第十五話 悪夢の断片

 その夜、私は夢を見た。

 忘れもしない。あの、最低な日の夢だ。

 まだ無邪気な子供でいられた頃の、最後の記憶――。





「お前のせいだ!!」


 響き渡るのは成人男性特有の低い声から成る大音声。

 至近距離で発せられた怒号は幼い私の鼓膜をこれでもかと言うほど震わせて、脳内でぐわんぐわんとこだまする。


 一体何故、目の前の男がこれほどまでに怒り狂っているのか、それすら私には分からなかったけれど、ただ一つその怒りの矛先が私なのだということだけは理解した。


「お前さえ居なければ!」


 まさしく鬼の形相で、男が怒鳴る。

 今すぐ謝りたい衝動に駆られるが、首を押さえつけられ、言葉を口にするどころか息をすることさえままならない。

 抵抗しようにも、成人男性とまだ六つになったばかりの少女とでは力の差は歴然だった。


 一体私が何をしたというのだろう。

 悪いことをしたというのならそれを教えてほしいと思う。

 確かに目の前の男に比べれば、私は無知な子供かもしれない。

 ただそれでも、悪いことをしたら謝るということくらいは分かるのだ。


「返せ!!」


 結局男は怒りの理由を告げなかった。

 ただ一方的にそんなことを言われて、それを上手く飲み込めなかった私は、ただ底無しの恐怖に思考を支配される。


 もし、もう少しだけでも私に理解力があったなら、彼が言っていたことの真意もちゃんと理解できていたのだろうか。

 そんなことを考える余裕すら、もはやありはしない。

 そうしてその日、私は純真無垢な子供では無くなった。





「……ッ!」


 そこでようやく悪夢の世界から脱出した私は慌ててベッドから半身を起こす。

 呼吸は荒く、動悸を起こした心臓は締め付けられているかのように痛む。

 嫌な汗で湿気った寝間着を気にしている余裕は、とてもじゃないが無かった。


 きっとこれは罰なのだろうと、荒ぶる心臓を呼吸で無理矢理押さえ込みながらそんなことを思う。

 恐らく私は、彼に――路惟に出会って幸せになりすぎたのだ。


 路惟は優しい。こんな私ことも人間扱いをしてくれて、嫌な顔一つせず気を遣ってくれる。

 いつしか私はそんな彼に甘えて、できるなら、赦されるなら、もう少しだけ傍にと望んでしまっていた。


 そんなこと到底赦されることでは無かったのに。


 だからこれは縋ってはいけないものに縋った私が、本当の無価値な自分を思い出すために課せられた罰に違いない。


――バカね。私。


 もっと早くに気づくべきだった。

 優しさなどという人間らしい感情は私なんかに向けられるべきでは無い。


 そんなもの私には似合わないし、与えられる価値など少しだってありはしない。

 それを忘れて今まで自惚れていたのだから罰を受けるのは当然の事だ。

 ようやく気づいた私は独り、顔を歪めて嗤って――。


 キィ、と微かな音を立てて唐突に部屋の扉が開いたのはその直後。

 もちろん触れもしていない扉が勝手に開くなどという冗談は無いので、それが何者かに操作されたのだということは直ぐに察しがつく。


 半開きとなった扉の隙間から僅かに顔を覗かせるのは、ここ数ヶ月でよく見知った人物。

 思わず絶句した。全身の血の気が引いていくのが嫌でも分かる。


「路惟……?」


 そこには、今一番顔を合わせたくなかった人が、僅かに驚いたような表情を携えて立っていた。


 *



「路惟……?」


 扉の隙間から廊下のダウンライトの光だけが差す薄暗い部屋の中、僕の名を呼んだその声音は驚く程に弱く、そして微かに震えていた。


 時刻は午前一時半過ぎ。まさかこんな時間まで彼女が起きているとは思わなかった僕は反射的に手にしたものプレゼントを後ろへ隠す。


 まだ起きていたのか、とは言えなかった。それを問うよりも先に彼女の様子がおかしいことに気づいてしまって、心配の方が勝ってしまったのだ。


 それに、いくらクリスマスとはいえ僕も今現在夜更かしをしている。それを棚に上げて彼女だけを責めることはできまい。


「……どう、して?」


 やや掠れた声で言われ、けれどすぐに答えることが出来ずに目を逸らす。

 良くない所を見られたなと思った。


 理亜の疑問は正しい。いつもなら僕が無断で彼女の部屋へ立ち入ることは絶対に無いわけで、普段と違う事象が起これば疑問を抱くのは当然だろう。


 別に性の六時間とやらに託けて夜這いに来た訳では無い。

 ただ昼間の、サンタクロースの話をした時の理亜の遠い目が忘れられなくて、一日くらい彼女のサンタになってやってもいいかと思っただけなのだ。


 プレゼントを枕元に置いて退散する。それだけのつもりが、面倒なことになってしまった。

 こんなことになるのであれば粋なことはせず、単なる僕からの贈り物として今手中にあるそれを手渡した方が楽だったかもしれない。


「いや、少し用があってね……」


 変に言葉を濁さない方が良かっただろうか。

 余計に怪しげな回答になってしまったような気もして少し後悔する。


「理亜こそあまりいい表情をしていないな。何かあったのか?」

「別に……」


 冷えた声音で言って、理亜はこちらから逃げるようにその瞳を逸らす。

 まるで出会って間もない頃の、周りを警戒してばかりいた彼女に戻ってしまったような、そんな反応だった。


