第3話

「両親は今日仕事で遅いの」

「それを聞かせて、私にどうしろっていうんだよ」

 先日のチャットの終わり『気になるなら見に来る?』と誘われた私は、ある日の放課後、高垣家にお邪魔していた。学校から私の家と反対方向にバスで二駅。二階建て戸建ての二階にある葉子の部屋には、知らされていた通り壁と天井があった。

 そして、本当にそれ以外言うべきことはなかった。勉強机とベットとタンス。最低限の家具が置かれているだけ。本は本棚に仕舞えと言っていたくせに本棚も無い。

「ここは寝るだけの部屋よ。荷物を置いたらついてきて」

 訝しむ私を、葉子は二つ隣の部屋へ案内した。勿体ぶって開かれた扉の向こうを見るなり、ふらりと脳が揺れる感覚がした。

「なに……、ここ?」

 聞いた声は震えていた。自慢げに笑う葉子の声が、やたら遠くに感じた。

「すごいでしょう。父の書斎兼、私の趣味の部屋ってとこかしら。どうぞ、座って」

 革張りの分厚い椅子が近くに寄せられる。壁に沿って見覚えのある本棚が四つ並んでいた。そこに整列した本の背表紙を、葉子が指でなぞる。左から右へ、作家の名前の上を滑っていく。

「父はね、仕事が忙しいって出張ばっかり。実質単身赴任状態でほとんど家に帰ってこないの。ゆっくり話せる機会も少なくて、昔は随分寂しい思いをしたわ」

 葉子の指が、ある本の上で止まった。背表紙の頭に指を引っ掛けて、赤い表紙の文庫本を取り出した。「あった。ほらこれ!」と葉子は嬉しそうに言った。

「たまに帰ってきた父が、気に入った本を置いていくのよ。それを読むのが幼い頃からの私の日課。それで、一方的に父と対話した気持ちでいたの」

 私はただ呆然と立ち尽くしていた。「健気でしょう?」と微笑む葉子の手の中で、パラパラとページがめくれていく。

「初めて本の話をした時のこと、覚えてる? きっと最初はね、父に聞いて欲しかったことをあなたに話してた」

 葉子の目は文字を追ってはいない。蒼い瞳はただ真っ直ぐに私を見つめていた。これまでとは違う理由で、その目を直視できない。

「でも、いつからか、あなたにこそ伝えたいと思うようになった。そう気づいて、感じたの。私の過去の全部が、良いことも悪いことも、あなたという場所に―――」

通雄みちお

 たった三文字の言葉が葉子の話を遮った。大事な話をしようとしていたのはわかってる。でも、それどころじゃなかった。葉子は不審げに眉を寄せる。

「………どうして知ってるの? お父さんの名前」

 どうして? それは私の台詞だ。どうして、今まで気づかなかった? 本も映画も、趣味が合いすぎてた。疑問に思うべきだっただろうが。

 いや、無理だ。疑えたはずがない。だってまさか、普通考えない

 が! のうのうと隣町に暮らしてるなんて思うわけないじゃないかッ!!!

「奇遇だね。その人は、私のお父さんでもあるんだよ。仕事に励まなきゃいけないのは、きっと、私のお母さんに私の養育費を払わなきゃいけないからだ」

 私の言葉が纏う害意に、葉子は表情を強ばらせる。「あり得ない」と首を振った。

「だって……、私、そんなの聞いたことも……」

「言えなかったんだろうね。『昔々、パパはお前と同い年の娘を捨てました』だなんてさ。寝かしつけには向かないでしょ?」

 私の部屋より二つ多い本棚を見上げる。私が床に重ねていたのと同じ本が、ところどころ、秩序だった列に組み込まれている。拳をぎゅうと握り締める。

 その棚の端、私の部屋と同じ場所に家族写真が置かれている。父は太って老け込んで、かつての美青年と似ても似つかない。けれど、同じとわかる笑顔を浮かべていた。その父と、並び立つ女性を見た時、形のない感情が沸騰した。

 両手で写真立てを引っ掴む。

「元通りになったつもりかよッ! ご丁寧に、同じ本を買い直して! 同じ椅子を転がしてッ!お前が残したあの部屋で、私を透かして、あの人が何を見てるか知りもしないでッッ‼‼‼」

