第十四・五話 忍び寄る影
「ICカードにチャージをしてくる。理亜はここで待ってて」
水族館を出た後、帰路に着くべく最寄りの駅へと向かった私たちだったが、そんな路惟の言葉と共に一度別れることとなった。
一緒に行くべきだろうかとも思ったが、チャージ機とやらの前には私たちと同じく自宅に帰ろうとする人々が大勢並んでいて、どうやら路惟が私を気遣って待つように言ったのだということが見て取れる。
結局路惟の言いつけに従うことにした私は、人混みから距離を取るべく建物の壁際に移動し、改札に吸い込まれて行く人の群れをぼんやりと眺める。
(――楽しかった。君がいてくれたおかげだ。)
頭の中で無意識に反芻してしまうのは水族館での路惟の言葉。
先の台詞についてもそうだが、路惟という人が何を考えているのか未だに理解出来たことがない。
別に私が水族館で彼に何かしてあげたなどという事実は無いわけで、彼が何故そう口にしたのかは完全に謎だ。
それなのに、彼のその一言を確かに嬉しく思っている自分がいる。
その一言のおかげで今日路惟とここへ来て良かったと心の底から思えるのだ。
――また、私の心を掻き乱して……。
思わず出かかった不満に近いそれを飲み込んで、着込んだニットの胸元に手を当てる。
心臓の鼓動はやはりいつもより早くて、冬場だというのに何故だか酷く暑かった。
――こんなの、知らない。
これも飲み込む。いっそ吐き捨ててしまった方が楽だっただろうかとも思ったけれど、一度喉の奥に落ちてしまったそれはもう出てこない。
初めてあまりものを知らない自分に不満を抱いた。もし私が普通の家庭で、普通の女の子として教育を受けていたのなら、この気持ちも簡単に理解出来ていたのだろうか。
ふとそんなことを思って、けれどその思考はすぐに何者かの問いかけによって遮られた。
「こんにちは。君、一人?」
唐突に耳を突いたのはあまり高くは無い、けれど澄んだ声。若い男の声らしいが、路惟のものでは無い。
思わず声がした方に目線だけを向ければ、路惟よりも少し年上であろう男が確かにこちらを向いて立っているのが見える。
「ああ、ごめんね。驚かせちゃったかな。こんなところでずっといたら風邪ひいちゃうよ?」
「……」
「この近くにいいカフェあるんだ。良ければ一緒に暖かいものでもどうかな?」
「……え」
意図せず戸惑いの声が口から漏れる。
どうやら目の前の男は本当に私相手に話をしているらしい。
初めての経験に戸惑い、その男の正気を疑う。
今までは人気の多いところに出ても周りからは避けられるのが当たり前で、たとえそうされなかったとしても忌避の視線は常に向けられていた。
実際以前の私はそれほどまでにみすぼらしく、清潔感の欠片も無い存在だったということを考えれば当然の反応だと分かるのだが、まさか今になって急に会話を持ちかけられるなどとは思うまい。
だから当然、これが所謂”ナンパ”と言われる行為なのだということには気づきもしなかった。
「……別に、要らない」
そう口に出来たのはきっと偶然だろう。
ナンパとは気づかなかったものの、幼い頃からの警戒心の高さと、たまたま喉が渇いていなかったというのが味方して奇跡的に断ることが出来ただけ。
対応としては悪くなかったはずなのだけれど、拒絶の意を伝えても尚男は引き下がることをしなかった。
「まぁ、そう言わずにさ。ご馳走様するよ 」
「……ッ」
強引に腕を引かれる。思ったよりも力が強く、掴まれた手首部分が鈍い痛みを訴えてくる。
男が一歩を踏み出すのと私の身体が前に引かれるのがほぼ同時。
途端に恐怖を覚えるが、私の腕には上手く力が入らなくて、拘束を解くどころかほんの僅かな抵抗すらもできそうにない。
「やめて……」と咄嗟にそんな言葉が喉の奥からこぼれ出たような気がしたけれど、自分自身でも“気がした”くらいの認識の言葉が相手に届くはずもない。
されるがままに腕を引かれ、全てを諦めかけたその時。何者かが横から割り込んで、腕の拘束を解いて見せた。
「誰? お前……」
響いたのはよく知る彼の、落ち着いた声音。
けれど今回のそれはいつにも増して低く、強くて、他の一切の介入を許さない威圧感がある。
特に激昂している訳でもないのにはっきりと怒りを感じるのは、彼の眼のせいだろうか。
眇られた黒眼は驚く程に昏く、映したそれにはなんの期待も寄せていないと分かる。まさに人を突き放すような瞳。
あまりにも普段と違う温度差に周囲の空気が凍てつくのを感じ、私は思わず身を縮こまらせてしまった。
「連れに、何の用?」
「いえ……。すんませんした」
連れが居るとは知らなかったのか、それとも突き放すような声音に恐れを成したのか、男がすごすごと引き下がる。
去り際に舌打ちのようなものが聞こえたが、周りには先の会話を聞きつけたらしい野次馬も集まってきていたし、どの道男に勝ち目は無かっただろう。
「大丈夫?」
男の姿が完全に無くなったことを確認して、路惟がそんなことを言う。こちらを見つめるその瞳に、先程の昏さはもう無い。
特に難しいことを聞かれた訳でも無かったはずなのだけれど、身体が強ばっていたせいか小さな頷きを返すのが精一杯だった。
「遅くなってごめん。ああいうのは、相手にしない方がいい」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい。よく耐えたね。怖かっただろ?」
心の内を読んだかのような発言に、奥歯をぎゅっと噛み締める。
安堵の波に押し倒されそうになる身体を叱咤して、力が抜けるのを必死に堪えた。
ただ、先程の恐怖の残滓からなる全身の震えだけはどうしようも無くて、恐らくそれが路惟にも伝わってしまっていたのだろう。
一瞬困ったように目を泳がせた彼は、少しの沈黙の後に私の手を取って優しく握った。
「路惟……?」
「……嫌なら、振りほどいてくれて構わない」
どうやらまたしても気を遣わせてしまったらしい。
昔の私なら手を握るだけの行為に何の意味があるのかと、そう問わずにはいられなかったであろう場面のはずなのだけれど、この時ばかりは不思議とそういう気も起こらず、路惟の手を握り返してしまっていた。
私よりも一回り大きい手は男性特有のごつごつとした感じがあって、けれど暖かく、触れていると安心を感じる。
気づけば、全身の震えは消えていた。
「……ありがとう」
「なんてことはないさ」
わざとらしく肩を竦めて見せる路惟は柔和な表情で、先程男に向けていた冷徹さが嘘のようだ。
思えば彼が怒ったところを目にしたのは初めてだったかもしれない。
「路惟も、怒ったりするんだね」
「……ごめん。みっともない所を見せたな」
「ううん」
困ったように眉尻を下げる路惟に、首を左右に振って返す。
別に怒ったことを責め立てようとして尋ねた訳では無い。ただ初めて目にする彼の表情に驚いて、思わず口から問いがこぼれてしまった。それだけだ。
実際、私一人の力ではあの状況を変えることは出来なかっただろうし、むしろ駆けつけて助けてくれたことには感謝してもしきれない。
「来てくれて、嬉しかった」
何も返せない代わりという訳でもないけれど、素直な気持ちと精一杯の微笑みだけは返しておく。
ずっと笑うことをしてこなかったせいか、相変わらず上手く笑えているかは分からなくて、ただそんな不器用な微笑みでも路惟の表情を綻ばせることくらいは出来たようだった。
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