第十六話 偽りの家族
物心つく前から、私には家族と呼べる人が居なかった。
いや、実際にはいたのかもしれないが、会ったことは無かったし、顔や声だって知りもしなかった。
はたしてそんな人を家族と呼べるのかと問われれば答えは否なので、やはり私には家族はいなかったのだろう。
私は“高級”や“邸”といった修飾がつく類の大きな家に一人で住んでいた。
お世話係の使用人は居たが、それも通い。結局のところ、ほとんどの時間を独りで過ごしていたことに変わりは無い。
姿の見えない家族。誰も居ない家。とても歪な空間だが、当時の私は無垢な子供で、だから信じて疑いもしなかった。
本当はそれがおかしい事だと気づきもしなかった。
私にとってはそれが唯一の在り処で、当たり前だったのだ。
そんな私がとある家族に引き取られることになったのは、五歳の生活も半ばに差し掛かったある日のことだ。
「あの
「ああ、理亜というらしい。この屋敷に一人で住まわされてるお姫様だよ」
とある春の月初め。珍しく家を訪れた客人達に私は純粋に驚いた。
その日はいつも来るはずの使用人が不思議と来なくて、代わりに中年の男が二人。
来客なんて何時ぶりだろう。この家には来客なんてほとんど訪れない。たまに来る配達の人を除けば、彼らが初めてでは無いだろうか。
何にせよ、その出来事は私に好奇心を抱かせるには十分すぎて、だからつい客間で話す二人の会話を盗み聞きしてしまった。
「なぜこんな所に……」
「その事についてなんだが、面白い事実が出てきた。どうやらあの子、鳴海 栄信の実子らしい」
「鳴海……。あの鳴海グループ代表の?」
「それ以外に何がある」
「……まさか、嫡子は無いはずでは?」
「妾の子なんだろ。でなければ我々のような分家に面倒を見させるなんて話、あるわけが無い」
客間の豪華なソファに腰掛けた二人がするのはそんな話。
もちろん幼い私にその内容が理解出来るはずもなくて、結局会話を全部聞き流した後で小首を傾げる。
分からない話をされるのはちょっとだけ退屈だ。
「その話、確かなのか?」
「一部で噂があってね。調べさせた。先日ようやく証拠なりうる資料を押さえたんだ。父親は栄進氏で間違いない」
困惑する私を他所に、さらに会話が続く。
相変わらず会話の内容は謎だらけで、けれど男たちの間で手渡された紙束がそのなんちゃらの資料だということだけは分かった。
「で、この子の処遇をどう考える? 施設にでもやるか?」
「施設には入れられんからこちらに話が来たのではなかったか?」
「自身の不徳を隠したい気持ちは察するが、正直どうとでもなる。元々事を押し付けてきたのはあちらだ。覚悟もしているだろう」
沈黙。問いかけられた方の男が答えたのはほんの少し後の事だ。
「……いや、あの娘はうちで預かる」
「ほう」
「鳴海に入るのはうちの悲願だ。持っていて悪いカードではない。それに先の会話、聞かれてしまっていたようだしな」
ちらりとこちらを見据えた男と目が合って、慌てた私は思わず物陰に身を隠した。
そうしたところで、見つかった後ではもう遅いのだけれど……。
「出ておいで」
その言葉が私に向けてのものであるということはすぐに分かる。
恐る恐る顔を出して様子を窺えば、声をかけた男がゆっくりと近づいて来るところだ。
こく、と思わず喉の奥を鳴らす。じわじわと湧いてくる恐怖飲み込もうとしたけれど、上手くいかなかった。
気づけば男は目の前まで歩み寄っていて、一拍置いたその後にゆっくりと膝を付く。
膝を着いてなお見上げるほどの巨躯。圧倒されたのは言うまでもない。
「初めまして。盗み聞きとは関心しないな」
「……ご、ごめんなさい」
悪いことをした自覚はあった。
謝りながら怒られることを覚悟するが、次に男が発した言葉は怒りのそれではなかった。
「いや、いいんだ。こちらも驚かせて悪かった。私達は君を預かるように言われてここへ来た。突然のことで訳が分からないだろうが、この事態を君に分かるように説明するのは少々難しくてね……」
男は一度困ったように眉尻を下げ、それからうっすらと笑いを浮かべる。
「君はこれから私と一緒に来るんだ。いいかい?」
有無を言わさぬその声音に、柔和なように見えてどこか歪なその笑みに、私の中の何かが違和感を訴えたが、その正体までは掴めない。
結局私はその問いに答えることが出来なかった。けれど、相手はその沈黙を承諾と受け取ったらしく、私はそのままその男に引き取られることとなった。
