邂逅

 何が起こったのか判然としなかった。画面を操作すると、たった今届いたメッセージの他に数分前にもいくつか連絡が来ていたことに気づいた。

『緊急事態。今から早見とジャスコ行くことになった』

『ごめん。やっぱり止められない。もう少しでバス停』

『あと五分くらいでつく』

 画面から目を離して大丸さんに向けると、彼は訝しげな面持ちで僕の顔を見つめていた。

「どうかしたのか?」

 ゆうみには僕がジャスコにいることを事前に伝えており、この建物周辺には近寄らないよう言い聞かせてあった。それなのにここへ来るということは、早見さんが無理強いしている可能性が高い。あの早見さんが制止を振り切ってまで来る姿は想像がつかないけど、よほど堅固な理由があるのだろう。それよりも今この場で大丸さんと再開するのはまずい。

 だっていくらカボチャに見えるからといって、父親が女装しているのだ。

 いや……待てよ。

 大丸さんの顔から足下まで僕は視線を滑らす。青と白のボーダー柄のシャツに青のジーンズ、靴は白のスニーカー。髪型と化粧は抜きにして服装だけだと男性でもそう違和感はない。髪型はすぐにでも何とかできるし、多少膨らんだ胸はパッドか何かを入れてそれらしく作り上げているだろうから、こっちも大丈夫だ。いくら性別に疎い早見さんだからといって、女装を隠すに越したことはない。

 だが他にも問題は残っている。

 大丸さんの心の準備だ。この場で僕が「実はジャスコに早見さんが来ているんですよ」と言ったら、彼は慌てふためくに違いない。それは早見さんも同様だ。二人の再会は慎重でなくてはならない。

 動物園で早見さんは大丸さんの顔を見てはいるが、父親だとは気づいていない。ゆうみの跳び蹴り事件でしっかりと顔を見ていない可能性もあるが、十年近く会っていないとなると、もしかしたら顔を忘れてしまっていることも考えられる。今、僕と二人でいるところを目撃したとしても、一緒の人が父親だとは気づかないかもしれない。

 いや、安易な可能性は避けるべきだ。僕は巡らせていた思考をまとめて、一つの結論を出す。

 大丸さんに早見さんがいることを伝えて、すぐに建物から脱出する。これが考え得る中での最善の選択だと、僕は確信を持つ。

「後藤さん、落ち着いて聞いてください」

 僕はゆっくりとした口調を心がけながら、早見さんがこの場所にいることを伝えた。

 どれくらい伝わったのか、正直わからない。大丸さんは口を半開きにしたまま呆然と固まっていた。その姿にどこか言い様のない恐れを感じてしまう。あからさまに戸惑ってくれた方が、まだ安心できた。呆けたように瞬き一つもなく微動だにしない彼を見て、僕は危惧してしまう。

 そしてその予感はすぐに的中してしまった。

「ここで逃げたら、きっと私は次もその次も逃げるだろう。私は弱い人間だ。いつ心変わりするかもわからない。ここにあの子が来たということは、伝えるべきは今なんだという天啓なのかもしれない」

「それは早計ですよ。後藤さんは興奮してるんです。ひとまず冷静になるためにここは少し時間をおくべきだ」

「少しとはいったいどれくらいだ? 私にとっての『少し』は、君が思っているよりずっと長い、長いんだ」

 僕が口を開く前に大丸さんはベンチから走り出していた。華奢な背中がどんどんと遠くなっていく。その先は一階へと続く階段で、僕は一足遅く彼の姿を追った。

 到着したばかりの二人が一階にいる可能性は高い。僕は息を切らせながら歯を食いしばる。

 大丸さんの足は前へと前へと繰り出されて、まるで距離が縮まらない。それなのに彼の足下がどこか覚束ないように見えてしまう。

 とても苦しそうだった。

 重い荷物を抱え込んでいるようだった。

 ハハッ。

 自分の荒れた呼吸に紛れて、大丸さんの笑い声が聞こえた気がした。

 ジャスコの店内は広いけど、迷路ではない。彼の足が止まるのは時間がかからなかった。



 二人は一階のコーヒーチェーン店にいた。店内は奥に長い造りで長方形型の薄暗い照明のため、一番端のテーブル席であれば外からは見えにくい。ここを選んだゆうみの判断は最良だったが一つの誤算があった。

