第十七話 泪のムコウ
理亜が“夢”について語っている間、僕はただ黙ってその話を聞いていた。
否、途中で口を出すことなど出来やしなかった。
(――聞いてくれる?)
理亜がそう尋ねて来た時、僕も相応の覚悟を以て頷きを返したはずだった。彼女の口から語られる過去がどんなに悲痛なものであっても、余裕をもって受け止められるように覚悟を決めていたはずだった。
けれど、その程度の覚悟では足りなかった。理亜の口から紡がれた過去は僕の想像を遥かに超えていて、とても途中で僕なんかが口を挟んでいい内容ではないと悟ってしまった。
一体どういう思考回路を持っていればここまで人を追い詰めることが出来るのだろうか。
勝手に理亜を利用しておいて、それに失敗したから切り捨てる。そうするだけでは飽き足らず、その代償を求める。どう考えても正気の沙汰ではない。
“返せ”。その言葉を眼前で投げられた時、理亜はどのような心情だったのだろう。
一方的に突き付けられた要求を飲み込みきれず、誰かに助けることもできず、ただ独りぼっちで――。
僕は理亜の矜持と呼ぶべきその思想が、一体どこで身に付いたのかを真に理解して奥歯を噛み締める。
――どうして、そう容易く人を傷つけることが出来るんだ。
つい口を継いで出てしまいそうになった怒りの言葉は無理矢理飲み込んだ。
理亜をここまで追い詰めた者たちは、今ここには居ない。口にしたところで、余計に彼女を困らせるだけだろう。
「私は、貴方から貰いすぎた――」
暫し続いた沈黙を破って理亜がそんなことを言う。
恐怖に震えた小さな囁き。酷く他人行儀で、意図的にこちらを遠ざけようとする意志が見える。
「何か、返さなくちゃ……」
弱々しい声音で続ける彼女。その姿はまるで懺悔を行う咎人のようで、見ていると胸を締め付けられるような痛みを覚えてしまう。
理亜を救いたい。その一心で彼女に掛ける言葉を必死に考えるが、都合良く思いつく訳もなく、次第にどうしていいか分からなくなった。
僕と理亜は、所詮は他人。
僕は彼女の過去を聞いただけであって体験したわけではない。共感なんてできる訳が無いし、理亜としても簡単に共感などされては堪らないだろう。
かと言って、理亜を追い詰めた者へ怒りを叫んだとしても、彼女はきっと喜ばない。
今の状況における僕は本当に何もできない存在で、考え抜いた果てに唯一出来たことと言えば、震える理亜を腕の中に収めるくらいのものだった。
「ろ、ろい……」
「もういい」
急に抱き寄せられたことに理亜が戸惑いを見せたのも束の間。
これ以上甘える訳にはいかないからと、僕を引き離して離れようとする彼女を制止すれば、ぴたりとその動きが止まる。
「もういいんだ」
僅かに理亜が息を呑む気配。押し返すために僕の身体に添えられていた彼女の細い手から力が抜けて、ぱさりとソファに落ちる。
僕には彼女の過去を消すことは出来ない。同情したところで、彼女の心の傷が癒えることが無いもの承知している。
だがそれでも、せめてこれから先の未来はその呪縛に囚われる必要はないのだと伝えることくらいはできるのだ。
「今まで、よく独りで」
よく頑張った、よく耐えた、そんな気持ちを込めて理亜に言う。
抱き締めた小さな体はやはり細くて、それから驚くほど華奢で頼りない。少しでも無理に力を込めてしまえば容易く折れてしまいそうなほど。
「理亜は十分自分を支払ってきた。だからもう、そんなことはしなくていいんだ」
理亜は十分、自分を代償として払ってきた。何かを求められる度、自分の心を、身体を、粉々に砕いて配ってきた。
こんなことを続けていては、いつか配るものすら無くなって、彼女は壊れてしまう。
そんなこと絶対にさせるものか。
「僕が赦す」
落ち着いた声音で、けれど力強く言う。
他人の分際でおこがましいかとも思ったが、理亜が自ら腕を僕の背に回してきたので、それも全て消えていった。
抱き合って、互いの肩に頭を乗せるような体勢になっているせいか、その顔は見えない。
理亜の頬を伝った泪には終ぞ気づかなかった。
「ほんとに、いいの……?」
やがて暫しの沈黙を経て、落ち着いてきたらしい理亜がそんなことを尋ねてきた。
「何が?」
