第四・五話 文を音にかえて
理亜とショッピングモールへ行った日の夜。
風呂掃除や洗濯といった家事をあらかた終わらせた後、しっかり冷房を効かせたリビングで読書をしていると二階の自室から理亜が下りてきて顔を覗かせた。
半開きにした扉の隙間からリビングの様子を窺う彼女。手にしているのは昼間に購入した文庫本だ。
「どうかした?」
読みかけの本に栞を挟んで閉じてから理亜に問う。
普段から用のある時以外リビングには顔を出さない彼女だが、入浴後のこの時間帯に顔を覗かせるのはまた珍しい。
もちろんリビングを出入り禁止にしているつもりは無いので、自由に出入りしてくれて構わないのだが、普段と異なる事象が起こるとやはり気になってしまうのが人間の摂理というものだろう。
一方で問い掛けの返答に迷ったらしい彼女は一度部屋の隅へと視線を逸らして、それから手にしていた文庫本を差し出した。
「……返す」
「随分と早いな。もう読んだのかい?」
「それは……」
理亜が分かりやすく言い淀む。
どうやら読み終わったから返却するというわけではないらしい。
もともと僕が勝手に購入して勝手にあげた本なので、要らないと言われても仕方のないことではあるのだが、もし仮にそうだとしてもせめて理由くらいは聞かせて欲しいものである。
「別に責めたりはしないからさ。気に入らなかったのなら、素直にそう言ってくれていい」
「ちがうの。……その、分からない、字があって。私には、読めそうにないから――」
「だから、返す」と改めて本を差し出してくる理亜。
正直なところ、こんなにもまともな答えが返ってくるとは思ってもみなかったので、おかしくなって少し笑ってしまった。
「なるほど。読みたくないから返すってわけじゃないんだ?」
「……うん」
「なら、読むのを手伝うよ。いい話だから読んで欲しいし、分からない言葉があるせいで君の読みたいって気持ちが潰れてしまうのは悲しいからね」
「……でも」
「僕が勝手にやることだ。君が気に病む必要はない。とりあえず、ここ座って」
僕は自分が腰掛けていたソファの隣を軽く叩いて、理亜に座るよう促す。
彼女は少しだけ戸惑っているように見えたが、最後には覚悟を決めたようで、ゆっくりと隣に腰を下ろした。
「それじゃあ早速声に出して読んでもらおうか」
「……声?」
「そう。黙読もいいが音読じゃないと君がどの部分で詰まっているのか分からないだろう」
「でも、読めない字は……?」
「読み方は教える。言葉の意味が分からないならその都度聞いてくれていい。」
一度躊躇うように目を背けた理亜。けれど最後には納得してくれたのか、暫しの沈黙の後ゆっくりと本の表紙に指を掛ける。
本の題名と作者が書かれたページと目次を記したページを順番に捲れば、露わになるのは物語の序章を記したページだ。
懐かしいと思う。幼い頃には僕自身もこうして和弘と本を読んだものだ。
当時の僕は読めない字を教わる側で、父のいる前で声を出して文を読むのは少しばかり恥ずかしかった。今の理亜も当時の自分と同じ心境なのではないかと思うと、彼女の見せた躊躇いの意味が少しだけ分かる気もする。
「読んで、いい……?]
「もちろん」
一瞬不安に揺れた気がした濃紺の双眸に頷きを返す。
直後、彼女の澄んだ声音が文を音に変えて響き始めた。
そしてその日、理亜は小説の第一章までを読み終えた。
本人が言っていた通り彼女の読めない字は多くて、読み方と意味の解説は思っていたよりも時間がかかったが、それを苦に感じることはなかった。
恐らくこの小説を読み終えるまで、この奇妙な音読は続くだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます