第八話 ヒーローではないけれど
『来週の土日に一度そっちに帰ろうと思う』
父――和弘に通話でそんなことを言われたのは九月も終わりに差し掛かったある日の夜のことだった。
ゴールデンウィークやお盆、年末年始といった日本の長期休暇に合わせてしか普段は帰ってこない和弘が、特に連休でもない週末に帰ってくるのは珍しい。
今年だと理亜を引き取る話をするために急に帰ってきた時以来だろうか。
「珍しいね。普通の土日に帰って来るなんて、どうかした?」
『……いや、夏は仕事の関係だったとはいえ夏は理亜が家に来る前に家を出てしまっただろう? 引き取る前に一度顔を合わせてるが、忘れられてはかなわないからな』
「ああ、そういう」
納得して頷く。
確かに和弘は理亜が家に来る前に赴任先に戻ったため、彼女が家に来てからは一度も会えていない。
要するに様子を見に来たいのだろう。
三年前、僕を一人家に残して赴任先へ赴いた時とは違い随分気にかけているなと心の中で思うものの、追加で一人の子供の命を預かるという手前、父も責任を感じているのかもしれない。
『路惟に予定があると言うなら、理亜に家にいるよう伝えてくれればそれでいい』
「いや、特に予定はないから空けておくよ」
『そうか、助かるよ。では来週。昼過ぎにはそっちに着けると思う』
「わかった」
『じゃあな、路惟』と和弘が言い、一拍置いてから通話が切れる。
来週末は特に予定もなかったし、珍しく父が帰ってくると言うなら家にいるのもいいだろう。
こうして父と理亜が顔を合わせることが決まったのだった。
そして来たる週末、和弘は当初の発言通り土曜日の昼過ぎに家に帰ってきた。
「おかえり、父さん」
「ただいま、路惟」
落ち着きのある声で返した和弘は玄関で脱いだ革靴を丁寧に揃えてから家に上がる。
僕と同じ黒髪を額が見えるようにセットし、きっちりと濃紺のスーツ身に纏った姿はいかにもビジネスマンといった感じである。
帰省の時くらいは私服でも良さそうなものだが、父はあまり私服を着る人ではないし、着たとしてもビジネスカジュアルを意識した装いがほとんどなのでスーツと大差はなかったかもしれない。
「理亜は?」
「自分の部屋にいるよ」
「そうか。出迎えを期待していたんだがな」
「一度しか会ってないんだろ? ほぼ知らない人を出迎えろと言われるほうが無理と思うけど?」
「それもそうか」と薄く笑って見せた和弘。
父もあまり表情の豊かな人ではないが、理亜の無表情を目にしてからだとその差は歴然である。
一瞬、父はこんなにも笑う人だったのかと錯覚した僕だったが、直後に外国の土産屋の袋を渡されて、そちらに意識を向けることとなった。
「これは?」
「コーヒー。好きだろ?」
「買ってきてくれたんだ。ありがとう」
「買って渡せば淹れて貰えるからな」
「……目的はそっちか」
思わず苦笑いを浮かべる。
どうやら土産でコーヒーを持ってきたのはこのためらしい。
僕は趣味でよく豆を挽いてコーヒーを淹れるが、和弘はそういうことはあまりしない。
どちらかと言うと淹れるのを面倒に思ってしまう人なので、家に帰ってきた時にはこうしてコーヒーを淹れるよう頼まれることも結構あるのだ。
「頼むよ」
「仕方がないな」
土産を受け取りつつ、僕は軽く肩を竦めるのだった。
「おや……」
リビングでくつろいでいた和弘が唐突にそう呟いたのは、僕がキッチンで土産に貰ったコーヒーを淹れている時だった。
ドリッパーから滴るコーヒーを横目に父の視線の先へと目を向ければ、リビングの入口の扉が半開きになっていて、隙間から見慣れた濃紺の髪が覗いている。
どうやら父の帰省の目的とも言える人物の登場らしい。
「……あ」
彼女がそう小さくこぼしたのは一度会っているという父のことを思い出したからか、それとも知らない人間が家にいるという違和感からか。
躊躇いながらも入室してきた所を見ると後者ではなさそうだ。
「久しぶりだね。理亜」
「…………」
「路惟の父の和弘だ。夏前に一度会ってはいるんだが、覚えているかな?」
「……はい」
「そうか、それは良かった。今少し私に時間をくれないか? 君と話がしたい」
理亜は何も答えることはしなかったが、その代わりに小さく頷く。それを見届けた和弘は今度はこちらに目を向けてきた。
その眼差しが意図していることはだいたい分かる。
理亜にも飲み物を用意して上げてくれということなのだろう。