私を引き取った男は名を
彼は比較的都心部に建つマンションの八階に、妻と私より一つ年上の娘と三人で暮らしていた。
流石に以前私が住まわされていた邸宅ほどでは無いにしろ、広いリビングとダイニング、和室や家族全員分の個室まである一室は土地の立地を考えても十分に贅沢な住まいだったに違いない。
新しい家での生活も最初のうちは良いものだった。
それもそのはずだ。どんな理由であれ眞嶋にとって私は利用価値のある存在で、だからこそ大事に飼われる。価値あるものを損在に扱う者などいないだろう。
加えて彼の娘は家に私が来たことをとても喜んだ。
彼女は本当に人と関わるのが上手だった。馬鹿みたいに明るくて、活発で、図々しくて、そして私によく構った。それこそ鬱陶しいくらいに、時に面倒だと思うくらいに。
私は彼女の眩しさに充てられて心を許し、すぐに仲良くなった。
今までとは違う賑やかな家での生活。それはまるで人生に色がついたかのように煌びやかで、瞬く間に心を満たしていく。
いつしか私は自分もこの家族の一員になったのだと、そう思い込むようになった。
それが浅はかで愚かな、自惚れであるとも知らずに……。
「ねえ、りあもおいでよ」
眞嶋の娘にそんなことを言われたのは何時だっただろうか。確か私が六つの誕生日を迎える直前の、ある日のことだった気がする。
その日は偶然バルコニーから珍しいものが見えていて、私たちはその光景に心躍らせていた。
「ここならもっときれいにみえるよ!」
もっと高い所から見れば綺麗だと彼女は言った。
子供特有の好奇心の高さ故か、それとも警戒心の低さ故か、外界とバルコニーを隔てる落下防止の柵によじ登って。
「ほら! いっしょにみよ!」
彼女が振り返って手を差し出す。その横顔はあまりにも眩しくて、私は外の景色よりも彼女の方に見惚れた。
突き動かされるような衝動に駆られて、踏み出す一歩。後を追うべく手を伸ばす。
けれど、臆病な私は彼女のように柵を登りきることは出来なくて、伸ばしたその手は焦がれても届かない。
そしてその日、その会話を最後に、眞嶋の娘は死んだ。
彼女はマンションの八階から下へと落ちた。風に煽られたのかもしれないし、単にバランスを崩しただけかもしれない、ただ気づいた時には彼女は目の前から消えていて、手を伸ばした先には誰も居なかった。
下はコンクリートか、あるいは石材のタイルか、いずれにせよ助かるまい。
自分の事ではないはずなのに、どうしてかとても恐ろしかった。
私は落ちた彼女のことを見ることもせず、程なくして下から聞こえた第一発見者の悲鳴からも、駆けつけた警察車両や救急車のサイレン音からも耳を塞いで、独り、震えながら泣いた。
その日から私はよく眞嶋の妻に当たられる様になった。
眞嶋の妻は、自分の娘が死んだのは私の所為だと言って、何度も私を叱った。
そう、何度も。次第にそれは勢いを増して、やがて単なる罵倒だけでは済されなくなった。
躾の一環として食事を抜かれ、寒空の下外に締め出され、やがては暴力に至る。
対して私には抵抗する術などありはしなくて、それはすぐに私の当たり前になった。
「もういいだろう」
私への風当たりが一層強くなったある日。眞嶋の妻が私に手をあげようとしたのを、夫が止めたことがあった。
彼が振り下ろされる直前であった妻の右手を掴んで止めれば、それまで私を睨みつけていた鋭い眼孔が一時的に眞嶋の方へと逸れる。
「何よ! こいつの肩を持つの?!」
「違う。だが、これからの私たちにこれは必要なんだ。上手く使えば地位と安寧が手に入る。それまでの辛抱だ」
「うるさい!」
掴まれていた手を振り払って、眞嶋の妻は再びこちらを睨む。
「……そんなもの要らない」
女性ながらも目一杯の低い声音。私を睨みつける瞳が揺れ始めて、やがて涙がこぼれ始める。
再び振り上げられる右手は、もう見慣れた人を打つ直前の構え。
「
ばちん、強い衝撃を頬に受けて大きくバランスを崩す。
突然の衝撃に処理できずに、大きく振れる視界。頬に走った痛みは歯を食い縛って無理やり耐えた。
ああそっか、とそこでようやく察する。
もし、あの時死んだのが眞嶋の娘でなく私だったなら、ここまで事態は拗れていなかったのだろう。
眞嶋の娘は死んで、私は死ななかった。その事実がこの家を歪めて、全てが壊れ始めてしまったに違いない。
――わたしは、いらない……?
