第一話 始まりの日


「子供を、引き取ろうと思うんだ」


 父親である和弘かずひろから唐突にそんな話を持ち掛けられたのは、高校二年の夏休みも佳境に入ったとある蒸し暑い日の夕方だった。


 自宅のリビングのソファに腰掛けて本を読んでいた僕は、父のそんな言葉に思わず読んでいた文庫本から視線を上げる。


 同時に単身赴任中の父が珍しく自宅に帰ってきた理由はこれかと納得した。


「この家に住まわせたいんだが、構わないか?」


 ふ、と嗤いが口からこぼれる。何を言っているんだと思った。

 とても子供を引き取れるような家庭状況ではないだろうに、と。


 僕には物心ついた時から父親しかいなかった。

 母のことはよく知らないが、産後の精神的な病気が原因で家を出ていったのだと聞いている。


 その上父は三年前から単身赴任中で滅多に家には戻ってこないので普段は僕一人だけが自宅で生活しているという状況であり、とても子供を引き取って育てていけるような家庭ではない。


「よく、考えたの?」


 きちんと栞を挟んでから文庫本を閉じ、問いかける。

 少しだけ間が空いた。


「ああ」

「……ふーん」

「無茶な話だということは承知の上だ。路惟の手を借りることにもなるだろう。だが、金銭面で苦労は掛けないと約束する」


 こちらを真っ直ぐに見つめる黒眼と、落ち着いていながらどこか力の籠った声。


 珍しい、と思う。

 父がここまで真剣に話すのは母のことを僕に語った時以来だろうか。


 どうやら考えなしに無茶をやろうとしているわけではないらしいということを察して、僕は安息とも嘆息ともつかぬ息を吐く。


「この家は父さんのものだし、父さんがここに住まわせるって決めたんなら僕にはそれを止める権利は無いよ」

「すまないな。いつも迷惑を掛けて」

「いいって、そういうのはさ。何か考えがあってのことなんだろう?」

「……そうだな、ありがとう」


 微かに笑った父を横目に、僕は再び本を開く。


 正直、実感が湧かなかった。

 いきなり一緒に住めと言われてもどう接していいのか見当もつかないし、何より一人だけでの暮らしに慣れてしまったせいか家に自分以外の誰かがいる生活が想像出来ない。


――なんとかなるか。


 改めて読書に耽りながらそんなことを思う。

 それが大きな間違いだということは、この時の僕は知りもしなかった……。






 僕――黒戸部くろとべ 路惟ろいが彼女と初めて会ったのは父から説明を受けたその数日後のことである。


 生憎とその日は気分も沈む曇天で、外に出るのも億劫になった僕はただ自宅で暇を持て余していたのだが、世間で言うおやつの時間を過ぎたあたりでインターホンが来客を知らせてきた。


 耳を突く電子音に促されて自宅の玄関の扉を開けると、そこにはぽつんと佇む同じ歳くらいの少女が一人。


 既に赴任先へと戻った父親から彼女の来る日は聞いていたし、その事に驚くことはなかったが、付き添いの者が誰も居なかったのは少しだけ気になった。


「えっと、君が父さんの言ってた子?」

「……。」


 目の前の彼女は答えない。

 変わった子だと思った。小さく美形な顔と長い髪、そして体型からしても女の子であるということは分かるのだが、伸びきった濃紺の髪に艶は無く、乳白色の肌も傷だらけ、そしてなにより一目見て分かるほどに痩せている。


