第十二話 たとえ失敗しても
秋も終盤に差し掛かったとある休日の午前中。
いつもよりゆっくりと起き出して支度を済ませた僕は、一週間の内二日しかない休日を満喫すべくリビングのソファに身を沈ませる。
休日に外へ出るのも好きだが、家の中でゆっくり過ごすのも悪くない。今日は外へ出る予定も無いし、落ち着く家の中で心ゆくまで羽を伸ばすのも良いだろう。
しばらくぼんやりと放心していた僕だったが、ふと貯め込んだ録画番組を消化することを思いつき、テレビの電源を入れる。
昼食時が近いこともあってか、最初にテレビが映し出したのは料理番組だった。
今回はお弁当特集らしく、卵一個でボリュームのある卵焼き作りと称して作り方のコツなどが紹介されている。
画面越しとはいえど、特徴的な四角いフライパンの上で湯気を立てているそれはとても美味しそうで、食欲をそそられた僕は自然とその番組に見入ってしまっていた。
「それ、好きなの……?」
唐突に鼓膜を揺らすのは、最近では聞き慣れた澄んだ声音。思わず我に返る。
声の主の方へと目を向ければ、たまたまリビングに下りてきたらしい理亜が不思議そうにこちらを見ていた。
「まぁ、そうだね。久々に食べたいとは思うよ」
「そう」
思えば卵焼きなんて久しく口にしていない。
母の得意料理だったとかで、昔はよく父がそれを真似て作ってくれていたことは覚えている。
幼い頃には好んで何度もリクエストしたものだが、父が単身赴任となってからはそれも無くなった。
味が恋しくなった今、久々に自分で作ってみるのも良いだろうか。
「これ、私にも作れる?」
「作りたいのかい?」
「……うん」
こくりと頷きを返してくる理亜に驚き、思わず硬直する。
別に卵焼きを作ること自体に問題はない。僕自身も自作しようかと考えていたところであったし、必要な材料もちゃんと揃ってはいる。
ただあまりにも予想外な展開に思考が追い付かなかったというべきか、まさか理亜がこれほど興味を示すとは思っても見なかったのである。
正直なところ料理初心者に卵焼きは些か難易度が高い気もするが、珍しく理亜が興味を示しているのだ。それを無下にはしたくない。
「作れるよ。理亜ならきっと」
ゆっくりと頷きながら、僕はそう告げる。
そうして急遽自宅で料理教室が開かれることになった。
卵焼きの作り方はシンプルだ。
数個の卵に調味料を加えて混ぜ合わせて卵液を作り、それを数回に分けて巻きながら焼くだけである。
材料は卵と調味料があれば良いし、必要な器具も少ない。
しかし、たかが卵焼きと侮るなかれ、焼き目のないものを作るには巻くタイミングが重要となるし、流し入れる卵液の量は最終的な形に大きく関わる。
美しいものを作るのはなかなかに難しい一品なのだ。
「まずはこうして卵をボウルに割り入れる」
十一時頃、昼食を作り出すには少し早い時間に僕はエプロンを身につけてキッチンに立つ。
いくら工程の少ない卵焼きと言えど理亜は初心者。一から教えるとなるとかなりの時間を要するのではという推測のもと、早めのスタートである。
早速卵一個をボウルに割り入れて見せれば、同じくエプロン姿の理亜は両の瞳を瞬いていた。
「……速いね」
「まぁ、慣れているからね。軽く打ち付けてから、割れ目に親指を入れて開くんだ」
僕とて伊達に二年近く一人暮らしをしている訳では無い。
家事全般ができなければ話にならないことくらい承知しているし、掃除、洗濯、自炊は一通りできるつもりだ。
料理の中でも卵はよく使うので、素早く割るくらいはお手の物である。
さすがに片手で割るとか、そういった格好のついたことまでは出来ないが……。
「残りのは理亜にお願いするよ。物は試し。とりあえずやってみるといい」
言って残りの卵を割ってみせるように促せば、理亜が卵の殻割りに初挑戦を始める。
慎重な面持ちでキッチンの天板に卵を打ち付ける理亜。
初めてということで緊張しているのか、怯えた小動物みたいにぷるぷると震えながら必死に殻を開こうとしているのがなんとも可愛らしくて、思わず笑ってしまった。
