真実はいつも一つ
翌日。放課後になると、僕は帰宅せずに大型ショッピングモールへと立ち寄った。昼休みのときに早見さんには急用ができたと伝えているので、いわゆる「ひとりジャスコ」である。
僕は三階のフードコート近くに設けてある木製の長椅子に座ると、隣の空いたスペースを見て少し悲しくなった。客の姿があまりなく、建物全体に活気というのがあまり感じられないのも、僕の感傷を刺激する要因の一つでもあった。こことは反対方向にあるゲームセンターのガヤガヤとした機械音が遠くから聞こえてくる。人の数が少ないとこんなに静かになるものなのか。
一つ息を吐く。背後に人の気配を感じた。
待ちかまえてはいたものの、音もなく後ろに立たれるとさすがに動揺してしまう。心を落ち着けるため、もう一度息を吐いた。
「溜息?」
その声は疑問系だったが答えを求めているのではないとわかっていたので、僕は顔だけで後ろを振り向くと平静を装う為に笑顔を作った。
「待ってましたよ。苺さん」
僕の反応が予想外だったのか彼女は眉をぴくっと上げる。
「待っていたって何? また私が会いに来るってわかっていたってこと?」
「はい。僕の考えが正しければ必ずあなたは再び姿を現すと思っていました。しかも早見さんがいないとき、にです」
「早見さん……って誰のこと言ってるのかわかんないんだけど」
「動物園で見たと思いますよ。ピクニックリュックを背負っていた方です」
「あー。あの黒髪の可愛らしい女の子のことね」
僕は思わず笑い声を漏らしてしまった。
「どうして黒髪の女性の方だとわかったんですか?」
「だってたった今、君が言ったじゃない。ピクニックリュックを背負っている方って」
「苺さんが見たときには早見さんはリュックを背負っていないんですよ。別の人が代わりに持っていたんです」
「いや、待って。ごめん。君に跳び蹴りしてきた子がリュックを背負ってなかったから、ついもう一人が持ってるものだって早とちりしちゃった」
「違いますよね。あなたはずっと見ていたんじゃないですか? 動物園で遊んでいる僕たちのことを」
苺さんは眉間に皺を寄せながら黙っている。僕は続けた。
「あなたは早見さんの父親なんじゃないですか?」
もし何も知らない第三者が近くで聞いていたら、誰しもが「んなアホなことあるか」とツッコミを入れたくなるだろう。あなたの頭は大丈夫ですか、ととびっきりのお医者さんを紹介されるかもしれない。それくらい現実味のない言葉だった。わかっている。わかっているのだ。その証拠に急速に頬が火照り動悸も激しくなっている。自信を持って断言するように言い放っているが、正直なところ苺さんは女性にしか見えなかった。それでも明言できたのは早見さんとライヒが「苺さんは男性」だと言ったからである。そして苺さんが男性であれば、色々と辻褄が合うのだ。
「今から君を試させてもらうよ」
彼女はそう言うと長椅子を回り込んで僕の隣に腰を降ろした。肩から斜めがけしていた水色のショルダーバックを長椅子の座面に置いて上部のファスナーを開くと、ポケットに手を入れてバックの中をまさぐり始める。
引き抜かれた手には一輪の花が握られていた。それを僕の目前にかざしてくる。その花は金色に輝いていていたが、花びらが上向きへと伸びており特徴的な形をしていたので、それが蓮の花を模した造花ということはすぐにわかった。僕はこれから何が起こるのか想像がつかなかったので、戸惑いつつも金色の蓮の花を注視する。
苺さんは何の躊躇もなく茎をくねっと折った。
唐突な出来事に戸惑いは増すばかりだったが何が試されているのかわからない今、顔に表してはいけないと思い、僕は必死になって堪える。
茎をひねってどうするつもりなのか。いや……待てよ。そもそもこの一連の動作には説明できる明確な理由があるだろうか。
否。
