一章 第19話
ジークとウルウェンテは、借りた馬を飛ばしてローロ村へと急いだ。
宿場で馬を休めつつ、ローロ村へたどり着いたのは日が落ちる直前だった。
驚く村人に馬を預けて手間賃を渡す。
ついでに村長の家の場所を訪ね、二人で向かった。
初老の村長に話を聞くと、やはり杖を持った少女が一人でやってきたそうだ。
「村長さん、地図はありますか?」
「あの女の子が予備を持って行ったから、貸すことはできんが」
「見るだけでいいですので、お願いします」
ジークは村長が持ってきた地図を机に広げ、地形を頭に叩き込む。
精緻なものではないが、山道と大雑把な川の流れを把握できたのは大きい。
村長が一か所を指でぐるっと指し示す。
「このあたりで巣を見たそうなんだが、正確な場所までは……」
「分かっています」
「報酬の増額もできんが……」
「それも大丈夫です。あの娘は俺の仲間ですので。もし依頼を成功させて戻ってきたら、彼女に渡してやってください」
「それなら構わんが」
若干、疑いの目を向けてきた村長を納得させつつ、ジークは家を出る。
後は、イルネスより先にスイートビーハニカムを見つけるか、イルネス本人に会うかだ。
もう日も暮れる。
さすがに今から山に入り、イルネスを探すのは無茶だろう。
それに村で待っていれば、彼女が戻ってくるかもしれない。
「……不味いかもしれねぇ」
ウルウェンテが呟いた。
「どうした?」
「何かが燃える臭いだ。それに微かだが独特の甘い臭いもする。アイツ、やっちまったかもしれねーぞ」
おそらくイルネスがスイートビーハニカムを破壊したのだ。
藁束を持って行ったと村長が話していたから、それに火を付けたか、あるいは巣を燃やそうとしたのか。
どちらにしろ、ここでのんびり待っているような猶予はない。
「行くぞ。先導できるか?」
「任せな。こんだけムチャクチャな臭いを垂れ流してんだ、目ぇ瞑っても行けるぜ」
スイートビーハニカムで最も注意しなければならないのが、破壊時に拡散する『テンプテーションゼリー』である。
ミツバチと同様に、巣の中に蜜を貯めるスイートビーだが、この蜜は特殊で、薄い膜が破れて空気に触れると一気に気化して周囲に広がり、他の魔物や肉食動物をおびき寄せてしまう。
一説によると、誘われてきた魔物同士を殺し合わせることで大量の屍を作り出し、これを生き残ったスイートビーが食糧にしてコロニーの再建をはかるという。
「巣を破壊される」という危機的状況への回答であると同時に、他の魔物へ「巣を破壊したらお前たちも滅亡だぞ」という警告にもなっているわけだ。
だから、スイートビーハニカムを安易に破壊してはいけない。
駆除方法の最適解は【
イルネスが、すでに巣を破壊してしまっていたら……激しい戦闘になる。
「ウルウェンテ、少しペースを落とそう。焦るな」
前を行くウルウェンテのスピードが上がり始めたので、声をかける。
「けど、急がねえと今頃アイツは――」
「たどり着いた時、こっちが息切れしていては誰も助けられない。それに、集まってきた魔物がすぐそこにいる可能性もある。準備と警戒は怠らないようにしよう」
「…………」
「逃げてきたイルネスと行き違いになる可能性もある。その気配も探れたら頼む」
もしイルネスが魔物から逃走してきたとしたら、村に戻る前に止めなければならない。
