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「お兄、醤油こっちある」
「おう。お前も納豆食う? ジャンヌ」
「死ね」
あの夏は嘘みたいに終わって、部活の大会を終えた世の中の高校生たちの多くがそうするように、わたしは日常へと帰っていった。
牛乳を飲む。納豆をかき混ぜる。鮭の骨を剥がす。大きくもないマンションの一室で、そのようにして朝食をとる。
……そんな普通の高校生でしかなかったわたしの人生を大きく変えたのは、決勝での開奈女子との攻防なんかではなく、2回戦だった。
誰を表した年表かを推測するという問題で、「1431年」「1920年」とだけ表示された。わたしはその段階で見当をつけ、すぐにボタンを押した――人間ひとりの生涯が500年にも及ぶことはあり得ない。これは、没年と列聖年。
陽射しがきつかったので眼鏡越しに睨みつけるような眼差しで、ボタンに向かった勢いのままポニーテールを弾ませて、わたしはマイクに唇を寄せ、回答した。
……言うまでもないことだが、IHクイズは地上波で全国放送されている。
結果、何が起こったか。
そこそこ顔の整った女子高生のきりっとした表情の下に「ジャンヌ・ダルク」とテロップが出ているキャプチャ画像がインターネットを駆け巡り、わたし有澤野々子はネットミームになった。
『埼玉のジャンヌダルクちゃんまじ好き こういう頭良くて性格きつそうな子と付き合いたいわ』『踏まれたい』『爪に除光液の跡あるじゃん この感じで普段ネイルしてんだ、絶対彼氏おるやん終わった』『ひっかけクイズ出して俺にマウントとりまくった後にひっかけだったことに気付いてプルプル震えながら真っ赤になって泣いてるとこ見たい』
……頭がおかしくなるかと思った。
もちろん、数日も経てばわたしのことなど、高度情報社会に押し寄せる新しいトピックが押し流した。
わたしは、元々フォローしていた二次元アイドルジャンルのイラストレーターがわたしをトレスして描いたキャラクターのイラストだけをそっとブックマークし、あとは忘れてしまうことにした。
忘れられなかった言葉は、たったひとつだけだった。
『ジャンヌたそ優勝して欲しかった 開奈のでかい子よりかわいいし』
これが――この書き込みが、わたしは一番許せなかった。
あの日、有澤野々子は語堂茶莉に敗北したのだ。
問題文を最後まで聞けば、わたしも正答を口にすることができた。ただ、それまでの語堂の回答速度と、語堂の佇まいの発するプレッシャーと、そうしたものが絡まり合い大きな塊になってわたしを殴り飛ばし、あの瞬間、わたしはボタンを押したのだ。
押さなかったらどうなっていたかを想像することは、あの瞬間を生きていたわたしと彼女への侮辱だ。そう、わたしは感じていた。
わたしと彼女の決着にイフは存在しない。
あの瞬間が巡り来ることは二度となく、それ故に、わたしは勝利のために果敢に先走ったわたしが誇らしかった。
……ただ、胸に引っ掛かることがあるとしたら。
それは、あの目だ。わたしを見た、語堂茶莉の。わたしの誤答を悟って、失望したようなあの目。
勝負をしているのだから、勝ち誇るのならわかる。嘲笑うのならわかる。
あの一瞬の、伏せた睫毛の向こうの意味を、わたしはずっと考えてしまっていた。
あれは――わたしに失望したんじゃなくて、全てに絶望した目だった、そんな気がして。
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