「私、何も持ってないよ。何も返せないよ。それなのに路惟に貰ってばかり。……それでもいいの?」
「前にも言ったけど、別に見返りが欲しい訳じゃないよ」
緩く首を左右に振りながら答える。
元からこちらが好きでやっていることなのだ。見返りを求める方がどうかしている。
「僕は損得勘定で人付き合いなんかしてない。困った時はお互い様だし、人に世話になったと感じた時、まず返すべきは感謝だって、そう思ってる。見返りとか、代償とか、そんなものいらないな」
もし仮に僕が見返りを求めれば、理亜は是が非でもそれを返そうとしてくるだろう。
たとえその結果、自分が傷つくとしても、彼女はそれを厭わないに違いない。
僕は理亜が自分を犠牲にして得た対価などいらないし、貰ったとしても喜ぶことなど出来ないだろう。
「理亜は、言葉でそれを伝える方法を、もう知っているだろ」
問いかけるように言えば、こくりと理亜が頷く。
そう。重要なのは感謝を伝えることだ。
言葉だけでは伝えきれないからと、贈り物や手伝いをして感謝の気持ちを伝える場合もあるが、関係の進展を願って善意で行う感謝の行為と、無理をさせ、強要をしてまで支払わせる代償は別物だろう。
感謝を伝えるために無理をしたり、自分自身を傷つけたりは絶対にしてはいけないのだ。
「……路惟」
落ち着きを纏った声音で理亜が言った。
「ありがとう」
「気にしなくていい。僕が勝手にやってることだ。けど、そう言ってくれるのは嬉しいな」
「うん……」
頷きと共に僕を抱き返している理亜の腕に力が籠る。
じんわりと胸の奥が温かくなるのを感じて、僕は思わず微笑んだ。
見返りや代償という手段でなくとも、言葉一つで人はここまで温かい気持ちになれる。
僕はそれだけで十分だったし、理亜にもそれだけは知っていてほしいと思うのだ。
「ねぇ」
「うん?」
「このあたたかいのは何? 心が、溶けていきそうな……」
「決まってる。理亜の感謝が生んだ、心のあたたかさだよ」
「……そう」
返ってきたその返答は、いつものような素っ気ないそれではない。心の底からの安らぎと、喜びを感じさせる柔らかな声音。
それから甘える猫のように僕の肩に頬を擦り寄せる。
どうやらしばらく放れてくれそうにはないなと密かに微笑んだ僕だったが、再度理亜から声を掛けられた時には思わずその笑みを消してしまった。
「路惟……。震えてる?」
「…………震えてる? 僕が?」
まさか、と薄く嗤う。理亜に対してではなく、自分に対しての、嘲笑だった。
一体どこに震える要素があっただろうか。
リビングは暖房を効かせているので寒いなどということは無いし、先も別に恐れ慄くような話をしていた訳ではない。
事実かどうか確かめるべく自身の手を見やれば、微かに、けれど確かに指先が震えているのが見えた。
「……ほんとだ。変だな」
「大丈夫?」
「平気だよ。慣れてないのさ。女の子を抱き締めるなんていうのは。きっとその所為だ」
嘘だ。と自分ですぐに気づいた。
本当は何が原因なのか分かっている。それを取ってつけたような理由と苦笑いで誤魔化しただけだ。
――何やってるんだろうな。
僕に女性を抱き締める資格など無い。
散々思い知って、もう必要以上に関わらないと、そう決めた。そのはずなのに――。
――僕は……。
短い嘆息。目一杯目を眇め、歪に嗤おうとして、けれど理亜に遮られた。
「大丈夫だよ。路惟。大丈夫」
まるで子供をあやす母親の如く言って、頭を撫でてくる理亜。そんな仕草を一体何処で覚えて来たのか、訪ねる余裕は僕には無く、息が詰まるような感覚を覚えて奥歯を噛み締める。
お互い顔が見えていなくて良かったと心の底から思った。きっと今の僕は酷く歪んだ、哀れな表情をしていることだろう。
理亜を慰めるつもりが逆に慰められて、それなのに震えは止まらない。むしろ酷くなる一方である。
もしかすると理亜の取ったその行動が、より僕の中の恐怖を煽ったのかもしれないが。
――僕は、怖いんだ……。
そんな呟きは声にはならず、ただ僕の心の闇の中に落ちて消えた。
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