そのまま村に戻ったら『テンプテーションゼリー』の効果で村まで魔物を呼び込んでしまうからだ。
そうなった時の被害は、想像したくもない。
「……アンタ、冷静だね」
最初「イルネスが危険なのに冷たい奴だ」という意味かと思ったが、ウルウェンテは口角を微かに上げていた。
「頼りになるよ、アンタ。リーダーに向いてるぜ」
冗談じゃない。
頼りになるような奴が、こんな状況を招いているはずがない。
ジークの人生は、常に反省と後悔の連続だ。
あの時、イルネスに優しくできていれば。
師匠をきちんと引き受けて、責任ある行動を取っていれば。
ファイアドレイクから逃げ出さずに戦っていれば。
誘拐された冒険者たちを救えていれば。
冒険者を目指さなければ。
――英雄にあこれがなければ。
分かっている。
すべて自分が選び、進んできた道だ。
だからこそ、イルネスは絶対に助けなければならないし、すべての罪も罰も引き受けるつもりだ。
「近いぞ」
ウルウェンテの言葉に、ジークは頷く。
徐々に濃くなっていく焼け焦げた臭いと、甘ったるい風。
そして濃厚な、血の臭い。
進む先が徐々に明るくなり、開けた場所へとたどり着いた。
「これは……」
まず目に入ってきたのは、地面に転がるスイートビーの大量の死骸。
土塁のように積み重なり、円を描いている。
ぽっかり空いた中央で、おそらくイルネスが迎撃を続けていたのだろう。
その先には、燃え続ける巨大なスイートビーの巣があった。
黒く焦げ、悪臭を放ちつつじりじりと燃焼している。
その火から、少し離れたところに、少女はいた。
イルネスだ。
両ひざをつき、杖にもたれ掛かり、苦しそうに肩で息をしている。
その周囲には、数多くの倒れた獣と、牙をむき出しにしている狼が二匹。
「ウルウェンテ、村に戻ってマルフィアの増援と合流するまで待機!」
ジークは叫び、駆け出す。
「お、おい、ジーク!」
「ゼリーを浴びる危険がある。お前はこの場所を増援に伝えてくれ!」
今、イルネスに近づけば、空気中に漂っているであろう『テンプテーションゼリー』の影響を受けてしまう可能性がある。
二人とも救出に向かってしまうと、この惨状を村に伝えることができなくなる。
後ろからウルウェンテがついてくる様子がないことを気配で察し、ジークはさらに地面を蹴って加速する。
狼たちは、ジークの大声を聞いてこちらを警戒している。
意識の誘導には成功した。
相手は、四つの目と、毒の牙を持つ『ポイズンウルフ』だった。
運動能力は野生の狼と大差ないが、その毒は鉄も腐食させる危険なものだ。
ジークは転がる様々な魔物の死骸を避けつつ、ポイズンウルフに迫る。
「シッ!」
二匹のうち片方にダガーを投擲。
後方にジャンプして避けられたが、その間にもう一匹へ距離を詰める。
左手は捻挫でうまく使えないため、右手一本でショートソードを抜く。
ポイズンウルフは新しい「敵」を見つけると警戒し、距離を取って様子を見ることが多いのだが、今は『テンプテーションゼリー』によって興奮しているのか、即座にジークに向かってきた。
ジークの足を狙って顎を開き、噛みつこうとする。革の脛当ては身に着けているが、こいつの牙の前には役に立たない。
前転するように前方に跳躍し、ポイズンウルフの上を飛び越える。
と同時に空中でショートソードを振った。後ろ脚に刃が食い込む。
ギャン!