これはフェイク。茎を曲げた動作自体には意味はないはずだ。もしそうだとすると苺さんが観察しているのは……僕の反応。すると反応を見ている今、無表情はきっと間違いだ。「答えは沈黙」といった答えもあるにはあるだろうが、ここで沈黙が正しいとは思えない。考えろ。考えるんだ。どうしてこのタイミングで僕を試すことにしたんだ。僕が苺さんに「あなたは父親なのではないか」と訊いたすぐ後に。一見すると女性にしか見えない人を、僕は男性ではないかと疑っている。もしかして苺さんは僕がまだ半信半疑だと気づいているのかもしれない。そうか! かの……彼はこう言っているんだ。
突拍子もないことを人に問いかけるには自信を持ってそれなりの覚悟で挑め、と。目の前に見えるものが全てではない、と僕が受け入れて色眼鏡を外せるか試しているんだ。
苺さんが早見さんの父親だとすると、彼は早見さんのカボチャの暗示を是が非でも解きたいと思っている。早見さんは言うなれば「カボチャに見えてしまうメガネ」をかけている状態。そんな彼女を固定観念に縛られて色眼鏡をかけた人が救えるはずがない。彼女のパートナーは様々な視点で物事を俯瞰できる必要があるのだ。
僕が覚悟を示す方法は二つある。「言葉」か「表情」だが、言葉の選択肢には違和感がある。何故なら「茎を曲げる」という「動作」が問いなのに対して「言葉」は対極の位置にあるからだ。この問いに言葉は必要ない……いや、これは正しくない。この問いには言葉以上に伝えることが可能な伝達手段がある。言い換えれば「言葉では伝えられないことがある」だ。
言葉では伝えられないことこそ、本当に大切で尊いものだと彼は信じているんだ。
問いの答えが「表情」だとしたら、それは一つしかない。小さい頃、泣いている僕を慰めてくれたもの。「大丈夫だよ」の一言ではなくて、相手の表情にこそ僕は救われてきた。様々な表情で救われてきたが、それらに共通するのは相手の表情に滲んだ「想い」だ。ここで僕が選ぶ表情は、
早見さんへの想い。
僕は苺さんに向かって破顔微笑した。
苺さんは表情を崩さず、無言で僕を見つめている。心の奥を覗き込むようなその瞳に僕が映ってから、どれくらい経っただろう。数十秒、数分、時間の感覚が判然としなかった。だからいつ彼が表情を和らげたのかは、僕にはわからない。
いつの間にか苺さんも破顔微笑していた。
「正直言って驚いた。合格したのは君が初めてだよ」
ハスキーボイスであることに変わりはなかったが、その声に女性の色はなく、どこか老獪な男性を思わせる落ち着いた声音になっていた。
「初めまして、と言ってもいいのかもしれないね。でもどうして私があの子の父親だとわかったんだい?」
「苺さんにかん……」
ふと彼の名前が本名なのか疑問を感じてしまい、僕は口籠もってしまう。それに気づいたようで彼は、「ああ、そうだった」と言って本名を名のった。
「後藤ダイマル。大きい丸と書いて大丸って読むんだ」
苺さんが後藤大丸さんに変わった瞬間だった。苺さんの面影が完全に消えてしまったことに多少の悲しみを感じながら、僕もあらためて名前を名のった。
「後藤さんに関するお話は少しですが伺っています。あなたの早見さんへの愛情が……人一倍強いことも自然と伝わってきました。だからカボチャにしか見えなくなってしまったと知ったときのあなたの心境を想像すると、胸が痛くなります。でもここで家を出てしまったのは一過性のものだったんじゃないかと思ったんです」
早見さん、ではなく名前で言った方がいいのか一瞬迷ったが、後藤さんがきちんと理解しているように見えたので、そのまま名字で呼ぶことにした。
「娘のことを溺愛していたあなたが簡単に離れてしまうはずがない。しかし早見さんから聞いた話と彼女の現状から推測すると、あなたが早見さんと会っていないのは想像がつきます」
彼の名字が「後藤」であることから、当然離婚していることもわかる。
「どうしてなのかは私にはわかりません。ただこれだけは確信してたんです。早見さんのお父さんはどんなことがあっても娘のことを見守るだろうって。いつも傍で見守ることはないにしても、やはり何かと心配になるのが親というものなんじゃないかと、私みたいな単なる学生が言うのも変ですが思うんです」