「なに……?」
「いや、続けてくれ」
「……。あ……」
理亜の口から小さな声が漏れたのも束の間、次の瞬間には卵がぱきりと音を立てて崩れる。
音から何となく察せられたが、ボウルの中に落ちているのは卵黄の割れた卵と若干の殻の破片。
「……おしまい」
「待ちなよ。殻は取り除けば大丈夫だし、どの道黄身は後で潰すんだ。まだ終わってなんかいないさ」
絶望すら窺わせる冷めた顔色で肩を落とす理亜に慌てて声を掛ける。
せっかく理亜が興味のあることに挑戦しているのだ。こんなところで諦められては敵わない。
誰だって失敗くらいするし、慣れている人でも卵黄を割ることくらいある。
幸い今回は後ほど溶き卵にしてしまうことだし、むしろ殻が粉々になって卵液と混じらなかったのを喜ぶべきだろう。
「慣れだよ、こういうのは。何度も失敗して、そうやって上手くなっていくものさ。今日はあと一個使うし、最後のも理亜に割ってもらおうかな」
「うん……」
理亜は一度頷いてから再度卵を手に取る。
再びボウルに落とされた卵は綺麗な形を保っていた。
溶いた卵に調味料を加えて卵液を作り終えた後、僕達は火を通す工程に取り掛かる。
卵焼きは知っての通り、卵液を数回に分けてフライパンに流し込み焼き上げるが、初手から理亜にやらせるのは気が引けたので一巡目は僕が手本として見せ、それから理亜にフライパンを明け渡すことにした。
僕自身、卵焼きを焼くのは久々ということもあり緊張したが、とりあえず形にはなったのでそっと胸を撫で下ろしつつ、理亜にフライパンの柄を握らせる。
緊張した面持ちで卵焼き専用の四角いフライパンを見つめた理亜は、ボウルに入った卵液を少量流し入れ、それが完全に焼きあがる前に巻き上げていく。
才能とも言うのだろうか。初めてにも関わらず、焦げ目のない鮮やかな焼き色で仕上げてくるので思わず関心してしまった。
僕が初めて卵焼きを作った時はそれはもう酷い有様だったので、初めてでここまでできる理亜には素直に脱帽である。
もしかするとそのせいで気が抜けて、目を離してしまったのかもしれないが……。
「あつッ……!」
調理の方は理亜に任せて洗い物でもしようかとシンクに目を向けていた僕の鼓膜を尖った声音が突く。
慌てて視線を戻せばフライパンの熱を持つ部分に触れてしまったらしい理亜が丁度身体の反射反応で手を引っ込めているところだった。
「こっちだ……!」
言うよりも早く身体が動いていた。
素早くコンロの火を止め、理亜の手を引いてシンクの前まで連れていくまではほんの数秒。すぐに蛇口から水を出し、流水で患部を冷やしにかかる。
「しばらく水で冷やしておくんだ。勝手に止めるなよ」
「……ごめんなさい」
「理亜が謝ることじゃない。僕の監督不足だ」
患部の様子を視察すると左手の人差し指が若干充血しているのが分かる。恐らく加熱部分と接触したのはこの指だろう。
今のところは酷く腫れている様子もないし、水脹れ等もないので症状としては軽度だろうが、今後症状が悪化する可能性もあるので油断はできない。
「大丈夫。今の所そんなに酷くない。よく冷やしてから処置しよう」
「……大袈裟だよ」
「そんなことない……!」
つい、少し声量を上げてしまった。
別段驚かせるつもりは無かったのだが、理亜がびくりと両肩を跳ね上げてからこちらを見てきたので「ごめん」と謝っておく。
「……どんなに小さくても傷は傷。処置を怠って万が一痕が残ったりでもしたら大事だろ? 頼むから、もっと自分を大事にしてくれ」
ため息混じりにそう言えば、理亜が一度瞬いた瞳を丸くしてこちらを見る。
何か思うところがあったのか、しばらくそのまま硬直していた彼女は、やがてくしゃりと目を細めて悪戯っぽく微笑んだ。
それは今までに見た事の無い、子供のようなあどけなさを孕んだ笑みだった。
「ふふっ」
「……なんだよ」
「路惟が慌ててる……。変なの」
誕生日に贈り物をした際に見せた微笑みとはまた別系統の笑みに目を奪われる。
やはりというか、普段は声に出して笑うことなど滅多にしない分、唐突に情が表に出るととても目を惹く。