 乱暴に写真を投げ捨てる。だけど、そこに映っていたものが頭を離れない。何もかもを滅茶苦茶にしてしまいたい衝動で身体が満たされていく。

「ごめんなさいっ、私、こんなつもりじゃ……ッ 、私はただ貴方にっ――痛ッ‼」

 震えた声で寄り縋る葉子を、床に組み伏せた。馬乗りになって、左右の手首を掴み押さえつける。「復讐だ」思い付きの言葉に感情が引きずられる。もう、それでいいと自分に言い聞かせる。そぅだ、私にはその権利があるはずだ。

「痛いッ! 透、離して――――ちょ――、やめてッ!! 痛いのよッ!」

 激しく暴れる葉子を体重と腕力で押さえつけ、強引に唇を重ねた。

「………ぅん、ぶぅあっ」

 乱れた髪、紅潮した頬、唾液で濡れた口元。あの高垣葉子の見る影ない有様に、私は衝動の――暴力の意味が変わりつつあることを自覚した。

 葉子は私を鋭く睨み付ける。荒い呼吸の合間に「いいわ」と吐き捨てた。

「これで気が済むなら好きにしなさい。でも、奪われるのは癪。続けるつもりなら、形だけでも段取りを踏んで」

 私はまるで迷わなかった。怒りと恨みと惨めさを煮詰めたような昂ぶり。それを収める何かが、この言葉を口にすれば手に入ると悟ったから。

「私は、葉子を愛してる」

 あっけなく発せられた言葉に、葉子は一瞬だけ目を見開いた。それから、息を止めるような面持ちで瞼を閉じる。

 押さえつけていた手が脱力する。その瞬間、カッと頭が熱くなった。全身がビリビリとした痺れに包まれる。指先が小刻みに揺れるのを抑えられない。

 首筋にキスをした。葉子の身体に頭を埋めるようにして、何度も唇を押し当てる。彼女の四肢が強張り、心臓を庇うように内側に閉じていった。図らず、私を抱き返すような形になる。

「……っ……と…、おる……」

 受容か抵抗か、葉子が小さく私を呼んだ。

 痛い。快楽で頭が痛い。心臓の鼓動に合わせて、こめかみがズキズキと痛む。入力される刺激を心が処理できてない。溢れた先から注がれ続ける。

 そんな一方的陶酔の最中、彼女が薄く瞼を開けた。合間から、蒼い瞳が覗く。

 同時に『また、なぞっている』心の中で声がした。そして、なぜだろう。様々な光景が頭を過った。教室の風景、葉子に抱いた感情。赤い表紙の本、本棚、本棚、床に山積みの本、本棚、写真。

 老いた父の隣の女、瞳、葉子と同じ、蒼い瞳。

 カリ、カリ、カリと音を立てて、見開きの教科書にチェックマークが並んでいく。私の中で私が崩れていく。

 その回想全部を、猛烈な快楽が塗り潰す。

 胸の中で鬱屈としていた全部が、根源的な幸福に上書きされていく。彼女の甘い体臭が煮詰まった頭の中を全て溶かす。悦びだ。私は今、悦びの中にある。

 そうだ、わかった、こうだったんだ。

「ぐっ、――っ――ひッ」

 あの男は、こうやって母を裏切ったんだ。この感情に身を任せて、生まれてもない私と母を切り捨てた。

 許さない、許さない、許さない、なのに!

「………と…おる?」

「―――っ、ひッ、ぐ――ッ!」

 葉子の頬に、私の涙が落ちた。一つ、二つ、いくつも。

 絶対に許せないのに、知ってしまった。理解できてしまった。この衝動に身を任せられるなら他に何も要らない。なにと引き換えにしたって構わない。

 たとえ妻を捨てても父と同じになってもいいと、そう思ったとして、それを選んだとして、それは仕方の無いことなんじゃないか?