後藤さんは口を挟むことなく静かに聞いている。
「話が若干変わってしまいますが早見さんはこう言っていました。『すぐにいなくなってしまうんですけどね』これは私が彼女と一緒に下校していたときに漏らした言葉です。過去に何度か下校を共にした男子たちが、決まって彼女から離れていってしまうことに疑問を感じていました。小学生ならともかく、中学生で一緒に下校したいなんて下心があって当たり前と、同じ男として僕は断言します。そんな男子学生が離れる原因とは何か。ここはもう個人的な感情になりますが、早見さんには原因がなく、男子学生に何か下校を止めてしまうファクターが生じたのではないかと推測しました。だって早見さんのどこに否があると言うんですか? 私には仮定でも原因が彼女にあるとは考えられなかった」
「それは同感だ。あの子は天使だからな」
「そこで先ほどの、あなたが早見さんのことを見守るだろうという話に戻ります。もしこの考えが正しければ、当然早見さんの下校をあなたが目にすることになる。そこで私が想像したのは、大事な我が子の身を案じる父親です。早見さんへの愛情が強いぶんだけ、不安も大きかったと思います。男子学生が離れた要因はあなたが接触したからではないか、僕はそこに行き着きました。当然、私にはそこで起こったやりとりを知るすべはありません。しかしあなたが関わっている可能性は大きかった。そうでなければこの現象を説明することができませんし。結果、下心を持った男子は早見さんの傍からいなくなってしまったんです。もしそれが今でも続いているとしたら、今度は私がターゲットになるはずです。そして不自然な出会いのあった苺さんあらため後藤さんの存在が浮上しました。早見さんのカボチャの視界について後藤さんがどれくらい把握しているかは存じませんが、早見さんは変装した相手でも男性か女性かを見分けることが可能なんです。動物園であなたのことをはっきりと『男性』だと言っていました。さすがに自分の父親だとは思っていないようでしたが」
ライヒの骨盤の件はなかったことにした。
「父親が早見さんのことを見守っているとしたら、女装した男性の正体が同一人物である可能性が高くなります。問題はどうして女装しているのかですが、それは先ほどの蓮の花のやりとりまで全くわかりませんでした」
未だに驚いているのは後藤さんが完璧な女装をしていたことだけど。早見さんの年齢からして彼の歳は四十前後かましてやそれ以上だろう。常識的に考えて彼の歳では女子大生の女装は不可能に近い。それを可能にする若々しい容姿。それが早見さんへと遺伝したということか。なんだそれ。
「さすがだな。君の思考の柔軟さには驚きだ。でも少し違うところは、私は別に下心を持った男子でも娘を想ってくれる人であれば許容するつもりだったんだ。人見知りが治らず友達がいないというのは見ていて辛いものがあったからね。カボチャの視界が原因の一つだとしたら尚更だ。でも表面的な形だけの友達なんてあの子の為にはならない。必要なのはカボチャの秘密を打ち明けても本気で心配して接してくれる人物だ。それを調べる為に下校する男子に接近したんだよ。女装して相手と少しでも打ち解けてきたら、正体を明かす。そして反応を観察して、男性という事実を受け入れているか判断する。顔がカボチャに見えるなんて突拍子もないことを信じられる人物であれば、正体を明かしてもしっかりと受け止められるはずだから」
後藤さんは小さく溜息を漏らす。
「意外にも男子みんな私に好意を抱くようだったので、告白した方が反応を調べる上で正確性が高かった。ちなみに私が父親ということは当然伏せた。相手の反応は、残念ながら全員愕然としていたよ。告白も二つ返事で全員承諾していたから、ショックも大きかったんだろう。思考の柔軟性がなくあるのは下心だけなんて、言語道断だ。相手には悪いがすぐに娘から身を引いてもらったよ。……なるべく穏便にね。
だから君と出会えて私は嬉しい。そちらはまだ詳しい調査はしていないが、同性の友達もできたようだからホッとしているよ。あの子と一緒に下校しようとするのは男子ばかりだった。どうしてだろうね」
