第五話 女の子の日
理亜が家に来てから一ヶ月……と言いたいところだが、実際は一週間。
その日、いつもより遅く起床してきた理亜はなんだか様子がおかしかった。
最近は朝の挨拶をしてくれるようになっていたのだが、その日はそれが無く、ただ頷きが返ってきただけ。
朝食も普段より食べる速度が遅く、食事を初めて一時間が経とうとしているにもかかわらず、皿の上の料理が無くなる気配はない。
食卓に取り残された皿を見る限り、特定の食材が残っているというわけでもないので、苦手なものがあるから食が進んでいないということではなさそうだ。
不意に嫌な予感が脳裏を掠め、微かに嘆息する。
好き嫌いでなく食が進まない理由となると、選択肢は限られてくるので自然と察しもつくというものだ。
「具合でも悪いのか?」
キッチンで洗い物を片付けながら、永遠と食卓に向かう理亜に問う。
驚いたらしい彼女が微かに両肩を震わせて、それから濃紺の双眸をこちらに向ける。相変わらずの無表情だった。
「……平気」
「別に無理して食べる必要はないが?」
「……大丈夫」
「そうかい」
沈黙が落ちる。
再び食卓へと視線を戻し、小さな口でハムとチーズのホットサンドを少しだけ齧る理亜。
どう見ても無理をしているようにしか見えないその姿に、思わず息を吐いてしまった。
別に体調が悪い中無理して完食しろと言うほど鬼ではないし、そうだというなら素直に口にして欲しいものだが、どうやらそれが出来るだけの信頼はされていないらしい。
あるいは彼女なりに心配を掛けまいと努力してくれた結果がこれだとでも言うのだろうか。
――見ていられないな。
半ば無意識に目を伏せたのも束の間、改めて彼女が朝食を終える気配が無いことを確認した僕は、無理矢理食卓から皿を回収した。
「……どうして?」
「無理してまで完食してほしいとは思わない。心配しなくても、朝食くらいまたいつでも作ってあげるよ」
食べかけの料理の乗ったままの平皿を片手で持ち上げ、空いている方の手の平を理亜の額へと重ねる。
てっきり熱でもあるのかと思ったが、反対に彼女の体温は僕と比べて若干低い。
まずは発熱でないことに安堵しつつ、理亜の体調不良の原因を探れば、とある一つの推測が頭に浮ぶ。
――女性的なものか?
単に体温が低いというだけでは決め手に欠けるが、生理中の女性の中には生理痛やホルモンバランスの乱れなどが原因で食欲不振になってしまう人もいるとかいないとか。
残念ながら僕は女性では無いので、親族から聞いた話や、保険の授業で習った知識をかき集めて推測するしかないのだが、ともかく理亜を休ませた方がいいのは間違いないだろう。
「体調が悪いなら。素直に言ってくれた方が助かるけど?」
「……平気。すぐ、治る」
「たとえそうだとしても、無理をしていい理由にはならないな。今の君はとても辛そうだ」
「……」
「先に部屋に戻って横になっているといい。とりあえず身体を温めておくんだ。後で役に立ちそうなものを探して持っていくよ」
言って、僕は回収した食器を流し台へと運ぶ。
目の前で朝食を没収されたせいか、理亜は少し困惑しているようにも見えたが、思ってたよりも素直に自室へと戻ってくれた。
シンクに溜まった洗い物を片付けた後で理亜の様子を見に部屋へと行ってみると、彼女は大人しく布団にくるまって横になっていた。
元々大人しい理亜だが、今日に限ってはぴくりとも動かないので余程体調が悪いらしい。
僕が部屋に入ると彼女は視線だけをこちらに向けてきて、そしてまたすぐに逸らす。
調子はどうか尋ねるべきか迷ったが、無理をして平然を装われても困るのであえて聞かず、理亜が横になっているベッドへと歩み寄った。
「待たせたね。家の中を少し探してみたけど、こんなものしかなかった。あと、生姜入りの紅茶を作ってきたから置いておく」
ベッドのすぐ脇に配置されたサイドテーブルに冬用備品の中から引っ張り出してきた貼るカイロと紅茶の入ったティーカップを置く。
本当は貼るカイロの他に父親がネット通販して送ってきた女性用のナプキンなんかもあったが、それらはあえて持ってくることはせず、トイレの分かりやすい場所に置いてきた。
「言っとくが無理して飲む必要はないよ。僕が勝手にやっていることだし、口を付けようが付けまいが君の自由だ」
「……」
「それじゃ、僕はリビングに居るから何かあったら呼んで。暑ければエアコンを自由に使っていいけど、身体を冷やし過ぎるなよ」
最後にエアコンのリモコンをサイドテーブルに置いて、踵を返す。
デリケートな内容の話にはできるだけ触れないようにしたつもりだが、それでも若干の気まずさというものはある。長居をしない方が、お互い精神的に落ち着くことが出来るだろう。