 お洒落な店内に早見さんは恐縮してしまい、初めて体感するシステムに戸惑い注文に時間がかかってしまったのだ。彼女は天井近くに掲げてあるメニュー表を赤面しながら見上げていた。

 店舗入り口側はガラス張りになっていて店内の様子が見渡せる造りになっている。注文する際のレジカウンターは入り口のすぐ近くに設けられているため、外から丸見えだった。

 大丸さんはドアを勢いよく開けると、店員の挨拶よりも先に早見さんの名前を叫んだ。店内に飛び交う談笑を裂くほどの、咆哮に似た言葉に客はみんな黙り、全ての視線が入り口に向けられた。

 僕は大丸さんの少し後ろで立ち止まり、店舗の外から中の様子を窺った。ゆうみが僕の方に気づき、泣きそうな顔を俯ける。垂らした黒髪で彼女の表情が隠れてしまう。

 早見さんの名前がもう一度呼ばれた。今度は少し低い声だったが、力強い響きは変わらなかった。彼女は口を引き結んだまま固まっている。

 最終的に大丸さんは三度、早見さんの名前を呼んだ。そして呼吸の乱れがなくなった声で、彼は言い放った。

「久しぶりだな。お父さんだぞ」

 店内にどよめきが走る。それまで呆気にとられて固まっていた客が互いに顔を寄せ合って苦笑しながらも、誰もが騒動の中心から視線を離すことはなかった。

「お父さん?」

 早見さんが抑揚のない平坦な声を出す。反芻とはほど遠い口振りに、僕は彼女から視線を逸らしそうになるが必死になって堪えた。

「何これ、どっかの撮影?」「えっ、カメラあんの?」「チョーウケるんだけど」「あいつ頭おかしいんじゃね?」

 ギリッと歯ぎしりの音がした。それが自分から発せられていたことに気づくまで数秒の時間がかかった。

 彼女は表情のない顔でもう一度繰り返す。

「お父さん?」

 僕は駆けだしていた。大丸さんを脇に押しやると早見さんの手首を掴む。彼女は目を丸くしながら、「田中さん?」と呟くと、視線を滑らせて自分の手首を見た。

 彼女が口を開く前に僕は腕を引っ張って、ドアへと走り出す。店内から出ると、その足でフロアを横切り外へと繋がる自動ドアを潜った。

 途端に生暖かい風が身体を包み込む。夏の気配を帯びた空気はどこか弾力的で、口で酸素を取り込もうとしてもうまく入ってこなくて、僕は息苦しさにむせてしまう。アスファルトの焼けるような照り返しに目を細め、額から止めどなく流れてくる汗を袖で拭い取った。

「ありが、とうございます」

 強引に引っ張ってしまったために、早見さんの長い黒髪が乱れていた。しかし彼女は気にする素振りもなく、髪が頬に張り付き口端に入ってしまっている状態で、屈託のない笑顔を僕に向けている。

 胸が締め付けられて、僕は顔を逸らしてしまう。

 その笑顔はいったいどこから来たのだろう。客の視線から逃れることができた安堵。それとも……父親から? 両方? しかし大丸さんと会ったときに張り付いた能面がこうして剥がれ落ちているということは、あの表情は父親から起因している可能性が高い。大丸さんの言葉通り、早見さんは彼を避けているのか。

 彼女の手首から指を解くと、力強く掴んでいたので白い肌に赤い痕がうっすらと残ってしまった。

「痛かった? ごめん」

「そんなことありません」

 会話が途切れる。当たり障りのない普段の日常会話の隙間に流れる沈黙であれば、彼女は平然としていたのかもしれない。微かな場の緊張を感じ取ったのだろう。ハの字になった眉の下にある二つの大きな瞳に、不安の色が浮かんでいた。

 僕は一人の女性との出会い、その人が早見さんの父親であることを簡潔に説明した。どうして女装をしているのか、父親が早見さんの周囲で何を行っていたのか、そういうことには触れずに先ほどの女性が「元」父親だという事実だけを伝える。自分が口にしていい範囲だけを説明したため多くの疑問が残るはずだが、早見さんは一切口を挟まずに目を閉じながら、僕の言葉に耳を傾けていた。