後藤さんが僕の顔を伺うようにじっと視線を向けていたが、何も喋らずに彼の口が開くのをひたすら待った。
「もう一つ訊きたいことがあるのだがいいかな。君は私がここに来ることを予想していたようだが、それはどうしてだ?」
「動物園での会話が途中で打ち切られてしまったからです。あなたの告白は僕の早見さんへの想いを計る意味がありましたよね。想いを計った結果、あなたがどう行動するかはわかりませんが、告白することでこれまでの接触の中で一番大きく、しかも大胆に動いたことになります。こんなにも大胆な行動にでたということは、僕への接触が終わりに近いことを意味しています。それに行動を大きくしたぶんボロが出る可能性も高くなるため、僕とのやりとりは最小に、なおかつ短期間のうちに目的を完遂しなければ怪しまれてしまいますしね。たぶんですが、本来であればあなたは動物園の時点で目的を達成したかったんじゃないでしょうか? しかし不運なことに第三者の乱入によって妨害されてまったあなたは、すぐにでも僕と接触したかったはずです。だから僕はそんな機会をあえて作ることにしました」
「あえて作る?」
「そうです。時間的余裕のある放課後で、いつも一緒に下校している早見さんがいなかったとしたら、あなたは絶好のチャンスだと思って接触してくると踏んでいました」
だからゆうみには今日一日だけは早見さんと一緒に下校してもらうようにと頼んでいた。すでにチカ先輩対策は盤石である。きっと彼女たちは今頃古本屋あたりにいるのだろう。
「そしてあなたはここへやってきました」
僕はこれで説明は以上だという意味を込めて、口を引き結んで大丸さんを見つめた。
彼が口を開くのを待つつもりだった。
しかしどうしても、口元が歪んでしまう。ぶつけたい言葉が残っているのだと言うように、口元が強ばっている。
先ほどの大丸さんの和らいだ表情。一瞬だけど、早見さんの顔を重ねてしまった。二人は血のつながった親子なのだと実感してしまう。すると心の奥でくすぶっていた感情が首をもたげて、喉元から……。
「といった説明を後藤さんにするために、昨晩はずっと頭の中で内容を整理していました。暗記するくらい繰り返して、内容に齟齬が生じていないか、そのことだけを考えていました」
僕の表情がどんな風に見えているのかわからないが、彼は眉をひそめている。
「だけど実際に後藤さんとこうして会って、あなたの笑顔に早見さんと同じものを感じてしまうと、やっぱり今の説明では納得できないんです。……いえ、納得とか言う以前に憤りを感じてしまいます。愛情には様々な種類があって、あなたの早見さんへの行いもその一つだと思っていました。だけどそれは間違いでした。あなたは自分の考えに固執するあまり、彼女のことが見えなかったんですね。きっとあなたは殆ど毎日のように少し離れた場所から彼女を見てきたのでしょう。でも彼女の心に目を向けましたか? 先ほど『友達がいないのは見ていて辛い』と言ってましたが、一番辛いのは早見さんだとは考えなかったんですか? 人見知りでも、独りが怖いこともあるんですよ。『すぐにいなくなってしまう』って言っていました。わかりますか? いないんですよ。そんな言葉を使ってしまうんです、早見さんは。
どうして遠くから見守るばかりで、傍にいてやらなかったんですか? そもそも何で早見さんから逃げてしまったんですか? いなくならないでくださいよ」
僕はハッとする。もしかして……
すぐにいなくなった一番最初の人物は彼女の父親だったのではないだろうか。
わからない。
違うかもしれない。
でもなんだそれ。……なんだそれ。
「どうして会わないんですか?」