そんな嘆きにも似た問いかけが脳裏を掠めて、けれど口には出せない。
それを聞いたら、答えを知ってしまったら、もう二度と家族とは呼べなくなってしまう気がして、私はそれを拒んだ。
結果、内側から湧き出る吐き気と、嫌な音を立てる心臓の鼓動だけが上手く処理できずに残った。
それから数日後、眞嶋の妻は死んだ。
どうやら娘を失った悲しみは、私にぶつけても尚晴らすことが出来なかったらしい。
彼女はある日一人で外出したきり、二度と帰らなかった。
私は眞嶋の妻の死を直接聞かされはしなかったけれど、突然家を訪れた警察官の話や、日に日に
『では次のニュースです。国内屈指の企業規模を誇る鳴海グループ。その八代目頭首、鳴海 栄信氏が穂波グループとの合併を表明。次期代表に穂波グループから一条 斗真氏を――』
六つの誕生日を迎えて数週間経ったある日。幼稚園から帰宅すると、この所自室に引き篭ってばかりだった眞嶋が珍しくリビングでテレビを見ていた。
テレビに映るニュース番組の内容は私には全く理解出来なかったが、その時の彼の表情はよく覚えている。
まるで何もかも失って抜け落ちてしまったかのような、絶望すら感じられる表情。妻や娘が亡くなった時でさえ、ここまで歪んだ表情はしていなかった。
きっと何か良くないことが起こったのだろう。私はすぐにそれを察して、刹那の逡巡の後、その大きな背にそっと声をかけた。
「だいじょうぶ……?」
緩慢に、眞嶋が首をこちらに向ける。
酷いクマに縁取られた黒の双眸。見たこともない虚ろな眼差しは悲憤と痛嘆を静謐に押し込めたかのようで、少しだけ怖かった。
「あ、あのね。今日は先生とお絵描きをしたんだ」
なんでこんなことを口にしたのかは自分でも分からない。
けれど、少しでも眞嶋を元気づけたいと思って、必死に思考を巡らせたその先に思い立った行動だったことは確かだ。
「家族の絵をかこうって言われて。だからね、みんなの絵をかいたよ」
必死に言葉を紡ぎながら、通園時に持っていく鞄から絵を取り出す。
決して大きくはない一枚。眞嶋と、妻と、娘と、それから自分を描いたそれ。
きっと喜んでくれる。また昔みたいに笑ってくれる。そんな期待を込めて、私は絵を眞嶋に見せた。
ふつり、と何かが切れたような沈黙が落ちたのは、その直後だ。
今まで凍りついた様だった瞳が砕けて、その内側から今まで静謐に隠されていたものが現れる。
陽炎のような狂熱と嵐のような激情。私がそれに気づいたその瞬間に絵は破り捨てられて散った。
「ッ……!」
恐ろしい力で首を捕まれ、気管から空気が絞り出される。そのままフローリングに叩きつけられたのだと分かったのは、後頭部に強い衝撃を受けてから更に一拍置いた後だった。
必死に新しい空気を取り込もうとするも、首を絞め上げる圧力に邪魔されて入ってこない。
酸欠であっという間に視界が暗くなる。至近距離で憎悪を訴える瞳に嘆きを返す余裕などありはしなかった。
「――だまれ」
食い縛った歯の隙間から、鉛のように重たい声が落ちる。
「……お前なんか
鼓膜を震わせる嵐のような大音声。
眞嶋が怒っている理由は、私には分からなかった。恐らく、それを理解するには私は幼すぎた。
痛い。苦しい。息ができない。生命の危機を察知し、思考がそんな言葉で埋め尽くされる。
“助けて”。その一言すら眞嶋は発することを許さなかった。
「こんなはずじゃなかったぞ……。お前は呪いじゃなく希望だったんだ。それが今はどうだ。何の価値もない穀潰しめ……。お前さえいなければ!」
お前なんかいなければよかった。お前が来てからこの家はおかしくなった。今からでもいい。この世から消えてしまえ。
死ね。
口では言われてないけれど、その瞳が、声音が、怒気が、それを訴えかけてくる。
「返せッ!! 妻を! 娘を! 今までお前を飼うためにかけた金も時間も! 全部!」
怖かった。恐ろしかった。
けれど、身動きすら取れず、その怒号からは耳を塞ぐことも出来なくて……。
だから私は心の奥底へ、誰も触れられないその場所へ逃げ込んだ。
結局眞嶋は私を殺さず、私がこと切れる前にその手を離したが、もう遅い。
きっと無邪気な子供の私は、この時この瞬間に死んだのだ――。
《人は自分が損をする事はしない。》
この日、無邪気な自分の死と引き換えに学んだのはそれだった。
私は眞嶋の家族でも何でもなかった。
ただ利用価値があったから、もしくは将来的に自身に利益をもたらす可能性があったから飼われていた。
それが無くなれば切り捨てられるのは当然のことだ。今まで私が浪費したもの全てを返せと言われるのも不思議ではない。
そしてそれを返すことが出来なかった私は、あっさりと眞嶋の家を追い出された。
“忌み子”、“穀潰し”、そんなあだ名を付けられて家をたらい回しにされることになったのは、その日からだった。
【あとがきっぽい何か】
お読みいただきありがとうございます。
眞嶋の娘は
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