無言で部屋の出入り口へと向かい、そのままドアノブに手を掛ける。
理亜から声が掛かったのはその直後だった。
「……どうして、分かったの?」
「何が?」
「こういうの……。男の人には、分かるわけないのに……」
「……そうだね。確かに僕には、君が感じてる痛みも辛さも分かりはしないよ」
頭の中にあった理亜の体調不良の原因が女性的なものであるという推測を確信に変えつつ、僕は答える。
正直、彼女の方から声を掛けてくるとは思ってもみなかったので、どう答えるべきか一瞬迷ってしまった。
「分かったのは偶然さ。昔、母さんがそれに苦労していたと父さんから聞いたことがあってね。その時、聞かされた症状に少し似ていると思っただけなんだ」
「そう……」
振り返って理亜の方へ視線を向ければ、彼女はそれから逃れるように寝返りをうってこちらに背を向ける。
案の定、気まずい雰囲気が部屋中を包んで、そんな中再び言葉を繋いだのは理亜だった。
「貴方は……」
「ん?」
「貴方は、私を、抱かないの……?」
一瞬で場の空気が凍り付く。唐突過ぎる問い掛けに固まってしまったが、その意味はすぐに察しが付いた。
理亜の“抱く”というのは間違いなく性行為の方の意であろう。
「……何故、そんなことを聞くんだ?」
「別に……。前の家の人、今日みたいな日でもお構いなしだったのに、貴方はそうじゃないみたいだから……」
「信じられないな。辛い時、そういうことはしないものだろう」
「……私には、それは決められない。家に置いてもらう代わりに、私が差し出せるのは、それしかないもの」
それが当たり前だったとでも言うように平然と告げる理亜を見て、僕は思わず絶句する。
今まで事ある毎に対価を払おうとして来た彼女だが、その考え方が一体どこで身について、そして何を対価に生きてきたのか改めて理解できた気がした。
理亜はきっと生きていくための糧を得る手段として自分自身の身体を使っていたのだろう。
どんなに辛い時でも、養ってもらっている関係上、求められれば断れない。そうやって歪な価値観を作り込まれてしまった結果が今の理亜なのだ。
半ば無意識に奥歯を噛み締める。
僕は理亜の言う過去を実際に見てきたわけではないし、口出しをしたところで彼女の過去を変える事が出来ないのは承知しているが、何故だか無性に悔しかった。
「たとえ……」
どう話を切り出すか少しだけ迷って、それからゆっくりと口を開く。
「たとえそれが君にとって当たり前だったのだとしても、僕はそれを認めることはできないな」
「……」
「相手が辛そうにしていて、それに構わず抱くなんて、養ってもらっていることに対する対価以前にモラルの問題だろう。そんなの絶対に普通じゃない……」
体調不良の女性を平然と抱けるほど、落ちぶれていない。それに、僕はどうしようもなく臆病なので、きっと彼女が万全の状態だったとしても手を出すことは出来なかっただろう。
「分かっているさ。僕がこんなことを言ったって君を困らせるだけだって。ただ、それでも、僕は君の当たり前を肯定できない……。だから――」
一度息を整えてから、胸の内に芽生えた決意を口にする。
「僕は変えるよ。君の当たり前を――」
束の間の沈黙。横になったままの理亜が僅かに身をよじって、布団を被り直す。
こちらに背を向けているせいで表情までは見えないが、何となく困らせてしまったのだということは感じ取れた。
「…………おかしな人」
「君に正しい価値観を身に着けてもらえるなら、おかしな人にでもなるさ」
やはり理亜の価値観を真っ向から否定するような言い方はよくなかっただろうか、と思ったりするが、口にした言葉に嘘は無いし、僕なりにこのままではいけないのだと伝えたつもりだ。
「それじゃあ、僕はリビングに戻るよ。紅茶、冷めきっているだろ。新しいのを淹れるけど飲むか?」
「…………うん」
「わかった」
ベッドの横のサイドテーブルから紅茶の入ったカップを回収し、僕は席を立つ。
そのまま部屋を出ようとドアノブに手を掛けた僕だが、再度理亜から声を掛けられて足を止める。
「ねぇ……」
「うん?」
「……ありがとう」
唐突に鼓膜を震わせた感謝の言葉。
温かく、けれどほんの僅かに震えたその声音に、僕は口角を少しだけ上げた。
「これくらい、お易い御用さ」
【あとがきっぽい何か】
ご覧いただきありがとうございます。
コーヒーは豆から挽いて入れる路惟ですが、紅茶は市販のティーバックから抽出したもののようですね。
抽出した紅茶にはジンジャージャムを加えています。とても美味しいです。
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