荒れた呼吸を整えながら僕は考える。会えない理由。すぐに思い浮かぶのは、離婚したことで親権を失った後藤さんは娘に会うことを禁じられたのではないか、ということ。しかし腑に落ちない。法律関係に詳しくないので憶測になるが、離婚して親権を失ったとしてもせめて面会日は設けられるのではないか。普通であれば絶対に面会する機会は望むはずである。こうして隠れて行動するくらいだ。後藤さんに面会、それどころか電話で話すことすらできないようにさせるほどの力が早見母にはあるのだろうか。
そもそも何故離婚したのだろう。早見さんのことを想えばそんなことできないはずである。娘がこんな症状になってしまったら、夫婦で協力し合いながら解決に努めるのが普通だと思ってしまう僕は世間知らずなのか。
いくら考えても真実が見えてこない。
「私が近くにいると気づいたら、あの子は嫌な顔をするよ。それでも傍にいたほうか良いと君は言うのか?」
後藤さんの言葉の意味がわからなかった。
「どういうことですか?」
「あの子は私のことが憎いんだよ」
早見さんが父親のことを憎んでいるだと? そんなはずはない、と口を開こうとして僕は言い淀む。彼女は父親の話を全くしない。小さい頃にいなくなったのだから父親との想い出が定かではないと言えばそうなのだが、あまりにも無関心過ぎるような気がしないではない。
「家族を置いて一週間、私はホテルに泊まって頭を冷やした。そして自分の愚かさに後悔した。きっと娘は寂しがっているだろう、と急に心配になって、いてもたってもいられなくなり私は会いに行ったんだ」
抑揚のない平坦な物言いだったが、大丸さんの面持ちは声とは裏腹に苦しそうだった。
「インターホンを鳴らすと、あの子が出てきたんだ。すると私の顔を見るなり怯えたように震えだし、挙げ句の果てには泣き出してしまった」
「それはいなくなっていた父親が帰ってきて嬉しかったからではないんですか?」
「あの子のことは四六時中見てきたんだ。感情を読み違えるなんて有り得ない。あれは確かに怯えていた」
「怯える……ですか。いくら小さい頃とはいえ急に人の顔がカボチャに見えるようになってしまったら、最初は怖がるのが普通では?」
「確かに怖がっていたようだ。それに妻から聞いている。私がいなくなってからしばらくは暗い顔しかしなくて、ずっと俯いていたと。小学校には休まず行っていたようだが。小学生といってもまだ一年生だったから、きっと不安で仕方がなかったことだろう。だから殊更にこんな視界にしてしまった私のことが憎いんだ」
「あの、後藤さんはそのときに自分のことを『父親』だと早見さんに言いましたか?」
「どういうことだい? ……確かすぐに泣き出したから言ってないと思うけど」
「早見さんが人を区別するときに特徴として捉えるのがカボチャの皺や艶や形、声だと思うんです。現在は慣れているとしても小学生に成り立てで、なおかつカボチャの視界になって間もないときに、急に現れた人を父親だと認識できるものでしょうか? いくら声が同じでもそう単純には断言できないはずです」
「あの子は泣きながら言っていたよ。『お父さん、お父さん』って。他にも何か言っていたようだったが、聞き取れなかった。だけど絶対にお父さんと言っていた」
「でもいくら父親だとわかっていても、やはりカボチャに見えてしまったら怯えると思いますよ。それを憎いからと一括りにまとめるのは無理があるのではないですか?」
ははは、大丸さんは小さく笑った。それは掠れていてすぐに消えてしまうほど弱々しく、まるで自嘲的な、笑いというよりも嘆いているように聞こえた。
「確かにそこでもっと問い質せば良かった。でも私はあの子の前で頭を下げて謝罪しただけで、また逃げてしまったんだよ。情けないとはわかっている。先ほど妻から聞いていると言ったが、何度か二人で会ったんだ。色々と話さなければならないことがあったからね。妻の顔は毎回同じ顔、呆れ顔だよ。でも私を見上げながら目に涙を浮かべるあの子の顔を思い出してしまうと、父親としての自信が揺らいでしまうんだ。そしてそんな考えを少しでも抱いてしまう自分に嫌悪感を抱いて、人として未熟だと気づいてしまった。でも言い訳になるが、今はこんな私でも逃げないであの子と向き合おうと頑張ったんだ。