 僕が話し終えてから彼女が開口するまで、永遠のようで一瞬でもあった。憂い帯びた面持ちでぽつりとこぼす。

「どうしてでしょう。お父さんの姿を見た途端に、胸が苦しくなりました」

「それは」

 逡巡ではなかったが、言葉を一拍置いてしまう。

「父親に会いたくなかったから?」

 早見さんは首を横に振った。それが否定の意味なのか、わからないという意思表示なのか、判然としなかった。

「以前教室で田中さんにお父さんの話をしたことは覚えていますか? あの頃は特別何も感じなかったんです。ですが今は……思い出すだけで……」

「もう少しすると、お父さんはここに来ると思う。いきなりで驚いているだろうけど、頑張って会うべきだ」

「でも……」

「みんながついてる」

 早見さんがハッとした顔で僕を見た。その瞳に微かな光が滲んでいるように見えたが、すぐに消えてなくなってしまう。

 そして、再び沈黙が流れる。

 建物の角を曲がったところにベンチが設置されていたはずだったので、ひとまず僕たちはそこで落ち着くことにした。タイミング良く人の姿はなく、二人で並んで腰を降ろす。

 早見さんが口を開くまで黙っているつもりだった。しかし僕が先に言葉を発してしまったのは、彼女の押し殺すようなむせび泣きが聞こえたからだ。

「早見さん……」

 膝に置いた手に額がくっつくほどに背中を丸めて、彼女は呻いている。

「みなさんと一緒の時間が……とても楽しいです。だけどその分……あっという間に時間が過ぎて……初めはそれが心地良かった……んです。それが段々と勿体なく感じて……。カボチャなんかじゃなくて……本当の顔を見ることができたら……もっと……もっと楽しいんだろうって。だからすぐにでも……視界を元に戻したい。でも……その可能性から……逃げてる。もう……どうしたらいいかわからない」

 むせび泣きが聞こえる。しかしそれは一つではなかった。大人数から発せられる悲しみに満ちた雨のような響き。

 彼女の背中が幼い頃のゆうみと重なった。

 あの頃の僕は何もできなかった。でも、だからといって今の自分が幼い頃の僕よりも、強くなったとは思えない。相変わらず心の鍛え方はわからないままだ。

 だけど不思議なもので、自分の掌の大きさに、頼もしさを感じてしまう。高校生になったのだから昔より大きいのは当たり前なのだけれど、掌を見ていると自身が沸き上がってきた。

 僕は掌を早見さんの背中にそっとのせた。彼女の震えと体温が伝ってくる。

「逃げてなんかいないよ」

 夜の公園で早見さんは、勇気を振り絞って訴えかけてくれた。きっとその勇気は今も必死になって彼女の背中を押しているに違いない。でも勇気を持ってしても立ち向かうことのできない問題に直面してしまい、恐れ、戸惑い、自分を責めてしまい、結果「逃げている」と結論づけてしまったのだろう。

「すぐには乗り越えられない壁ってあるんだよ、絶対に。凄く高くて登り方もわからなくて、これは絶対に乗り越えられないだろうって確信してしまう、恐ろしい壁。そこで立ち止まって問題に頭を悩ますことは逃げなんかじゃなくて『立ち向かう』って言うんじゃないかな」

 ゆっくりと、静かに、彼女は上体を起こした。色々な場所が赤くなった顔に向かって僕は言葉を続ける。

「どうしてこんなことが言えるのかわかる? 早見さんが思っているよりも、僕は早見さんの優しさに助けられているんだ。その優しさのおかげで、僕は立ち向かっていることに気づけた」

 早見さんは手の甲で顔をゴシゴシと擦ると、充血した目で僕を見た。涙を塗りたくった頬は輝いていて、僕は純粋に綺麗だと思った。

「たなかさん」

「はい」

「私の傍で、一緒に悩んでくれますか?」

 言葉尻が震えて消え入りそうな語調だったけれど、彼女の瞳はしっかりと僕を捉えていた。

 その瞬間、込み上げるものを感じた。きっとその瞳は僕の記憶に残り続けるだろう。

 不思議とそんな気がした。

「早見さん」

「はい」

「僕の傍で、一緒に悩んでくれますか?」

 僕がにっと頬を持ち上げると、彼女も嬉しそうに目を細めた。そして二人で同時に声を出す。

「『喜んで!』」

 最初に吹き出したのは僕だったけれど、大声で笑ったのは彼女が先だった。泣いていたと思ったら、こうやって一緒に笑っている。

 その笑顔、守りたい! 思わずはしゃぎそうになってしまう。

「立ち向かってみます。まだ心臓がドキドキしてますが、このまま逃げるのは嫌ですから」

 涙の粒を目の縁に残しながら彼女は力強く言い放つ。そんな姿を見ていたら心臓がバクバクしてきて、僕は思わず軽く握った拳を彼女の前に突き出してしまう。少し古くさいような気がしないではなかったけど、いいじゃないか。そう、いいじゃないか。

