第三章 1話

 丸太のような棍棒が、ジークの身体を軽々と吹き飛ばした。

 息が詰まる――

 背骨が軋み、視界が白く飛びかける。

 辛うじて差し込んだ盾は歪み、左腕の感覚が何もない。


「――ぐはっ!」


 森の樹木に叩きつけられて、詰まっていた息をすべて吐き出す。

 同時に、生暖かい液体が口から零れた。

 胃液か、もしくは血か――確認している余裕はない。

 無理やりに空気を吸い込み、明滅する視界の中で地面に手を突いた。

 激痛。

 棍棒を防いだ左腕だ。

 骨にヒビが入ったか、あるいは折れたかもしれない。

 痛みと痺れをしきりに訴える左手を酷使し、盾を構える。


「師匠!」


 離れた場所から、イルネスが叫んだ。

 短い赤毛を振り乱すように叫ぶ少女に、ジークは視線だけで「来るな!」と訴えた。

 踏み出しかけたイルネスの足が、びくっと硬直する。

 パーティーメンバーであり、ジークの弟子を自称する少女、イルネスは、師匠と仰いでいるはずのジークより遥かに上をいく実力を持っている。

 なにせジークは自他共に認める底辺冒険者。

 もうじき四十になる今までこの仕事を続けられたことが、ある意味で奇跡だ。

 ぺっ、と口の中に溜まった液体を吐き出し、目の前の敵に視線を戻す。

 そこには、ヒトの背丈よりわずかに大きい魔物が、じりじりと間合いを詰めてきていた。

 オークと呼ばれる、野生豚の頭部を持つヒト型の魔物だ。

 全身が体毛に覆われ、前に尖った口からは太い牙が生えている。

 その体躯は隆々としており、体重ならジークの倍はありそうだ。

 オークは、右腕からぶら下げた棍棒をガリガリと地面に引きずりながら近づいてくる。

 おそらくイルネスなら、簡単に倒してしまえる相手だろう。

 だが、それでは意味がない。

 ジークは慎重に、オークの動きを見定める。

 荒っぽい呼吸が一瞬止まり、その太い足に力が入る。


 ――ここだ!


 ジークは苦痛を押し殺し、まっすぐ飛び出す。

 オークの呼吸で戦っていては、勝負にならない。

 少しでも相手のタイミングを外すため、オークが踏み出す直前を狙って間合いを詰めた。

 オークの丸太のような腕が、同じく丸太に近い棍棒を横薙ぎに振り回してくる。

 迫りくる圧倒的な破壊の気配。

 ジークは走る勢いそのままに、前へと身を投げ出すように転がった。

 背中の上を、ものすごい轟音と圧力が通り過ぎていく。

 前転から屈み状態へと移ったジークは、右手に持ったままのミドルソードに全力を込める。

 身体の奥底から練り上げた神魔力が、攻撃を放つ一瞬に集約される。


 狙うは――左足!


 低い姿勢から、潜り込むように接近。

 オークの踏み出した左足、そのかかと付近を狙う。

 切断までは行かなくとも、腱や大きな血管を傷つけることができれば大きなダメージだ。

 だが――刃が、止まる。

 まるで金属を打ったかのような、硬質な手ごたえ。

 確かにミドルソードはオークの後ろ足首を捉えているのだが、ほんのわずかに表面の皮膚を切った程度で、その内側まで刃が届いていない。

 絶望的な、攻撃力と防御力の格差。

 すぐにジークは、オークの脇を抜けて反対側へ走り抜けようとしたが、突如、視界が塞がった。

 オークの右足による蹴り――

 反射的に突き出したミドルソードは圧し折られ、同時に掲げた盾も砕け、腕から外れて吹き飛ぶ。

 その勢いを利用して体をねじり、身体の芯に食らうのだけは避けられたが、完全回避はできなかった。

 独楽のように回転しながらジークの身体が地面を転がっていく。


 ――まだだ、立て、次に備えろ!


 敵の位置も、自分がどこを向いているかも分からない中、すぐに身体を起こそうとするが、力が入らない。

 震える身体を起こそうとしたジークの頭上に、影が差す。

 オークがトドメを刺そうと、棍棒を振り上げていた。

 終わる――

 恐怖や絶望を感じるより先に、その結論だけが導き出された。

 瞬きをすれば、次に目を開けることなく、ジークはただの肉塊になっているだろう。

 だが、その瞬間は訪れなかった。

 イルネスの長杖が、オークの腕を打ち据えていた。

 まるで大木に小枝をぶつけたような光景。


 ゴギュッ!