座ってないで自分で用意してあげたらいいじゃないかと思ったが、和弘も長旅で疲れているだろうし、促されずとも理亜の飲み物は用意するつもりだったので今回は目を瞑って置くことにした。
「コーヒー入れてるけど君も何か飲む?」
「……うん」
「何がいい?」
「この前と、同じの。……でもいい?」
「もちろん」
頷きながら思わず薄く笑んでしまったのは、理亜が素直に自分の希望を言ってくれたからだだろう。
最近になって理亜は以前に比べれば口を聞いてくれるようになった。
以前の彼女であれば確実に無視していたであろう会話でも、最近では返事をくれることがある。
いったい何が彼女にそうさせているのかは分からないが、僕としても出会った当時の人形を相手にしているような会話は御免なので、この変化は純粋に嬉しい。
「今用意するから、少し待ってて」
理亜にそう伝えながら、僕は新しく入った注文の準備に取り掛かるのだった。
それからしばらくの間、僕は黙って和弘と理亜の会話を聞いていた。
どうやら和弘が理亜と話すために帰ってきたというのは事実なようで、二人はかなり長い時間話をしていたと思う。
会話の内容は最近の困り事、好きな物、学校に行きたいかなど様々で、正直あまりおしゃべりとは言えない父があそこまで積極的に話題を振るのは珍しい。
理亜の方はというと緊張のためか、あるいはその警戒心の高さ故か、いつにも増して発言が少なく、場に沈黙をもたらしていた。
もちろん和弘も僕もそれを責めるようなことはしないのだが、問に答えられずに謝罪だけを口にする姿は見ている側としては胸が痛むものだった。
「うまく話せていた気がしないな」
和弘と理亜の話が一段落し、若干疲れた様子の理亜が自室に戻った後、男二人だけになったリビングで和弘がそんなことを呟く。
ゆっくりと息を吐きながら正していた背をソファに預けたのは緊張が抜けたことによるものか、それとも会話の疲れからか。
キッチンで飲み終えたコーヒーのカップを洗っていた僕は、動かす手を止めることなく和弘の方を見る。
「そんなことはないと思うよ。僕が理亜と話す時だってあんな感じだ」
「なんというか、思春期の娘と会話を試みる不器用な父親みたいじゃなかったか?」
「それは確かに……」
「そうならないように気をつけようとは思っていたんだがな。結局なってしまったか」
ふ、と微かに笑いながら和弘は言う。気をつけようと思っていたとは言うが、何となくそうなることを最初から分かっていたような笑みだった。
何か言うべきかとも思ったが、悩んでいるうちにタイミングを逃し、そのままリビングに沈黙が落ちる。
僕も和弘も家族でいる時に永遠と談笑しているというタイプでは無い。
同じ空間にいても黙って別々のことをいているなんてことは多々あるし、彼も返答がなかったことを気にしているようではないのでこの会話はここまでにしておこう。
と、思っていたのだが……。
「なぁ、路惟」
ちょうど洗い物を全て片付けて水切りラックに並べているところに和弘から声が掛かり、僕は再びそちらに目線を向ける。
思わず手を止めてしまったのはこちらを見つめる父の表情がどこか思い詰めたようなものだったからだろう。
「理亜とは、楽しくやれているか?」
「なんだよ急に」
「いいから」
念を押されて少しばかり考える。
理亜がどう思っているかは知らないが、最近の僕と理亜との仲は少しずつ良くなってきているというのが、僕の感想である。
出会った当初はお互い意見がぶつかっていたし、口を聞かずに過ごしていたことだってある。その事実を考慮すれば目を見張る成長だ。
しかし、それを“楽しい”と表現するのは些か筋違いなような気もする。
「楽しく、か。それはどうかな。けど上手くはやれてると思うよ。最初に比べれば」
「最初は大変だったか?」
「まぁ、そうだね」
理亜が家に来て数日のことを思い出し、苦笑いと共に肩を竦めて見せれば、「そうか……」とやや低い返答がある。
僕よりも少し切れ長の瞳が若干眇られたような気がした。
「すまないな。路惟……」
「なぜ?」
「いや、無理を掛けさせていると思ってな」
少しだけ眉を寄せる。
無理を掛けさせているというだけで謝られるのは正直よく分からなかった。
確かに最初は大変だったが、それがどうしようもなく苦痛だったという訳では無い。
嫌なら最初から理亜を放ったらかしにして楽をすることだってできたし、それこそ和弘に責任を全て押し付けることだってできた。
僕が自分の意思でそうしなかったのだから和弘の謝罪は見当違いというものだ。
「本当はな。最初からあの子を引き取るべきでは無いと分かっていたんだ……」