 早見さんはハンカチを取り出して自分の拳を磨くと、ワクワクとした顔でちょこんとぶつけてきた。いいじゃないか、うん。凄くいい。

 一頻り笑い合い徐々に息が整い出した頃、遠くから自動ドアの開く音がした。早見さんは音の方を一瞥すると、眉根を寄せながらも小さく頷いた。

 僕たちは歩み出す。

 建物の角に差し掛かったとき、大丸さんの姿がスッと現れた。僕の先を歩いていた早見さんはキッと立ち止まると、一メートルほど先にいる大丸さんを見上げながら力強い声で言い放った。

「お父さん!」

 彼の後ろに続いていたゆうみが肩をビクつかせて立ち止まる。僕は早見さんの傍に立ち、彼女と一緒に大丸さんと向かい合う。

 ゆうみとどんなやり取りがあったのかは判然としないけれど、大丸さんは幾分落ち着きを取り戻しているように見えた。血走っていた瞳は色を取り戻しており、呼吸も荒れた様子はない。そんな元父親に彼女は言葉を続けた。

「久しぶり……ですね。お、お父さん!」

「ごめんな。もっと早く会うべきだった」

「そんな、お父さん!」

 あれ? と僕は早見さんの方を見やると、彼女は目をグルグルと回しながら頬を紅潮させていた。これすなわちショートである。あまりの緊張と暑さに熱暴走していた。彼女の背景の駐車場がゆらゆらと揺れて見えるのは、きっと放出される熱が多少なりとも関係しているからに違いない。

「お父さん!」

「う、うん」

「お父さん!」

 ああ! 早見さんが壊れてしまったよ。僕はいてもたってもいられなくなり、彼女の手をぎゅっと握って言い放つ。

「お父さん!」

「お父さん言うな!」

 それを自分が言われたことと勘違いしたのか、早見さんは肩をビクつかせて、「はい……」と小声で呟き恐縮してしまう。僕は彼女を鼓舞するように、「頑張れ!」と言うと、大切なものを思い出したかのように五分の魂をメラメラと燃やし出して肥大した。

「何この展開……」

 ゆうみが一人取り残されたように愕然としている。

 コホンッ、と大丸さんは不自然な咳で場の空気を整える。僕たちは口を噤み、真剣な面持ちで佇む彼に視線を向けた。

 息を吐き出す音がした。それは煙草の煙を吐くような音で、見えないそれは生暖かい空気の中に融け込むように散った。

「いなくなって申し訳ない。ずっと後悔してた。あのとき、逃げてしまったこと。逃げ続けてしまったこと。怖かっただろう、不安だっただろう、呆れただろう、蔑んだだろう……憎んだだろう、気を遣わせただろう……辛いほど苦労させてしまった。視界が変化して大変だというのに見捨ててしまった。私にはこうやって会う資格はないと思うし、許してもらうつもりもない。ただわかって欲しいのは、私は娘のことを一度も忘れたことはないし、今でも愛しているということだ」

 興奮のあまり大丸さんが数歩詰め寄ってくると、早見さんは同様に数歩後ずさり顔を俯けてしまう。まるで叱られることに怯えているような姿だった。

「ごめんなさい……」

 弱々しい早見さんの声に大丸さんは苦い面持ちで元の立ち位置に戻った。彼女の怯える姿を見てしまった大丸さんの心情を思うと胸が締めつけられてしまう。

 僕は彼女の細い手をとり、「僕の目を見て」そう呟いた。目の縁から逃げ出しそうなくらい揺れ動く瞳がすぐ前にあって、僕は無言で語りかけるようにじっと見つめる。

 徐々に瞳が落ち着きを取り戻しているときだった。背後から、「ごめんな」と大丸さんの謝罪の言葉が聞こえてくる。その瞬間、早見さんは反射的にそちらに顔を向けた。

「行かないで!」

 これまで聞いたことのない声だった。叫びにも似た悲痛な声で彼女は、「お父さん!」と続けざまに呼んだ。大丸さんは頭を下げている。不意に彼が僕に聞かせてくれた話が脳裏を過ぎった。

