第2話

「く……っ、ふぅ」

 文庫小説を一冊読み終えた私は、座ったまま伸びをした。制服と不釣り合いな革張りの椅子が、分厚い背もたれを軋ませる。タイトルの可笑しさだけで買ってしまったけど当たりだったな、面白かった。葉子にも勧めよう。

 そう決めて、ふと、壁の本棚に視線を移す。

 二つ並んだ木製の本棚は規則正しく整頓されていた。一番上から中段にかけて文庫小説が作者順にぎっちりと詰め込まれている。次に新書がやはり作者順に並ぶ。以下サイズが大きくなる毎に同じ法則が繰り返される。最下段には大きな図鑑や辞書、美術展のカタログなんかもあるが、これも背の順に並んでいる。

 整然と並ぶ背表紙達。私の最も古い記憶と同じ景色。

 生まれた時からずっと、私はこの部屋で暮らしている。この部屋の本を読んで育ってきた。

 初めての小説は、小さな女の子が鏡の中にある世界を旅するお話。楽しいドキドキと怖いドキドキで胸が一杯になったのを覚えている。どっぷりと物語に浸り、憧れた。次々に本を読み漁った。上の棚に手が届かなくて、背が伸びるのが待てないと泣いたこともあった。

 そうして、いつか悟ったのだ。目の前にある本棚こそが、自分にとっての鏡なのだと。その認識は今も変わらない。でも、幼い私は言葉の意味を誤解していた。

 鏡は旅立ちの扉ではなく、ただ、自分を映し出すだけのものだ。あの日、無限に広がると信じていた六畳洋室は、古くて大きな家具のせいもあり、今の私には窮屈で仕方が無い。

 私は立ち上がり、本棚の端に置かれた写真立てを手に取った。そして、空いたスペースに読み終えた小説を差し込もうとした時、突然、部屋のドアが開いた。

「透っ、もう! いるなら返事しなさいよ」

「ごめん、気づかなかった」

  何度も呼んでいたらしい。苛立った様子で突入してきた母は、本を持つ私を見るなり一瞬たじろいだ。私以外にはわからないくらい微かに。

「ねぇ、母さん。私、自分の部屋が欲しい」

 用件を聞く前に言ってみる。母は眉毛をひくつかせながら、わけがわからないという風を装った。

「……部屋ならここでしょ? なに言ってるのよ」

「だって、この部屋はお父さんのじゃん」

「夕飯ッ! テーブルにあるからチンして食べて。お母さんもう仕事行くからね!」

 慌ただしく閉まったドアを、力なく小突く。

「いなくなった奴のことをいつまで……」

 手の写真立てに目をやる。若かりし父と母の写真。本棚の前で無邪気に笑う父の顔は、自分で見ても私とそっくりだ。気味が悪い。何度も捨てようとしたのに、母が元の場所に戻してしまう。

 写真立てを後ろ向きにして本棚に置く。そして、もう片方の手にあった文庫本は部屋の片隅、床に直接積み重なった本の山々に置いた。スマホで写真を撮って、チャットアプリで葉子に送る。

『この前買った本が面白かった、今度持ってく』

 入力したメッセージが吹き出し型の送信欄に表示されると、すぐに返信が来た。

『本は本棚に仕舞いなさい』

 葉子らしいな。苦笑しつつ『反省』という感じのスタンプを探していると、追加のメッセージが次々と届く。画面を吹き出しが埋めていく。

『一番上の赤い表紙のやつよね?』『私も読んだわ』『透も好きだと思ってた!』

 高揚を感じながら返信を打つ。打てば響く、欲しい場所に欲しい言葉が届く、互いの求めるものを予めわかっているような感覚。葉子との会話にはいつも、そんな心地良さがあった。

『ラスト手前のタイトル回収が最高だった』

『それわよ』『あと、』『作中でガムテープの意味が3回変わってるの』『技あり』

 その一方で、不安が込み上げる。これも、いつものことだった。最適の回答を送り合う幸福感は、台本の読み上げを会話と呼ぶような滑稽さと紙一重のところにある。

 並ぶ吹き出しに授業で使うチャットAIの画面がフラッシュバックした。

 今、葉子に送っているのは意思表明コメント指示文書プロンプトのどちらだろう。返答と回答の間の距離を私は測りきれずにいる。

『ねぇ、葉子の部屋ってどんなの?』 

 一通り話し尽くしてメッセージが途切れた時、ふと聞いていた。

 脈絡ない質問の意図を掴みかねたのか、『高垣葉子が入力しています…』と表示されたまま、返信はなかなか届かない。末尾の三点リーダーが順番に明滅する。

 そんな、ほとんど停止した画面の有り触れたエフェクトから、教室での葉子を連想した。顎に手を当てて、睫を伏せる葉子の姿、その息遣いを思い浮かべる。モヤモヤとした気持ちが、少し和らいだ気がした。

『四方を壁に囲まれていて、見上げれば天井があるわ。コンセントは三つよ』

 やっと届いたメッセージにクスッとした後、二~三回の会話で葉子との会話を終えた。私はアプリが開いたままのスマートフォンに充電器を刺して、積み上がった本の山に重ねた。

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