獣の悲鳴。
切断までは至らなかったが、ダメージを与えることはできた。
ジークは不格好に地面に転がり、すぐに身を起こす。
受け身の時に地面についた左手がズキズキと痛む。
仲間が傷つけられたのを見て警戒心が増したのか、もう一匹は様子を見ているが、戦意を失くしてはいない。
じりじりとジークは移動し、イルネスの横にやってくる。
「おい、無事か、怪我はあるか?」
イルネスはすぐに答えなかった。
ぜい、ぜい、と粗い呼吸をしながら、ゆっくりと顔を上げる。
「あ……あれ……し、しょう……」
「ああ、そうだ。お前の師匠、ジークだ。毒は受けてないか?」
「師匠……ああ、師匠……」
思考が混乱しているのか、イルネスはその言葉だけを繰り返す。
酷い汗だ。服の外まで滲み出している。
ポイズンウルフの毒を受けた様子はなさそうだが、痛みに堪えるように、身体を縮ませて両手で強く杖を握っている。
ジークはショートソードで魔物を牽制しつつ、痛む左手で腰のバッグから聖水瓶を取り出し、口で封を切ってイルネスの頭からかける。
少しは『テンプテーションゼリー』を中和できたとは思うが、まったく量が足りない。
もう一本、と思っていると、二匹のポイズンウルフが同時に仕掛けてきた。
ここで回避行動を取れば、イルネスを巻き込んでしまう。
ショートソードを構えて立つ。
あっという間に目前まで迫るポイズンウルフ――の頭部が、消し飛んだ。
膝をついたままのイルネスが、杖による突きを放っていた。
「うおおっ!」
ジークは残る一匹に、横一閃の斬撃。
ポイズンウルフの頭部を捉えた一撃は、そのまま鼻から上を斬り飛ばした。
イルネスの攻撃に助けられた。あれがなければ、二匹同時に襲われてジークは絶命していたことだろう。
だが今は安堵している場合じゃない。
頭の中身をぶちまけて倒れ、動かなくなる魔物をよそに、ジークは周囲を見回す。
今のところ、他に襲い来る敵は迫っていないようだ。
ジークの手に負えない魔物が来たら、その時点でおしまいなのだ。
「立てるか?」
イルネスは、胸の前を押さえて蹲っていた。杖もすでに放り出している。
愚問だった。
今までほとんど隙を見せたことのない少女が、これだけの姿を晒しているのだ。
さっきの一撃で、すべての体力を使い果たしたのだろう。
いつでも掴める位置にショートソードを置くと、ジークは背嚢を下ろし、中から布の帯を取り出す。
イルネスの腕を取って背中に彼女を背負い、布で二人の胴を結ぶ。片手が不自由なジークには困難で、ざっくりと不格好にしか縛れなかった。
杖は置いていくしかない。
「イルネス、俺の鎧か肩にしっかり掴まれ。走ることになるかもしれんから、振り落とされるなよ」
「師匠……私のことは……いいので……一人で」
「黙れ」
イルネスの身体がびくっと震える。
鎧越しなのに、イルネスの身体が驚くほど熱く感じる。
そして軽い。
ショートソードを拾い、立ち上がる。
「師匠……ごめんなさい、私……」
「謝罪は後で聞く」
ジークは地図の内容を思い浮かべつつ歩き出す。
イルネスの言葉は止まらなかった。
「私……最低なんです……」
燃える巣から離れ、木々の間へ入っていく。
幸いにも月明りがあり、まったく見えないわけではない。
懸命に地図を思い出し、目的地へ向かって走る。
「私、心臓に病気があるんです……激しい運動はできないって、言われてて……普通に生きてても、いつ止まるか、分からないって」
にわかには信じられなかった。
あれだけの戦闘技術と、神魔力の練度。
相当な努力なしでは身につかないはずだ。
だが……言われてみれば、イルネスが走ったところを見たことがない。
盗賊と戦った時も、イルネスは歩いただけだ。
翌日の墓掃除も、一人だけ大量の汗をかいていたが、それも心臓のせいだったのか?
