第二話 当たり前のこと

 出会ったその日以降、僕たちはお互いに干渉せず、会話もなければ、視線を合わせることもない、まるで他人同士のように過ごした。


 当初の宣言通りと言えばそうなのだが、理亜は“不干渉”という単語を相当重く受け止めたようで、毎日早朝に家を出ては日が落ちるまで帰らない生活を送っている。

 彼女の行先がどこかは分からないけれど、何となくこちらに関わらないように気を遣ってのことなのだろうということは分かる。


 そしてその生活に終止符が打たれたのは理亜が家に来てから三日後のことだった。

 その日は所謂嵐というやつで、この夏一番とも言える勢力を有した台風が猛烈な雨と風をもたらしていた。

 暗雲の立ち込める空は暗く、昼時だというのに照明を付けねばならない程である。


 当然この天気では外出もできないので、僕は一人リビングのソファに腰掛けていたのだが、どうしてかいつものようにくつろぐことが出来ない。

 というのも雨風が強くなり始めてからずっと理亜のことが頭から離れてくれないのだ。


 今日も懲りずに早朝から家を出て行った彼女だが、天候が急激に悪化しているというのに帰宅する気配がない。

 まさかどこかで事故に巻き込まれているのではあるまいかと考えて、けれどすぐにそんなはずはないと首を左右に振る。

 どうにか思考を紛らわせようとテレビの電源を入れてみたが、台風の進路や出されている警報の情報が目に飛び込んできたのですぐに消した。


「どうしてこうなるんだ……」


 深い溜め息とともに吐き捨てた言葉。

 本当は、理亜のことが心配だ。探しに行きたい気持ちもある。

 けれど、互いに不干渉でなどと口にした手前、彼女とは少し関わりずらい。


「僕の、せいか……」


 一時の苛立ちで軽はずみな発言をしてしまったことを酷く後悔する。

 あの発言が無ければきっと、理亜もこんな嵐の中外出せずに済んだはずなのだ。

 はたして彼女を探しに行くべきか否か、決めかねて悶々としていれば、丁度ソファの前のローテーブルに置いたスマートフォンが通知を知らせてきた。


 確認してみるとどうやら特定のメッセージアプリにおいて父親からメッセージが来ているという通知のようだ。


『路惟、今回の台風はかなり強いみたいだから気をつけるんだぞ』


 送られて来ていたのはそんな言葉。

 当然そんなことは百も承知なわけで、適当にスタンプでも返そうかと思ったのだが、次に送られてきた言葉には絶句させられた。


『それと理亜にも家から出ないように言っておいてくれ』


 唐突に送られてきた爆弾メッセージに気安く『分かった』などとは返信できない。何せ理亜はもう出かけていて、父の忠告を伝えることすらできないのだから。

 既読無視のままメッセージアプリを閉じ、携帯をローテーブルに捨て置く。

 それから外へ出る支度を終えるまでにそう時間はかからなかった。




 家を出てから比較的短時間で理亜を見つけることができたのは本当に偶然だったと思う。


 案の定というべきか、外は酷い悪天候で、叩きつける雨で視界は悪く、絶え間なく吹き続ける風によってろくに前を見ることすらできない。

 その上僕は理亜の行先を知っているわけでもなければ、彼女の行きそうな場所に心当たりがあるわけでもなかったので、家を出たところで徒労に終わることは覚悟していた。


 それでも何もしないでいるよりは精神的に楽でいられる気がして、半ば自己満足で我武者羅に辺りを走り回っていたらたまたま近所の公園で理亜を見つけたのだ。

 雨の中公園のベンチに腰掛けて分厚い雲に覆われた空を眺めている彼女は相変わらずの無表情であったが、その横顔はどこか寂しそうに見えて、だから僕は声を掛けるときに躊躇うことはしなかった。