 杖がオークの腕を潰し、妙な方向に曲がる。

 持っていたこん棒は手から離れ、地面に落ちた。


「はぁっ!」


 オークが絶叫を上げようとするも、それは叶わない。

 イルネスの神速の突きがオークの喉を貫き、次いで正確に、左右の目を潰していく。

 この深さでは目どころか、脳まで達しているかもしれない。

 最後にイルネスは、オークの胸を烈迫の気合と共に突いた。

 ねじり込むような回転をつけた突きは、胸筋を引き裂き、骨を砕き、その奥にある心臓を潰す。

 両目と口、そして喉の穴から滝のような血を噴き出したオークは、ゆっくりと後ろに向かって倒れた。

 小刻みに痙攣していた全身が、やがて動かなくなると、イルネスは「ふう」と息を吐いて警戒を解いた。


「すみません、師匠……黙って見ている約束だったのに」


 杖の先端にべっとりついた血をボロ布で拭いながら、イルネスが申し訳なさそうに頭を下げる。


 ――師匠、か。


 彼女に他意がないことは分かっているのだが……それでもジークは、自虐的な気持ちになるのを止められなかった。


「にしても……ちょっとひでぇやられ方だな」


 声をかけてきたのは、褐色肌のエルフ、ウルウェンテだ。

 その声には、少し叱責の色が混じっている。

 もっと早くイルネスの助けを借りろ、という意味だろう。

 まったくその通りだった。


「……ああ。助かった、イルネス」

「い、いえ!」


 ぱっと少女の顔が明るくなる。


「ジークさん、これを!」


 横からポーションの小瓶を渡してきたのは、ノーム族の少年、ニムニリトだ。

 十七歳のイルネスより年上なのだが、背の低さと中性的な顔立ちのせいで彼のほうが年下に見えてしまう。

 イルネスはジークと同じくヒュームなので、比較するのもどうかと思うが。

 ポーションを飲んでいる間に、ウルウェンテが包帯と湿布薬で応急手当をしてくれた。

 数十年も一人旅をしていただけあって、手慣れたものだ。


「いっつ……!」

「たりめーだ。骨折だけじゃなくて、肩も抜けてんな。めまいや吐き気はあるか?」

「……いや、大丈夫だ」

「あっそ。じゃ、立つぞ」


 ウルウェンテに支えてもらいながら立ち上がる。

 傍らに倒れたオークの巨体を、改めて眺める。

 