だとしたら、今日ここでの戦闘が、どれだけ彼女の身体を……心臓を傷めつけたのか、想像もできない。
「だから……どうせ死ぬなら……やりたいこと、やってから死のうって、無理やり押しかけたんです。師匠が、嫌がってるの分かってて……病気も隠して。私、自分のことしか考えずに、生きてきたんです……」
それはイルネスの懺悔だった。
「……この依頼を、一人で受けた理由は?」
ジークの言葉に、少女は少し躊躇うようにしてから、声を絞り出した。
「私、師匠と一緒のパーティが組めたら、それだけでよかった……でも師匠、私の実力に合った依頼をやれって。だから……この依頼を一緒に受けたことにして、師匠の評価が上がって……そうすれば、もっと難しい依頼なら、一緒のパーティを組んでもらえると……」
「お前……」
とんでもないことを考えたものだ。
普通の冒険者なら、ギルドの依頼条件をごまかそうなんて考えない。
なぜなら、高望みや準備不足の仕事をすれば、待っているのは失敗だ。
常に魔物との戦闘が想定されている冒険者の依頼において、ミスは文字通り命取りとなる。
だがそれでも、彼女はジークとパーティを組みたかった。
まったく褒められたものではない。状況によっては、村に被害を出していたかもしれないのだ。
その点は、生き延びた後でしっかり説教しておくとして……分からないのは、彼女の動機だ。
なぜ、そこまで一緒にパーティを組みたがる?
イルネスが憧れるような冒険者でないことは、もう分かっているはずなのに。
ジークは、じわじわと痛む脇腹に耐えつつ、早足気味に野山を突き進む。
「……十五年前」
イルネスがぽつりと呟くように言う。
何かを思い出しているようだった。
「あの時も、そうでした。私は孤児で、病気ですぐ倒れるから、農作業も手伝えなくて、村では邪魔者扱いでした。農具小屋が私の寝る場所で……このまま大人になれず、死んじゃうんだなって、毎日思ってました」
明るい少女の、思いもよらない過去。
ジークは中堅の商家の三男で、出自には恵まれていた方だ。
冒険者を目指すと言った時も放任状態で反対されなかったし、剣や槍の道場に通うお金もすべて両親が工面してくれた。
そんな環境で、才能がない自分を憎んでいた過去が、酷く恥ずかしく思えた。
いや……それは今もだ。
ジークは、イルネスに嫉妬していた。
自分をはるかに凌ぐ能力。
そして、やりたいことを叶えようとする行動力。
与えられた才能で、無邪気に周囲を踏み越えていく存在なのだと、思っていた。
「……でも、来てくれた」
しがみつく彼女の力が、きゅっと強くなった気がした。
「火事になって、小屋が潰れて……死ぬだけだった私を、助けてくれた。私を背負って、一晩中、歩き続けてくれた……」
それが、彼女が同じパーティになりたかった理由。
弟子入りを志願してきた理由。
「私にとっては……師匠は誰よりも……英雄です」
ジークは足を止めた。
目を閉じて、小さく息を吸う。
そうしないと……景色が見えなくなりそうだった。
「師匠……?」
「いや……大丈夫だ」
そう言った矢先、遠くで「鳥らしき何か」の鳴き声が聞こえてきた。
――空からか。
時間がない。
「急ぐぞ、振り落とされないようにしっかり掴まれ」
ジークは地面を蹴る。
指示通り、イルネスはしっかりとしがみついてきた。彼女の疲労を考えれば、辛いはずだ。
少しでも早く、かつ振動を与えないよう努力しつつジークは走る。
ようやくたどり着いたのは峡谷だった。
岩肌が見える、急な斜面。
その下を、大きな川が流れている。
川までは相当な高さで、斜面は「滑る」ことがほぼできない角度。
だが、下を流れる川はそれなりの深さのはずだ。
ここから飛び込めば……助かるかもしれない。
だが、二人の状態を考えても、本当に成功するのだろうか?
今からでも、もっと川まで低い場所を探したほうがいいのでは?
逡巡するべき理由が次々に脳裏に浮かんでくるが、強引にそれを振り払う。
帯を解き、革鎧を脱ぎ捨てる。ダガー以外の武器も外す。
イルネスのマントも脱がした。
頭上から、樹の枝が揺れる音がする。
もう限界、タイムリミットだ。
「生きて帰るぞ、イルネス」
「師匠が一緒なら、安心です」
少女が微かにほほ笑んだ。
ジークはイルネスを抱きしめるようにして腕を回し、崖から川へと跳んだ。
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