「こんなところで何をやってるんだ?」


 雨風に負けぬよう声を張る。こちらに気づいていなかったらしい理亜は一瞬の硬直の後にゆっくりと視線を向けて、けれどすぐに視線を下方に逸らす。

 無表情の中に見えた気がした寂寥はもう感じとれない。


「帰るよ」


 理亜の返事を待たずに言う。返事があろうがなかろうが、今はどうでもいい。どのみちこの天気ではゆっくり話もできまい。


 しかしながら、理亜は動く気配を見せない。

 父からの連絡に返信できずにいるということもあり、なるべく早く彼女を家まで連れて帰りたかったのだが、やはり事はそう思い通りには運んでくれないようだ。


「帰りたくないのか?」

「…………どこへ?」

「家に決まってるだろ。何を言ってるんだ、君は」


 どこへ。理解し難いその一言に思わず眉を寄せる。

 近くに親戚が住んでる訳でもないし、単身赴任中の父親の住まいは論外。僕たちが帰る家は一つしかないはずで、他に選択肢はない。


 きっと理亜なりに何か考えがあっての発言なのだろうが、それを察せられるほど僕は勘のいい方ではなかったし、彼女のことをよく知っているわけでもない。


――帰ったら一度ゆっくり話をする必要がありそうだな。


 そんなことを心に決めつつ、ゆっくりと立ち上がる。


「さぁ、帰るよ」


 もう一度、今度は強く言う。

 理亜はその後も少しの間無言でこちらを見つめていたが、どうやら理解はしてくれたらしく、最後にはこくりと小さく頷くのだった。





「カフェオレ、作ったから置いとく。飲めないというなら手を付けなくて構わない」


 そう言ってリビングのソファに腰掛けている理亜の目の前にマグカップを置いたのは帰宅してお互いに入浴を済ませた後のことだ。


 ずぶ濡れで帰宅した僕たちは、それをそのまま放っておくわけにもいかず、順番に入浴をすることにした。

 理亜は何かと理由をつけて渋っていたが、風邪を引かれても困るし、濡れたまま家の中を彷徨かれても逆に困るので無理矢理風呂場へと押し込み、今に至るというわけである。


 目の前のローテーブルに置かれたマグカップを、理亜はやはり手に取ろうとはしなかったが、それでもいい。

 もともと何か温かいものが飲みたいと思ったのは僕の方で、理亜の分は単なる自己満足というか、施し以下の“ついで”でしかないのだ。


 それにしても何故理亜は雨の中公園のベンチに座っていたのだろうか。

 用があったとは考えにくい。嵐の中、わざわざ外出するなど余程の急用であっても滅多にすることではあるまい。


――だとするとやはり……。


 やはり先日の会話に原因がある気がした。もしかすると僕が不干渉を提示したことを彼女が気に病んで、わざわざ関わらないようにしてくれていたのかもしれない。

 だとすれば、理亜を危険に晒したのは他でもない僕ということになる。


――最低だな、僕は。


 ちくり、と胸を刺すような痛みを感じて、溜め息にも似た息を吐く。

 初めて訪れた場所でいきなり住めと言われ、理亜も不安だっただろうし、緊張もしていたはずだ。

 そんな中唯一頼れる人かもしれなかった僕に拒絶された彼女は一体どんな気持ちだったのだろう。

 今更ながら彼女の気持ちを考えず、“不干渉”などと口にした自分が情けなくなった。


「あのさ、この前は、ごめん」


 長く続いた沈黙を破って僕は言う。

 恥ずかしさとは少し異なる気まずさを覚えるが、それよりも自身の気持ちが軽くなったことによる安堵の方が大きかった。


「……何の、こと?」

「互いに不干渉でいこうなんて言ったことさ。だから君は家を空けてたんだろう?」

「……」

「もちろん家から出ていろという意味で言ったわけじゃない。けど、僕のせいで君は――」

「貴方の、せいじゃない」


 理亜の落ち着いた声音が耳を突いて、僕は言いかけた言葉をそのままに口を噤む。

 抑揚のない彼女の声は、どこか突き放すようによく響いて、そしてそれは辺りを沈黙に包むには十分すぎた。


「寝るとき以外は外に居る。そういう決まり」

「……何故? そんな決まり作った覚えはないよ」

「知らない。私の面倒を見てくれてた人がそうするように、って」


 思わず眉を寄せる。時折、不思議なことを口にするとは思っていたが、その言葉は一番と言ってもいいくらいに引っかかった。


 もしかすると理亜という少女は普通の女の子として育ってはいない……のだろうか。

 ふとそんな疑問が脳裏を掠めて、僕はさらに目を眇める。


 思えば思い当たる節が無くもない。初めて出会った時、理亜は一人で付き添いの保護者に当たる人は見当たらなかったし、食事を振舞った時の言動もどこか他人を警戒しているようだった。


 それに先程の理亜の言葉。決して聞き間違いなどではない。彼女は確かにと言ったのだ。

 成人前の未成熟な子供なら必ず世話になるはずの親ではなく――。


 背景が見えない。理亜が今までの人生おいて、どのような環境でどのような人々に囲まれ、どのような教育を受けて育ってきたのか。そういう人と向き合った時に多少は透けて見えるはずの背景が彼女の場合はまるで想像つかなかった。


「……私は当たり前のことをしてただけ。だから、貴方が気にする必要なんて、ない」


 平然とそんなことを言ってのける理亜の姿を、どうしてか見ていられなくなって手元のマグカップに視線を落とす。

 考えなくても分かる。彼女の言う当たり前は、僕を含む多くの人の当たり前とは違う。寝るとき以外は外に居なければならない当たり前などあってたまるものか。


――間違ってる。


 喉元まで出かかったその言葉は口から出るその前に無理矢理飲み込んだ。

 きっと理亜は自分の生活が異常であるとは知りもしないし、思ってもいないだろう。

 そんな彼女に真っ向から否定する言葉を投げつけても困惑させるだけだ。


「外に出る用がないなら家に居たっていいさ」


 不自然に落ちた沈黙を埋めるように言葉を繋ぐ。正直、今の僕にはこれが精一杯だった。

 これまでに理亜がどんな生活をしてきたのかは分からない。

 ただそれでも、彼女の言うがこの家では当たり前出ないことくらいは伝わって欲しい。

 僕は静かにそんなことを思うのだった。




【あとがきっぽい何か】

 ご覧いただきありがとうございます。

 実は路惟君の趣味はコーヒーを淹れることだったりします。

 彼は専用のポットやコーヒーミル、ドリッパーを持っていて、いつも自宅でコーヒーを楽しんでいるようです。

 今回、路惟が理亜に振舞ったカフェオレも彼のお手製です。


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