おちゃのこQ&A

穏座 水際

1

 いつだってわたしはそうだった。

 小学一年生の頃、初めて母と一緒に手作りしたプリンは、冷やして楽しみにしている間に二個とも兄に食べられた。小学六年生の頃、好きだった子に修学旅行で告白しようと思っていたら、いきなり東京から転校してきたおしゃれな女子に颯爽と掻っ攫われた。

 わたしは、指先を掠めていった大切なものを必ず取りこぼす。そういう星の下に生まれついている。

 だから、この局面に至った時点で嫌な予感はしていたのだ。

『さあ――こんな状況を、一体誰が想像しただろうか! 高校生たちの知の祭典、IHクイズ決勝戦、ここに来て両校が王手をかけました! 伝統を背負う名門校、クイズの女王・東京代表開奈女子、連覇なるか! はたまた! キャプテン有澤の連続回答で怒涛の追い上げを見せた埼玉代表県立花子高校が奇跡を起こすのか! 最終問題に全てが懸かります!』

 左側に立つ須藤の脚が震えているのがわかった。あちこちへ走らされる体力勝負の序盤ステージでわたしたちを何度も救ってくれた元陸上部のしなやかな脚。

 右隣の新間は、もはや回答ボタンに手を添えていなかった。ぽやぽやしているけれど天性の勘と閃きの鋭さを持つ彼女の、それはわたしへの絶対的信頼だった。

 人差し指の付け根で包み込むようにそっと触れる回答ボタンは、永遠のようなこの戦いの中、流れた電熱ですっかりわたしの体温に同化していた。

『参ります』

 人知れず長い息を吐く。

 もちろん――わたしたちだけに、ここまで辿り着いた物語があるわけではない。そんなことは、百も承知だ。

 斜めに向かい合って積み上がったマル数のランプ。こちらが青で、向こうが赤。

 センターポジションに位置しているのは、色白で髪が長く、陰気な雰囲気だけれど、見上げるように背の高い少女。現役高校生のクイズプレイヤーなら知らぬ者などいない天才・語堂茶莉。

 彼女が率いる東京代表、開奈女子高校は、わたしが中学受験で落ちた学校だった。

『問題。受ける刺激によって固体』

 十マルで優勝、ランプは九つ同士。ここで引く道理などありはしなかった。

 攻める――そうしなければ負ける。ボタンを押したのはわたしではなく、何かわたしの背骨をみしみしと押し潰すような大きな力がそうさせたのだ。

 わたしは唇の内側を舐めながら、汗の小さな雫が飛んでいた眼鏡の薄いレンズ越しに、語堂茶莉の表情を窺った。

『押したのは――埼玉!埼玉代表花子高校! 花子高校の2年生、有澤野々子が押している! その答えは――』

 実況アナウンサーの通る声よりも、胸の奥の方が煩かった。

 最後に見つめた、彼女は。

 語堂は――諦めるのでも、悔しがるのでもなく。

 ただ、重い睫毛の下で、憐れむような視線をわたしに向けていた。

「……ダイラタンシー」

 ボタンの上、前のめりになったわたしは、噛みつくように答えを吐いた。

 なんだよ。

 なんだよ、その目は――!

 音が鳴る。

 ……わたしの後ろに、青いランプは、灯らなかった。

『不正解――! 続けます!』

『受ける刺激によって固体の性質も液体の性質も持つことがあるダイラタント流体の一種であり、絵本作家ドクター・スースの作品が名前の由来になっている、片栗粉と水を同じ比率で混ぜたものの通称は何』

 わたしは、唇を強く噛んだまま、呼吸することを忘れていた。どんな顔で振り返ればいいのかわからず、両隣のチームメイトたちに謝ることなど到底できなかった。

 首を絞められているかのように、視界が端から、すうっと白くなっていった。

 語堂茶莉は、問題文を全て聞いてから、目を閉じて静かにボタンを押した。

 薄桃色をしたサマーベストが、恐ろしいほど似合っていなかった。

「ウーブレック」

 平坦な声で、語堂は回答する。背筋をしっかり伸ばしたまま。わたしは見逃さなかった。この女が、口を開く瞬間、惨めでか弱いものに成り下がったわたしから、ついと目を背けたのを。

 たっぷり間を取って、リロリロリロと気の抜けた、それでいてわたしたちが何より求める音が、語堂の頭上から降り注いだ。

『正解しました開奈女子――! 最後もキャプテン語堂が決めた! 2年連続、優勝は東京代表! 開奈女子高校です!』

 こうして、わたしの青春の全てを注ぎ込んだ夏は、終わった。

 わっと泣き崩れた須藤を抱き締めて背中を摩ったけれど、わたし自身は、不思議と涙を流せなかった。

 最初から勝てないと思っていたわけではない。あと一手のところまで開奈女子を追い詰めたのは、事実、快挙であるはずだし。

 ただ、わたしの目は滲むことなく、ただ彼女ひとりを捉えていた。

 ぎこちなく口元を微笑ませて、チームメイトが伸ばした腕の先に大きな手のひらを合わせる、温度のない目をした彼女。語堂茶莉。

 その時になってようやく、わたしはそこが、さすがの夏の陽も落ちようというのにライトに照らし出されたそのステージが、あまりに熱いことに初めて気が付いた。

 人工物の明るさと背景の暗さがアンバランスで、景色は揺らめいて、そのまま崩れ落ちていきそうだった。

 だから、というわけではないけれど――そこで、どこか困ったようにトロフィーをそっと掲げた語堂の姿が、わたしには人間に見えなかった。

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