優秀な剣士であった彼は、グリムへ派兵されることになっても黙って従った。
不満を訴える副団長や部隊長たちを宥め、説得し、グリムに赴いた。
今度の任務は【
しかも今回は、聖教会の『神十字軍』と共同作戦だという。
この作戦に異議はなかった。
準備期間を経て、ある日の深夜、作戦は決行された。
里に住むものはすべて【
ミカグラも剣を振るい、里の住民を切り捨てていった。
『神十字軍』は後方で待機し、ミカグラの軍団だけが先陣を切ったが、いつもの酷使だ、と判断して無視した。
しかし、違和感に気づき始める。
誰も術で反撃してこない。
アンデッドも湧いてこない。
やがて、過剰に護衛のついていた少年を殺した時――突如として『神十字軍』が鬨の声を上げた。
そして、あろうことか、ミカグラの軍兵たちを攻撃し始めたのである。
背後を突かれたミカグラ軍は、次々に討ち取られていく。
ミカグラをはじめ、副団長たちが何とか立て直しを図るものの『神十字軍』は伏兵まで潜ませ、数の上でもミカグラ軍を上回っていた。
ほとんどの兵が斬り殺され、追い詰められたミカグラを前に『神十字軍』の指揮官は自慢げに顛末を説明した。
ミカグラの切り捨てた少年は、グリム王が宮廷の侍女に産ませた子であり、この里はその「不貞の子」を隠していた場所だったのだ。
里の者たちも大半が事情を知らないただの農奴であり、何の罪もなかった。
ミカグラたちは募る不満を晴らすために無実の里を襲撃した暴徒軍であり、たまたま近くで魔物狩りをしていた『神十字軍』がこれを成敗――そういうシナリオだった。
後は、ミカグラの首を獲れば、この謀略は完了するはずだった。
誤算だったのは、この里には本物の【
子供と夫を殺され、絶望の淵にいた彼女は、今まさに倒れようとしていたミカグラに、自分の命すら代償にした「呪い」をかけた。
彼女の怨嗟の呪い、そしてミカグラ自身の憤怒――それらを糧として、ミカグラは悪鬼となった。
死なず、達人の技を持ち、さらにはその身に宿した呪いで死霊術すらも発動させる最悪のバケモノ。
すでにヒトの記憶も意識もない。
ただ本能のままに復讐を果たす存在となり――たった一人で、その場にいた聖教会の精鋭部隊『神十字軍』を全滅させた。
悪鬼ミカグラはそのまま、引き寄せられるようにグリム王都へと向かい、わずか数日で王都を滅ぼした。
国王をはじめ、重鎮のほとんどは殺害され、グリム王国は事実上崩壊。
王都とその周辺は今も「呪われた地」として捨てられたままという――
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