「平気そうには見えないな」

「路惟には、関係ない……」


 だから構ってくるな、とそう言いたげな瞳は虚ろで昏い。

 他人を信じることが出来なくなった理亜が、周りを遮断する時に使う冷徹な態度。


 ただ、それは彼女が本当は裏で傷付いている時にとる態度なのだと僕はもう知っている。

 踏みにじられて傷つき、泣き方も知らずに彷徨い果てたその先で、彼女が自分の身を守るために身につけた唯一の術がそれなのだということも、今なら分かる。


 だから、僕が見ていなかった間に何かあったのだろうと確信するまでにそう時間はかからなかった。


「少し、話しをしよう」


 気づけばそんなことを口にしてしまっていた。

 別に気を遣ったとかでは無い。けれど、このまま憔悴した様子の理亜を放っておくと、また以前のように心を閉ざしてしまいそうで、それは何となく嫌だった。

 ただ、それだけのことだ。


「関係ないって、言った」

「分かっているさ。ただ僕が理亜と話したいから言ってるんだ」


 薄暗い部屋の中、虚を突かれたらしい理亜が一度瞬きをしたのが見えた。

 こちらを見つめる瞳はやはり昏いままだったが、先ほどまでの冷たさは無く、まるで迷子の子供のように頼りなく彷徨う。


「落ち着いたらリビングに来なよ。温かい飲み物でも入れよう」

「……」


 その問いに理亜は答えなかった。

 後に落ちるのは暫しの沈黙。それを承諾だと勝手に判断した僕は黙ってリビングへと戻るのだった。




 理亜がリビングを訪れたのは僕が会話に誘ってから十分ほど後のことだった。


 半ば強引に誘ったところもあるので、てっきり断られたかと思っていたが、どうやら応じてくれる気にはなったらしい。


 キッチンで飲み物を作っていた僕は先にソファに座って待つよう理亜に指示し、その後二人分の飲み物を持って合流する。


「飲み物、ハーブティーで良かったか?」

「……」


 一応声はかけたが返答が無かったので、そのままソファ前のローテーブルにカップを置いて、彼女の隣に腰掛ける。

 まだ湯気の立つカップを一つ手に取って傾ければ、柑橘系の微かに甘い香りが鼻を抜けた。


 普段はハーブティーなんて洒落たものは飲まないが、今日のように夜飲む時には丁度良い。

 たまたま父親がどこかで買ってきた土産の残りがあって助かったと思った。


「懐かしいな、この感じ。理亜と初めて会った頃に戻ったみたいだ」


 思い出し笑いにも似た微笑みと共に、そんな独り言をこぼす。

 返答があるとは思っていなかった。それ故に独り言。何故口にしたのかと問われれば、気まぐれという他ないだろう。


 もしかすると会話に誘ったという事実がある手前、何か話さなければという意識があったのかもしれない。


「無理に理由わけを話せと、言うつもりは無いよ。誰にだって触れられたくないものくらいある。 ……けど、理亜が昔みたいに心を閉ざしてしまうのは、正直寂しいんだ」


 僕と理亜は所詮他人同士。

 勝手に彼女の内側に土足で踏み込んで、余計に状況を悪化させるのは避けたいし、無暗に干渉して理亜が更に傷つくのは本意ではない。


 こういう時、やはり“そっとしておく”というのが最も賢い選択なのだろう。

 ただそれでも、理亜が再び周りを拒絶するようになってしまったことを些か悲しく思っている自分がいて、だから頭では良くないと分かっていながらも干渉をしてしまった。


「何か辛いことがあったなら、愚痴くらい聞くが?」


 僅かに息を呑む気配。

 ちらりと濃紺の双眸がこちらを見据えて、けれどすぐに逸れる。

 それから理亜が話を切り出すまでには少しだけ時間を要した。


「……夢を、見たの。……とても、悲しい夢」


 暫しの沈黙が過ぎた後、理亜は躊躇いがちにそう口にした。

 時刻はとうに二時を過ぎ、はやり就寝すべきかと迷っていた僕は、突然鼓膜を揺らしたその言葉に思わず瞬きを返す。


「それでも、聞いてくれる……?」


 尋ねる声は小さく、そして震えていて、驚く程に弱々しい。

 このまま放っておいたら声とともに理亜の存在まで溶けて消えてしまいそうな、そんな気さえする。

 長い間内側で泣き続け、誰にも助けを求められなかった者の、恐れの混じった問いかけだった。


 もちろん僕にその問いを無下にする理由は無い。

 なにせ今回話をしようと誘ったのは他でもない僕の方なのだ。誘っておいて相手からの話は聞かないなどという馬鹿はいないだろう。そんなものは会話ではない。


 理亜が聞いて欲しいと望むなら僕はいつまでだって隣でそれをしてやる。最初からそのつもりだった。


 力強く頷いて見せれば、理亜の口から僅かに安堵の息のようなものがこぼれて、それからゆっくりとその夢について語り始めた。




【あとがきっぽい何か】

お読みいただきありがとうございます。

路惟が用意したクリスマスプレゼントは翌日に手渡しで届けられました。

一体何を渡したのでしょうね。


さて、路惟が用意したハーブティーはオレンジブロッサムを使用した物のようです。

普段はコーヒーばかり飲んでいる路惟ですが、今回は夜中に目が冴えてしまうのを気にしてハーブティーを選択したようですね。

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