 インターホンを鳴らすと、あの子が出てきたんだ。すると私の顔を見るなり怯えたように震えだし、挙げ句の果てには泣き出してしまった。確かにそこでもっと問い質せば良かった。でも私はあの子の前で頭を下げて謝罪しただけで、また逃げてしまったんだよ。

 小刻みに息を吐く音が聞こえたかと思うと、途端に早見さんが崩れ落ちた。呼吸は次第に速度を速めていき、彼女は苦しそうに胸を押さえた。僕とゆうみは背中をさすりながら早見さんに声をかける。

「こ、これって救急車よね?」

 ゆうみがスマホを取り出そうすると、「大丈夫です……」早見さんが声を絞り出しながら制止したが、すぐにむせてしまって、彼女は背中を丸めて地面にうずくまってしまう。

 荒い呼吸がしばらく続いた。

 まだ呼吸に乱れが残っていたが、体調が良くなったのか彼女はゆっくりと立ち上がった。しかしその顔に生気は感じられなくて、まるで生きる屍とでも言い換えられるほどに彼女を支える脚は覚束なかった。今にも崩れ落ちそうだったので両肩に手を添えると小さな声で、私のせいだ、と早見さんはこちらを振り向いた。その声の悲痛さと裏腹に彼女の口角は僅かに引き上がっていて、複雑な表情を前に僕は戸惑ってしまう。

「どういうこと?」

 思わず口をついて出た言葉に、彼女は小さく微笑み返した。

「カボチャに見えるなんて、嘘だったんです」

 早見さんの言葉に僕は絶句した。いったいどういうことなのだろうか。カボチャの視界が嘘だとしたら、彼女はこれまで演技をしてきたということになる。沈黙の中、初めに口火を切ったのは大丸さんだった。

「いったい、どういうことなんだ?」

 僕の手から彼女の肩がそっと離れた。三人から距離をとるように後ろ向きに数歩下がる。

「言葉どおりの意味ですよ。私は嘘つきなんです」

 ふふっ、と乾いた笑い声を上げる。

「ねえ、ちゃんと説明して」

 ゆうみの声は微かに震えていた。

 早見さんはつり上がった口端に指先を当てながら視線を右往左往させると、「……あっ、えっと、その……」とあからさまに戸惑いを露わにした。

「大丈夫、落ち着いて」

「えっ、はい。すみません。えっと」

 その……えっと……はい。

 スッと一瞬息を吸う音がすると、彼女の呼吸が駆け出すように勢いを増していく。掌で口を覆いながら顔を赤くしている。

 荒い呼吸の隙間に埋もれながらも彼女の口から何か言葉が漏れた。もう……つ、

 呼吸が止んだ。

 気づけば僕は、彼女を抱きしめていた。壊れそうな身体を、精一杯の力を込めて抱きしめていた。温かくて暖かかった。頬に柔らかい髪を感じ、汗の匂いの中に甘い香りを見つける。

「つかれた……」

 ずっと近くから助けを呼ぶ声が聞こえた。そして鼻を啜りながら彼女は声を絞り出す。

「立ち向かうなんて、嘘です。逃げてばっかり。全然、進めない。どうしてこんなに、弱いの? ずっと、ずっとこうだと思うと……」

 僕の腰にそっと腕が回る。少しでも動くと外れてしまうような儚い力だった。

「この話をすると、田中さん、絶対、呆れます。いや、です……田中さんがいなくなったら」

「いなくならない」

「どうして!」

「早見さんのことが好きだから」

 息を呑む音が、した。

「僕が好きになったところは、早見さんが絶対になくさない部分だから」

 彼女の腕の力が僅かに強くなったと思った瞬間、腹の底から溢れ出たような泣き声が鳴り響いた。これまでの泣き声など聞こえなくなるほどの、感情を露わにした叫びだった。

 大丈夫。

 早見さんの傍にいると、それだけで世界が輝いて見えるから。そんな常套句を恥ずかしげもなく断言できるのは、それくらいあなたのことを愛しているってことですよ。

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