「二ムくん、オークの牙を抜くから、ちょっと手伝って」

「あ、はい、もちろんです!」


 イルネスがニムニリトを呼び、二人で倒れたオークの口に取りつく。

 今回は、冒険者ギルドの任務でオークの討伐に来た。

 少し前、別の冒険者たちがオークの群れを討伐したのだが、そのうちの一体を逃してしまったのだ。

 依頼を出した村の希望は「オークを追い払うこと」だったため、その冒険者たちは依頼を果たしたことになり、報酬を受け取って完了した。

 だが数日後、こうして狩り逃した「はぐれオーク」の目撃情報が寄せられたため、冒険者ギルド自体が依頼主となり、嘱託冒険者に討伐依頼が出されたわけだ。


「師匠、終わりました!」

「ありがとう。じゃあ、帰ろう」


 討伐の証明となる牙をもぎ取ったので、これで目的は果たした。

 死骸はここで放置だ。

 オークの硬い毛皮は防具の素材に使うこともあり、売れば少々の金になるだろうが、この巨躯を運ぶ手間を考えるとジークたちに旨味はあまりない。

 森の近くにある村に立ち寄った時、それとなく教えて、後は村人たちの自由でいいだろう。

 回収しないならしないで誰も困らない。


「でもジーク、さっきも言ったが……ちょっと無茶しすぎじゃねえか?」


 森を抜け、村に続く道を歩きながら、ウルウェンテが言う。

 オークを発見した際、自分一人で戦うと言ったのはジークだ。

 しかし、その結果がこの有様である。

 イルネスが助けに入ってなければ、間違いなく死んでいた。

 もちろん――と言っていいのか分からないが、倒せるとは思っていなかった。

 だが、見せておくべきだと思ったのだ。


「……みんな、聞いてほしい」


 歩きながら、ジークは口を開く。


「……冒険者パーティは、お互いの運命を背負っている。その話は、二人を仲間に誘った時にしたな」

「はい」


 二ムが小さく頷く。

 神魔力という、限られた力を持って生まれた『得られしものブレスド』たちは、魔物と戦うことを期待される。

 冒険者のほとんどは『得られしものブレスド』で、依頼の内容も魔物討伐や、魔物の襲撃が想定されるようなものが圧倒的に多い。

 必然、冒険者を続けるなら、魔物との戦いを常に想定しなければならない。

 それゆえに、冒険者パーティは命を預けられる仲間でなければ長続きしない。

 隣り合わせにある死が、襲い掛かってくるだろう。


「だが、組んでみてから分かることもある。自分が命を預けられない、信用に足らないと判断したら、パーティを抜けることも選択肢の一つだ」


 冒険者パーティは、冒険者ギルドにメンバー登録をすることで成立する。

 その後、各個人の討伐経験や、依頼の達成内容などから、パーティで受けてもいい依頼をギルドが判定してくれるようになる。

 基本的には、少数よりも、メンバーが充実しているほうが有利な判定になる。

 例えばニムニリトは、魔物の討伐経験がまったくない。

 個人で依頼を受けようとすれば、大半を受付の段階で却下されてしまうだろう。

 しかし、戦闘経験豊富なパーティの一員としてなら、許可が下りる。

 そうでなければ、戦闘力のない「補助」というポジションが成立しないのだ。

 ちなみに今回は、二ムもウルウェンテもまだパーティ申請を出していない。

 つまり依頼自体はジークとイルネスの二人で引き受けたことになっている。

 「オーク一体なら、イルネスの実績があれば十分対応可能だろう」とのギルドの判断である。

 当然だ。

 ジークの討伐経験は「ウエスト」。

 ヒトの腰の高さほどのサイズの魔物までしか倒したことがない。

 だが、オークはヒトとほぼ同じサイズの「トール」だ。

 ジーク一人では実力不足と判定されて、受けさせてもらえない可能性が高かった。


「私は、師匠以外のヒトとパーティを組む気はありませんっ!」


 イルネスが、きっぱりと言い切った。


「そうか……ありがとな」


 ジークは曖昧に笑った。

 彼女が、命の恩人であるジークに崇拝のような念を抱いていることは知っている。

 以前にも「ジークの実力」を知ってもらおうとあれこれ試みたが、彼女の気持ちを変えることはできなかったので、イルネスに関しては受け入れている。

 しかし、ニムとウルウェンテは違う。

 特に……ノームの少年の方は。


「ボ、ボクも――」

「オレには目標がある」


 ニムの言葉を遮るように、ジークは声を出した。

 ウルウェンテは、五十年以上を一人で冒険者としてやってきた。

 彼女が義理堅く、意外と面倒見のいい性格だとしても、引き際は分かるだろうし、彼女自身の目的もあると公言している。

 その目的の内容は知らないが、そちらを優先するためにパーティを離脱することも承知している。

 対してニムニリトは、冒険者ですらない。

 一人旅の経験もあるようだが、基本的には職人志望だ。

 一度は彼のパーティ加入を受け入れたジークだが、もう一度、きちんと考えてほしいと思っている。

 ジークがまだ伝えていない事実を、知った上で。


「目標、ですか?」


 二ムが小さく首を傾げる。

 ジークの話が、主に自分に向けてのことであると、何となく察したのだろう。


「そうだ。オレは……ファイアドレイクを倒したいと思っている」

「そいつぁ、大きく出たな」


 ウルウェンテが小さな笑みを浮かべて言う。

 地を駆ける巨竜。

 炎を吐き、岩も噛み砕き、たった一匹で砦を潰せる怪物。


「英雄になりたいというオレの夢は変わっていない。だが、そのために乗り越えなければならない敵なんだ、ヤツは」

「……ヤツって、おい、遭ったことあんのか?」


 さすがにウルウェンテも驚いているようだった。

 今しがた、ジークの実力は見せたばかりだ。

 この有様で、ファイアドレイクに対面したことがあると言われても、にわかには信じがたいだろう。


「ある。ただ……オレは、逃げ帰ってきただけだけどな」

「そんなことありません! 師匠は――」


 ジークは「分かってる」という意思を込めて、イルネスの言葉をやんわりと手で制した。

 ここでイルネスのフォローを聞いて、ニムニリトに余計な同調意識を持ってほしくなかった。

 少女が黙ったのを見て、ジークは言葉を続ける。


「オレがファイアドレイクに出会ったのは十五年前。場所は、デイール地方のアルラ村周辺……と言っても、もうその村はなくなってしまったが」


 ニムニリトの目が、驚きに広がっていく。

 いつか、彼に伝えなければと思っていた事実。


「すぐに言い出せなくてすまない……オレは、二ムの故郷が滅ぼされた時、その場にいたんだ。そして、仲間たちが戦って全滅する中、オレだけ、逃げた」

「…………っ!」


 二ムが絶句し、イルネスが何かを言いたそうに顔を歪めている。

 いつの間にか、四人の足が止まっていた。

 ウルウェンテが脱いでいたフードを被り直し、フードの上から頭をがしがしと掻く。


「あー、そりゃ、しょうがねえ……って慰めを聞きたいわけじゃねーよな」


 会話の流れから事情を察したウルウェンテが、あえて沈黙を破ってくれた。

 ジークは頷く。


「二ムとウルウェンテは、もう一度考えてほしい。オレが、本当にパーティを組むのに相応しい相手かどうか。それにオレは『死神』の渾名でも有名だ。オレと組めば、どうしたって悪評はつく」

「アタシはもう手遅れな気はするけどな」


 ウルウェンテが冗談ぽく口にする。

 彼女とは臨時で何度も行動を共にしている。

 アグロアーの冒険者たちの間でも「みなしパーティ」のような見方をされることもあるという。

 成り行きとはいえ、そこは少し申し訳ない気持ちもある。


「……さあ、行こう。まずはアグロアーまで無事に帰ることが先決だ」

「はいっ」


 いつもは元気なイルネスの声が、少し弱くなっていた。

 それ以降、麓の村につくまで、誰も言葉を発しなかった。

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