続く沈黙を破って和弘が言葉を紡ぐ。
怒りでも、悲しみでもなく、自分自信に呆れを感じているような淡々とした口調。
「家は父子家庭で、私は仕事の関係であまり家へは戻れない。正直、路惟一人の面倒だって見きれてはいない。こんな状況でもう一人子供を育てようなんて、無茶な話だ」
「……」
「それに、世界には理亜と似たような境遇の子なんて山ほどいる。そんな中で彼女にだけ手を差し伸べるのは、ただの依怙贔屓にすぎないと分かっていたはずなんだ」
「じゃあなぜ、彼女を引き取ったのさ?」
自然と口を継いで出た問い。和弘は「そうだな……。何故だろうな」と呟き、居心地悪そうに目を伏せる。
「路惟は理亜がここへ来る前の話を聞いたか?」
「いいや。でも、何となく察しはついてる」
「そうか」
和弘の返答に僅かながらに眉を寄せる。
ここでそれを聞いてきたということは恐らく関係のある話なのだろう。
直接理亜の口から過去を聞いたことはないが、それでもおおよその察しはついている。
今までにも彼女の過去の断片らしき会話は何度かあったし、言動を見ていれば嫌でも普通の生活を送ってきていないことぐらいは気づくというものだ。
「理亜には親がいなくてな。あの子の身は親戚が預かるという話になっていたようなんだが……。どうやらどの家も引き取りたくはなかったらしいな。彼らは預かっていると銘打って、酷い扱いをしてはあの子をたらい回しにしていた」
一度言葉を区切った父。ほんの一瞬ため息のような吐息が漏れた。
「……見て、いられなかったんだ。子供が周りの大人からの圧力に押し潰されて、歪んでいく姿は……。だから、家の状況をよく考えもせず“家に来るか”なんて言ってしまった」
そう言って和弘は薄く嗤う。
何となくその笑いが自身への嘲笑のように聞こえたのは気の所為では無いだろう。
「なぁ、路惟。お前はどう思う? 理亜を引き取ったのは正しかったと思うか?」
そこでようやく僕は父が今回家に帰ってきた意味を何となく理解した。
和弘は理亜を引き取った自分の判断が本当に正しかったかどうか確かめたかったのだ。
恐らく“自分は間違ったことをしたのではないか”という疑問が和弘の中にはあって、それが不安として心の内に積み重なっていたのだろう。
理亜と話をしたのは彼女を気に掛けたからでもあるだろうが、それ以上に父は自分の疑問に答えを求めていたに違いない。
そして理亜と話をしてもなおその答えを見つけられず、今こうして僕に質問を投げている。
「父さんの判断が正しかったかどうかなんて、知らないな。それを決めるのは僕じゃない。父さんだ」
少し考えてから僕はゆっくりと言った。
ずっと視線を下に向けていた和弘がこちらを見て、その漆黒の瞳を一度瞬く。
「ただ、もし僕が父さんの立場だったならきっと同じことをしたと思う。だから、父さんの選択は決して間違ってはいなかったと、僕は思うよ」
「……」
「確かに、家のことを考えずに決断をしたのはいただけないし、世界には彼女と同じような境遇にいる子供も大勢いるだろうさ。けど、父さんも僕もヒーローじゃない。いつでも冷静に物事を考えられるわけじゃないし、依怙贔屓無しで子供全員を救うなんて無理に決まってる」
そう、父さんも僕もアニメや漫画で語られる正義のヒーローでもなければ、最強の主人公でもない。
いつでも冷静沈着でいられる訳ではないし、世界で苦しむ子供全てに理亜と同じ待遇をするのは不可能だ。
そんなことばかり考えて、余計な不安に駆られていてはそれこそ何も行動出来なくなってしまう。
「理亜を贔屓したと言うけど、彼女が依怙贔屓をしてもらえたのは、父さんと出会えたあの子の幸運だ」
「路惟……」
「それよりも、父さんはあの子に手を差し伸べたことに誇りを持つべきじゃないか?」
沈黙。
父はしばらくの間黙っていて、少し強く言いすぎただろうかと考えていたが、直ぐにそれは考えすぎだったと知る。
「はは、そうだな。その通りだ」
軽く笑って答えた和弘。
その表情は先程とは一転して、気楽なものだった。
【あとがきっぽい何か】
お読みいただきありがとうございます。
和弘がお土産に買ってきたコーヒーはフレーバーコーヒーという種類でバニラの香りがする特殊なものでした。
理亜の言っていた“この前と同じもの”とは路惟特性の甘さ控えめなカフェオレのことのようですね。
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