「そんなわけ……っ、そんなわけがあるかよッ⁉」

 身の内から湧き出る幸福が汚らわしい。だけど、快感を伴う頭痛が治まらない。

 色濃く継いだ父の血と、身体に焼き付いた母の視線が、私の中で混ざって膨張していく。不安と困惑を浮かべる葉子の瞳に、私の衝動が煽られる。

「葉子を愛してる」

 その感情は、もう愛としか表現できなかった。少なくとも、父はそう呼んだのだ。私もまた、身体中を駆け巡る悦びに抗えずにいる。

「愛してるんだ」

 もう一度言った。父と何かが違っていて欲しいと、祈るように繰り返す。

 葉子に口を寄せる。傾けた頭からまた涙が零れて、息継ぎするように顔を上げる。無様な私を見上げる彼女は、その頬に私の涙を流したまま、短く息を吐いた。

「………理不尽だわ。こんな乱暴にされてるのに、私が虐めてるみたいじゃない」

 呆れるように言った途端、彼女の存在が希薄になったのを感じた。元々薄い身体が、底の抜けた硝子瓶みたいに脆く感じられた。

 割れそうな右手をゆらりと持ち上げる。手の平が私の耳の隣を通り過ぎる。

「私は、透のことを運命だと思っていた。生まれ持ったもの、経験したことの全部が、あなたに収束していくのを感じていたの。とっても素敵な気持ちだった」

 彼女は右手を私の背後で開いた。瞳は天井よりも遠くを見つめている。

「透にとっての私も同じだったらいいって、ずっと夢見ていた。こんなレイプまがいの交わりですら、然るべき収着を迎えるなら許せてしまえると、ほんのさっきまで信じていたわ」

「私は……、私だって葉子のことが……」

「駄目ね。だってあなたは、私が求めるものを、こんなにも恐れてる」

 葉子は右手を私の頬に当てて、指の甲で掬うように涙を拭った。

「私の運命の恋は、ここでおしまい」

 尊ぶように、嘲るように、微笑む葉子は消えてしまいそうな程に儚げで、過去のどの瞬間より美しかった。

 気づくと、痛みも痺れも悦びも、愛と名付けた衝動さえも身体から消えていた。

 代わりに残った感情がある。それを決して決して離さないように、私は自分の左手を葉子の右手に重ねた。

「私にとって、葉子は鏡だった。葉子を見つめている時だけ、自分の心の形がわかる気がした。葉子を通して見る世界は、自分のものだって信じられた」

 きっと、私はその世界が欲しかった。自分の住む場所を投げ出したかった。

「間違ってた。結局、葉子ですら、私が逃げ出したかった世界の一部だったんだ」

「互いに幻滅したってことね。笑っちゃう。先生に席替えのお願いしなきゃ」

「それでも、私は葉子を離したくない」

 これまでしてきたように、これからそうしていくように。手探りの感情に、おさがりの言葉を当てはめる。

「酷いこと言うわ。それで? いつか、私を愛することができる?」

「できない。私は、私と葉子を引き合わせた過去を絶対に許せない」

「でしょうね。でも、じゃあ、私が憎い?」

「そんなわけないって、言い続けたい」

 丈の余った意味を、また言葉で裁断する。それを繰り返す。

「また、好きな本の話を聞いてくれる? きっと、透も気に入る、私達のお父さんが好きな本」

「嫌だって言ったら、私のこと嫌いになる?」

「無理でしょうね。でも、さみしいわ。泣いてしまうかも」

「……そっか、泣かれるのは嫌だな」

 認め難いものを、得難いもの諸共裁ち捨てる。得難いものを、認めがたいものごと選り分ける。言葉にならないものを切り出す為に、言葉を羅列する。淡々と、淀みなく、画面に吹き出しを並べるように、周知の回答を送り合う。

 言葉をなくす為に、言葉を探した。

「透はどう? 深いなものばかり映す鏡は、もう見たくない?」

「ううん。たとえ、その目が紅くなっても、私は葉子に見蕩れていたい」

「逆ね。私の瞳が蒼いままでも、私から目を逸らさないで」

 ふと、自分の言葉にきょとんとした葉子が「ああ」と薄く微笑んだ。

「私だけを見て。そうしたら、あなただけを映すから」

「ははっ、それができたら……、素敵だ」

 葉子の瞳の中で、蒼い私が笑った。そこまでが、かろうじて意味のある会話だった。「ええ、素敵だわ」という葉子の返事からは相槌に相槌を返すようなやり取りが続き、次第に言葉が途切れていった。

 まだ、何かを言おうと思った。まだ、何かを言おうとしてる。だけど、まだ言葉にならない。互いの思考が内を向き、渦を巻く。ほんの一時、時を止めたような沈黙が訪れた。

 その中で葉子の息遣いだけを聞いていた。それが、私の求める全てだった。

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言の葉、透きとおる あさって @Asatte_Chan

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