未熟だと知ったからにはそこから変わろうと前向きになったつもりだったんだが、すでに遅かった。妻からしたら、そんなことで悩んでいる時点で父親失格だったんだろう。『今後一切、あの子と会わないで。その方があなただって嬉しいでしょ』そう突きつけられたとき、結局私は何も言い返せなかった。否定したい気持ちでいっぱいのはずだったのに、心の片隅では安堵している自分もいたからだ。そいつが囁くんだよ。『良かったな。これで免罪符ができた』って。その通りだ。免罪符を手に入れた私は、何年も隠れながら未練がましく父親ぶって、くだらない自尊心を満たそうとしていたんだな。
君の言うとおりだよ。私はあの子のことを愛していないのかもしれないな。申し訳ない……今日でお終いにするよ」
僕は無言で大丸さんを見つめる。彼もこちらを向くと、じっと一点に視線を集中させた。
「君はいい目をしている。君から正体を暴かれて私はシラを切ったけれど、実は最初から打ち明けようと思って話しかけたんだ。公園での君のあの子への想いを聞いた時点で決めていたんだよ。この人だったら大丈夫って。私など近くにいなくても、きっとあの子を良い方向へ連れて行ってくれるだろうって確信したんだ」
彼は頭を下げた。
「どうかあの子の力になってください。お願いします」
「後藤さん。今どんな気持ちですか?」
頭を上げた彼の目は赤く滲んでいた。
「……気持ち?」
「はい。何か感じられるものがありませんか?」
「気持ち……か」
目を伏せて、口元を引き締め、彼は押し黙る。小さな唸り声を鼻腔から発しはするが、一向に口を開く様子はない。僕は自分の人差し指を立てて、目頭にそっと当てると口を開く。
「後藤さん。指で目の辺りを触ってみてください」
「え……」
彼は指先で目頭を擦ると、そこで初めて泣いていることに気づいたようで、濡れた手を訝しそうに見つめた。涙が溢れそうになったのか、勢いよく目を閉じると、黄色のハンカチを取り出し目を覆った。
何度か鼻を啜る音が続くと、彼はハンカチから顔を出した。外化粧は崩れていなかったが、握られたハンカチは年老いたように皺だらけになっていた。
大丸さんは辛そうに顔を歪めながらも口を開いた。
「謝りたい。でも今更遅いかもしれない。呆れられ、蔑まれるかもしれない。そんな気持ちになりながらも、あの子は気を遣って顔には出さないかもしれない。もしかしたら取り合ってさえくれないかもしれない。結局は悲しませるだけかもしれない」
「もし早見さんが悲しむことになったとしても友達がついています。だからそれについては安心してください」
大丸さんの行った数々の行動は正しいとは思えない。早見さんの傷を深くしてしまったことに憤りを感じてしまう。しかし彼は今、歩くのを止めようとしている。謝罪することは、早見さんにとって良い方向へ行くか悪い方へ行くか検討がつかないけれど、大丸さんにとって前へと進む糧になるに違いない。
僕も大丸さんも、とにかくひたすら歩くしかないのだと思う。辛くて叫びたくなるときも、切なさや虚しさに涙さえ出なくなってしまっても、結局は歩み続けなければ心の底から笑える自分にはたどり着けない。
そのぶん心から笑えたときは、きっと生きてきて良かったと思えるはずだ。僕は自分が感じた喜びを大丸さんにも知って欲しかった。
大丸さんは眉間に皺を寄せながら空いている方の手を広げると、目前に掲げて注視し、そっと指を内側に折って握り拳を作ると、意志を固めたように小さく頷いた。こちらを向くとスッと腕を差し出して、手の中に納めていた大切な宝物を見せるように、ゆっくりと固めていた指を解いた。
差し出された幼い手を、未熟な僕の手でしっかりと握る。彼は顔を綻ばせて、白い歯列を覗かせた。
そのとき、ズボンのポケットに入れていたスマホから着信音が聞こえた。それをポケットから引き抜いて画面を確認すると、送られてきた文章に目を見張った。
『ジャスコ到着。ねえ今どこ?』
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