 加えて身に着けた衣類も相当古着しているようで傷みや汚れが酷く、正直みすぼらしいとしか言いようがなかった。


「初めまして、僕は黒戸部 路惟。よろしく」

「……。」

「よろしく」


 初めての会話は、とても会話とは言えない、僕の独り言となり果てて消えた。


 余りにも想定外な対応に、僕は思わず出てしまいそうになった嘆息を無理やり飲み込む。

 雨でも降り出しそうな曇天の下、吹き抜けた湿気を多く含んだ風が妙に不安感を煽った。


「……君、名前は?」

「……。」


 沈黙。

 もはや必然と言ってもよかった。きっとこの場で僕が何を言おうと、彼女が答えてくれることは無いのだろう。

 諦めかけたその時だった。


「……理亜」


 彼女の澄んだ声音が鼓膜を震わせる。思わず瞬きしてしまったのは言うまでもない。


「……そうか。暑い中よく来たね。父さんから話は聞いてる。何もない家だけど入って」


 素直な感想を言って名を褒めたりすべきだったんだろうか。


 そんなことを考えるが、生憎と僕はあまり口が上手な方ではなくて、だから取って付けたように言葉を並べて誤魔化すことしかできなかった。




 理亜と名乗った少女に招き入れた後のやり取りは自宅の案内という極めて単純なものだった。


 我が家は父親が家族のためにと建てた比較的新しい一軒家。

 モダンなシルエットの二階建ての家であり、広々としたリビングと家族全員分の個室がある。

 比較的都心とのアクセスが良いという立地からしてもかなり贅沢な住まいだとは思うのだが、今は住人が一人しかいないので、少々持て余していたりする。


「トイレは一階と二階にある。一階のはここね。お風呂はその隣で洗面所の奥がそう。入浴時間はあんま決まってないけど夜が基本」

「……」


 さて、こうしてわざわざ自分の家の案内をすることになったわけだが、普段自分が当たり前のように生活している場を紹介するのは何だか不思議な気分だ。


 おまけに理亜は無言で後ろをついてくるだけなので、自分の案内が伝わっているのかも分からない。

 時折僕自身の生活習慣に基づいた家のルールみたいなものを話に混ぜてみるものの、やはり彼女は頷き一つ返してはくれなかった。


――参ったな。


 喉元まで出かかったその言葉を無理矢理飲み込み、小さく息を吐く。

 本音を言えば今すぐにでも彼女を放り出して消えてしまいたかったが、こちらから案内を切り出した手前それもできない。


 結局、状況は変わらぬまま二階の一番奥の角部屋、これから理亜の部屋となる場所へと来てしまう。

 ここを紹介すれば案内もいよいよ終わり。この鉛のように重たい空気からも解放されることだろう。


 密かに安堵の息を吐きつつ部屋の扉を開ければ、広がるのはクローゼット付きの少し広い空間。

 僕の部屋の隣に位置するその部屋は使っておらず物置と化していた場所で、元々は新しく家族が出来た時用に用意されたものらしい。


 先日父親と二人で手入れをしたので今は必要最低限のものしか残っていないが、父は「あの子が好きなように変えていってくれたらいい」と語っていた。


「ここが君の部屋。なんもないけど、好きに使っていいって」

「私の、部屋……?」


 か細い声が耳に届く。正直、反応があったことに驚いた。


「そ、君の部屋。君は今日からここに住むんだから無いと困るだろ」

「…………そう」


 微かに頷いて彼女は長い前髪の奥の濃紺の瞳を瞬かせる。

 特異的な反応だったが、出会ってすぐの身には理亜が何を考えているかなど分かりもしなかった。




 理亜を部屋へと案内した後はそれほどゆっくりする時間も無くて、気づけばいつも夕食を取っている時間になっていた。


 我が家の少し広いキッチンに身を置いた僕は鍋の中で煮える野菜やら肉やらを見つめつつアク取りに勤しむ。

 今晩の献立は豚肉を使ったビーフシチューだ。

 何故ビーフシチューに豚肉を使うのかというと、カレールーを切らしていた上に自宅にある肉がそれだけだったからで、特に理由がある訳では無い。

 本当は理亜に好みを聞いて、もてなしの料理を作ろうかとも思ったが、料理があまり得意ではないということもあってやめた。


 もちろん長く一人で暮らしているから料理自体は出来る。けれど、僕の料理は父親から教わった所謂男の料理というやつで、具材の切り方とか、味付けの方法とか、色々なところで横着したり、雑であったりするものだから手の込んだものは作れないのだ。