普段の無表情とはかけ離れた理亜の無垢な笑顔は、いかにも年相応少女らしく、可愛らしい。
もっとずっと笑っていればいいのにと、思わずそんなことを考えてしまったほどだ。
「……僕は理亜が思ってるほど冷静じゃない。近くに居る人が怪我したと知れば、慌てもするさ」
「……路惟は近くにいる人が怪我すると、嫌?」
「嫌に決まってる。そうじゃない奴なんているのか」
「……そう」
理亜がややトーンの下がった声でそう告げて瞳を伏せる。やや重たい空気と共に沈黙が落ちた。
何か気に障ることを言ってしまったかと不安に駆られるが、それを察してか、次に口を開いたのは理亜の方で、僕はすぐにその心配が杞憂だったことを知る。
「なら私、路惟の言うとおりにする。自分を、大事にする」
「……それは、嬉しい限りだな」
微笑みを浮かべたままそんなことを言う理亜が何故だか直視しにくくて、僕は何となく目を逸らした。
それから理亜の火傷の手当をし、昼食を作り追える頃には時刻は十三時近くになっていた。
流石に卵焼きだけでは空腹は満たせないので白米や味噌汁なんかも追加して食卓に並べれば、和の雰囲気を感じさせる朝食の完成だ。
どれも簡単に作れるものばかりだが、理亜に卵焼きの作り方を教えるという目的は達せられたし、品数も増やせたので個人的には満足である。
ただ一方で理亜の方はそうでも無い様で、食卓についた後も料理に手をつけることは無く、じっとそれらを見つめている。
「食べないのかい?」
気になって尋ねれば「別に……」と小さな返答が返ってくる。
言いながら目を眇めている様子を見る限り、確実に良くはない。
「傷が痛む?」
もう少し患部を冷やしておこうかと提案をしようとするが、その前に理亜が首を左右に振ってそれを否定してくる。
傷も原因では無いというのなら、一体何が理亜をそうさせているというのだろう。
「何か不満があるなら、言ってくれた方が助かるけど?」
「……これ」
ぽつりと呟くように言った理亜が指で指す先は彼女が自分自身で作った卵焼き。
内側は上手に巻けているが、途中で火を止めてしまったせいか外側の方は形が歪であったり、隙間が空いたりしている。
「なんだか変……」
「ああ……」
そういうことか、と思わず吐息を漏らす。
悔しさとでも言うのだろうか、どうやら上手に作れなかった事を気に病んでいるらしい。
正直なところ、途中で火と手を止めてしまった時点で上手に作ることは難しかった。
手を止めたのは丁度卵を巻いている最中のことで、火傷の処置をしている間にフライパンの余熱で巻く前の卵液に火が入ってしまったのだ。
「形になってる分、むしろ上出来だろ。それに火を止めたのは僕だ。理亜のせいじゃない」
「違うよ……」
「違う?」
「私が熱いところを触ってなければ路惟は火を止めなくてよかった。それに手当だって……。全部、私のせいだよ……」
そう言って俯く理亜に一体どんな言葉をかけてやるべきか、迷う。
実際、僕自身は今回料理が上手くいかなかったのは理亜のせいではないと思っているのだが、果たしてそれを素直に伝えて良いものだろうか。
“君のせいじゃない”と念を押して僕の考えを押し付けるのは簡単だ。けれど、理亜の考えを真っ向から否定するそのやり方では彼女はきっと納得なんてしきれないだろう。
今の理亜にかけてやるべき言葉は多分、彼女の考えの否定などではないはずなのだ。
「僕は見てくれがいいものより、君が一生懸命作ったものの方が食べたいけどな」
やがて辿り着いた答えをゆっくりと言葉にする。
少しばかり首を傾げた理亜が不思議そうにこちらを見るが、構わずに少々不格好な卵焼きを口に放り込むんだ。
味付けの時は隣で見ていたし、調味料の量はいつもと変わらないのは間違いない。
それなのに何故か普段より美味しく感じるのは、やはり理亜が頑張って作っていたという事実が僕の中にあることで、その味をより引き立てているからだろう。
「美味しいな」
「……」
「まぁ、そんなに気を落とすことはないよ。今回理亜が自分のミスで失敗したと思うのなら次はそうならないようすればいい。理亜が料理への興味を失わない限り、いくらでも成長の余地はあるんだ。何度でも挑戦すればいいさ」
「でも、また失敗したら……」
「構わない。それも全部僕が食べるよ」
折角理亜が示した興味を消させないという覚悟の元、言葉を紡ぐ。
“好きこそ物の上手なれ”とも言うように、何かに取り組む上で物事に対する興味というのはやはり重要だ。
興味があれば、好きであれば、苦のない努力ができる。それはつまり無限に成長し続けられることに他ならない。
彼女が料理をしたいと望むなら、僕は喜んでそのサポートをするだろう。
理亜はと言うと澄んだ濃紺の瞳を少しばかり見開いたまま硬直しているようだった。
浮かんでいるのは驚いたというよりはどこか惚けたような、一言で表すのであれば“照れ”という表現が最も近いような表情。
心なしか頬もほんのり赤く色づいているようにも見えるのだが、果たして今の会話に照れる要素などあっただろうか。
訝る様に眉を寄せれば、それに気づいたらしい理亜が逃げるように目を逸らす。
ぽつりと彼女が何やら呟いた気がしたが、それはあまりに小さく僕の耳には届かなかった。
「どうかした?」
「な、何でもない……」
言って、慌てたように箸を持つ理亜。
らしくもなく奇妙な反応を見せた彼女に僕はただ首を傾げるしかなかった。
【~
「構わない。それも全部僕が食べるよ」
その言葉が私の耳に届くと同時に、どきりと心臓が跳ねる気配を感じた。
途端に襲い来る胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に戸惑い、思わず固まる。
――食べて、くれる……?
そんな馬鹿げた行為にいったい何の意味があるというのだろう。
誰だって見た目も味も良くない料理なんか食べたくないに決まっている。失敗したものをわざわざ食べようとするなんて暴挙としか思えない。
そのはずなのに何故だか不思議と悪い気はしなくて、むしろ温かく、安心にも似た何かを感じる。
――変な感じ……。
いつもより早く脈打つ鼓動を隠すように胸元に手を添える。
もう秋も終わろうとしている頃だというのに酷く暑くて、まるで夏に戻ったような気分だった。
はたしてこの感情は喜びなのだろうか。ふとそんなことを考えて、けれど答えを出せずに目を伏せる。
路惟が作ったものを食べてくれるのは確かに嬉しい。
私が知る限り彼が二言を言ったことは一度もないし、そう言ったからにはきっと、私がどんな失敗作を出したとしても必ず食べてくれるのだろう。
けれど――。
「路惟には、上手に出来たのを食べてほしいのに……」
ほんの一瞬、小さな呟きとしてこぼれた本音。
我儘だということは重々承知しているが、やはりそう思わずにはいられない。
もともと料理に興味を持ったのは路惟ばかりに食事の用意をさせるのが申し訳ないと思ったからで、自分も彼のように料理を作れたらと思ったからだ。
やるからには彼の好きなものを作りたいと思うし、見た目が美しいものを提供したいと思うのは当然だろう。
我ながら浮かれているなと思う。
私に何かを望む権利などありはしない。先の言葉を今まで私を預かってくれていた人たちが聞けば、叱責と共に頬を打つことだろう。
「どうかした?」
不意を突くように言われて、一度瞬きをする。
どうやら先ほどの呟きは彼の耳には届かなかったらしい。
私の望みなど聞くに堪えないということは分かりきっているので届いていなくてよかったと思う反面、ほんの少しだけそれを寂しく思っている自分もいて、そんな自分にまたしても困惑した。
もしかすると、路惟ならば少しくらいは私の望みにも少しは耳を傾けてくれたかもしれないなと、そんな淡い期待が脳裏を掠めるが、流石に二度も同じ呟きを口にする勇気はない。
つい本音を隠すかのように「何でもない」なんて言ってしまっったが、私はそれを少しだけ後悔した。
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