 というわけで今日は無難に失敗しない料理をセレクトしたのだが、料理が出来上がってから少し安直過ぎたのではと思ったりもする。


 それでも作ってしまった以上は後には引けない。出来上がった料理の入った鍋に蓋をして、理亜を呼ぶべく部屋の前まで行って戸を叩く。

 やはりというか予想はしていたが、返事は無かった。


「開けるよ」


 言って、扉を開けてみれば理亜はくつろぐでもなく広めの部屋の隅で自身の両膝を抱えて座っていた。

 わざわざそんな隅に寄らなくても……とは思ったものの、理亜もこの家には来たばかりなので緊張しているのかもしれない。


「夕食できたから降りておいで、手洗いも忘れないように」

「……」


 相も変わらず返ってくるのは沈黙のみで、理亜は何を考えているのか分からない無表情のままこちらを見つめるだけ。

 これでは人が一人増えたというより、等身大の人形を使ってごっこ遊びをしているようだ。

 今日だけで何度目になるかという溜め息を堪え、僕は部屋を後にするのだった。




 リビングに戻ってから程なくして、理亜もまた二階の自室から降りてきた。

 意外と素直に来てくれたななどと思いつつ、完成したビーフシチューならぬポークシチューを器へよそう。


 一応理亜にどれぐらい食べるのか聞いてみたが返事が無かったので、とりあえず僕が食べる量の六割くらいを盛り付けておいた。


「君の席はそこ。料理が得意ってわけじゃないから味の保証はしかねる」


 器とカラトリーをダイニングのテーブルに並べた僕は、つっ立ったままの理亜に指示して自らも腰掛ける。


 ちなみに黒戸部家では食事の前には必ず挨拶をするのが僕の習慣だ。親の教育が癖になってしまったものだが、一人暮らしとなって随分経つ今でもそれが抜けずに続いている。

 この日もその習慣に従って手を合わせたのだが、肝心の言葉が出るその前にそれは遮られた。


「……なんの、つもり?」


 突然響いたそれは警戒を孕んだ、冷ややかな声音だった。

 まさか話しかけられるとは思っていなかった僕は驚いて硬直する。


「何のつもり、とは……?」

「私、何も持ってない。お金も、お金になるものも……」


 意図の見えない言葉に眉を寄せる。

 こちらが料理を振舞ったことに対する対価のことを言っているのだろうか。


「お金って、レストランじゃあるまいし。父さんからの仕送りで賄ってるからお金は必要ないよ」

「……仕送り?」

「父さんが僕らの代わりに生活費を出してくれてるってことさ」

「それは、貴方の話。私には関係のないことくらい分かってる……」


 言って理亜は目を眇める。もともと無表情で感情の全く分からない彼女だが、この時ばかりは酷く冷めた表情をしているように見えた。

 まるで何もかも諦めてしまっているかのような……。


「人は、自分が損をすることはしない。今までもずっとそうだった」

「だから、無償で与えられる物は信用できないと?」

「……」


 押し黙る理亜。肯定するのは躊躇われるけれど、否定もできないといったところだろう。

 これは本格的におかしな子が来てしまったなと思いつつ、どうすべきかと必死に思考を巡らせる。


 無理矢理食べさせるのは一つの手だが、それでは理亜を余計に追い詰めるだけだろうし、かといってこのまま料理を下げてしまうのも心苦しい。

 こんなことなら作った料理を不味いと言われて匙を投げられる方がまだマシだ。


「君さ。今はそれでいいかもしれないけど、一体いつまでそうしていられると思う? 食べ物が無ければ生きていけないことくらい分かってるだろ?」

「……別に、私はいつ死んでもいい。困る人なんていないから」


 今度は僕が押し黙る。何故か苛立ちを覚えている自分がいた。

 別に理亜が料理をいらないと言ったことに関してはそこまで気にしていないし、咎めるつもりもない。けれど、彼女の自分の命を軽んじているような発言は気に食わなかった。


「あ、そう」


 気づけば吐き捨てるように言っていた。


「君がこちらの施しを受けたくないというならそれでも構わない。ただその代わり僕にも考えがある。これからは互いに不干渉でいこうじゃないか。その方が気が楽だろ。僕も、君も……」

「……分かった」


 抑揚のない小さな声で言い残し、理亜は自室へと消える。

 初めて出会った始まりの日に、僕たちは決別した。





【あとがきっぽい何か】

 ご覧いただきありがとうございます。

 理亜のために用意していたポークシチューは次の日に路惟が食べました。

 不干渉を宣言した路惟ですが、実はその後も自分のご飯を作るついでに握り飯を作って理亜の部屋の前に置いてあげたりしていたようです。

 ちなみに理亜はそのご飯にも一度も手を付けませんでした。


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