一日の終わり

 公園の時計は七時三〇分を指していた。夏が近づき日が長くなってきているとはいえ、すでにこの時刻になると外は暗くなり、おまけに気温が下がっているため肌寒さを感じてしまう。

 早見さんには、迎えが来るまでゆうみの自宅で待った方が良いと提案した。しかし彼女は、「もう少し公園で話がしたい」と申し訳なさそうに頭を下げた為、本来であれば自宅へ帰るべきなのだが、ベンチに腰を降ろしてもう少しの間、公園に留まることにした。

 僕はスマホで父親に帰宅が遅れる旨の連絡を行う。他二人も同様に連絡を済ませると、しんと静けさが増したような音がした。遠くから微かに聞こえる車の走行音、家庭の空調音、それらの音と音の間を埋めるような得たいの知れない不明な音……耳を澄ませば聞こえる音があるとしても、それでも何故か世界には僕たち三人しかいないような気分になった。話がしたいと言っていた早見さんは、チラッとゆうみを一瞥しては口をモジョモジョとモジョらせるばかりでバツが悪そうな面持ちだった。いったいどうしたのか僕が疑問に思っていると、ゆうみが笑顔で、「早見がいきなり飛び出してくるから、びっくりしちゃった。それでこいつの肩入れをするんだから、もう」と早見さんを小突く。早見さんが、「……すみません」と蚊の泣くような小さな声で謝罪をすると、「何謝ってんのよ。格好良かったよ、さっきの早見。惚れちゃうでしょ!」ゆうみが早見さんの頬を両手で包み、グニグニとこねくり回した。「ごぉめぇんんにゃしゃえい」「あっ、一つ言わせてくださいって言っておきながらたくさん言ったことは許さない」「ごぉめぇんんにゃしゃえい」「変なかおー」早見さんの頬から手を離すとゆうみは腹を抱えて笑い出した。ひとしきり声を出して笑うと、二人はお互いに顔を見合わせてくすぐったそうに笑みを交わし合った。先ほどの静けさはすでになくなっていた。

 早見さんが、「私の我が儘に付き合っていただき、誠にありがとうございます」と嬉しそうに声を弾ませる。こんな時間帯に友達と一緒にいることが珍しく、ワクワクするのだと彼女は補足した。

「僕もそうだよ」

「なんか楽しいよね」

 これが青春というものなのかもしれない。満点の夜空を見上げながら僕はふと思った。中学校の卒業式に校長先生が言った言葉を思い出す。「貴方たちは笑うかもしれませんが、私は今でも青春しています。私に負けないくらい貴方たちも青春してください。それはきっと良い思い出になるはずです。しかし素晴らしい青春の思い出に、時として囚われることもあります。でも恐れてはいけません。私のように気持ちしだいで何歳でも青春できるんです。最後に一つ。大人になったときに、この言葉を思い出してください。『青春は過ぎ去った過去ではありません』」

「それにしてもほんとびっくりした。いつから見てたの?」

 ゆうみに訊ねられた早見さんは恥ずかしそうに指を組みながら、「ベンチに座ったあたりから……すでにいました。申し訳ありません。声をかけようと思ったんですが、なかなか言い出せなくて」親指で円を描くようにくるくると回している。

 髪をポンポンしたい。僕は己の欲望を必死に押さえ込む。ポンポンしてモフモフしたい。

「そもそも早見さんはどうしてここに?」

「ゆうみさんと田中さんのことがどうしても気になってしまったんです。駅で別れるまでお二人に会話がありませんでしたし、どちらも元気がないように思えたもので。今日のうちに仲直りしてもらいたくて、いてもたってもいられなくなってしまい……追いかけてしまいました」

「気をつかわせちゃってごめんね。でもおかげで元気が出た」

「気なんて……だって『友達』ですからね。田中さんは元気になりましたか?」

「それはもう『ばかたれ』なもので元気が満ちあふれてるよ」

「おいこら。それは忘れろ」

「良かったです。本当に良かった……」

 早見さんは安堵の表情を浮かべながら指先で目の縁を擦った。心の底から喜んでいるようだった。

「……早見は本当に優しいね。凄いよ」

 本当に凄いよ。ゆうみは遠い目をしながら最後にぽつりと呟いた。

「えーっと、ゆうみも……優しいと思うけどな」

 自分で言っておきながら、恥ずかしさのあまりゆうみから目線を逸らしてしまう。だけど、どうしても彼女の呟きに言い添えたかったのだ。

「はぁ? 急に何言い出すのよ」

「ずっと心配してくれてたから」

 僕は照れ隠しで苦笑しながらも、声が掠れないよう意識しながら言葉を続けた。

「嬉しかったよ」

「ちょっ……バカじゃないの。なんでこのタイミングで言うかな。はず……恥ずかしいじゃない!」

 まったくほんとバカ唐突なのよしかも照れてんじゃないわよあーあ空気読んでよこのアホ。抑揚なく一息に言い切ると、彼女は肘でゲシゲシと小突いてきた。

 そのとき、早見さんが手を鳴らした。

「では仲直りの握手をしましょう」

「早見さん。ついに殴り合いの精神から解放されたんですね」

「いいえ! お二人でしたら殴り合いでもよろしいかと思っているのですが、でも田中さんは絶対にしてくれないですよね。だから握手です」

「ゆうみ、握手しよう」「自惚れんな、このばかたれ!」「あ、ばかたれって言った」「うっさいばかたれ!」

 僕がゆうみに向けて腕を伸ばすと、彼女は視線を逸らしながらも差し出した手を握ってくれた。

「色々と酷いこと言ってごめんね。あと、今度からはもう少し蹴りは加減するから」

「こっちもたくさん心配させて、ごめん」

 いつから握手をしていなかったのだろう。実際は僕とそれほど手の大きさが変わらないはずなのだが、丸みを帯びた華奢な手はずっと小さく感じられた。ほんのりと柔らかい温もりが伝ってくる。

 はい終了。ゆうみはパッと手を離すとそのままもう一方の手と重ね合わせて、顔の前に寄せるとそっと目を閉じた。それはまるで何かに拝んでいるような仕草だった。

 彼女は眠るように静かになる。

 早見さんの母親が迎えに来るまで、僕たちはそれぞれの「沈黙」を堪能した。


 車のエンジン音が徐々に近づいてくると、ヘッドライトの真っ白な光が公園の入り口付近で止まった。誰かの息をする音が、静止していた時間を動き出させる合図のようにか細く聞こえると、場の空気がスッと変わり出す。僕は早見さんに、「さようなら」と挨拶をすると、まるで久しぶりに声を出したかのような、やけに高い声音に聞こえてしまい恥ずかしい気持ちになった。

 早見さんはぺこりと頭を下げた後に軽く微笑んで、小さく手を振ると彼女の母親が待つ車へと走り出した。帰りを遅くしてしまったことについての謝罪がてら挨拶へ向かうべきか迷ったが、逡巡しているうちにドアの閉まる音が聞こえてしまう。

 車のエンジン音が徐々に遠ざかっていくのを耳にしながら、僕とゆうみはテールランプの真っ赤な光が見えなくなるまで手を振った。再び閑静な住宅街の空気が戻ると、ゆうみがぽつりと呟いた。

「お父さんがいないって辛いよね」

「うん。カボチャの話に気を囚われていたけど、ある日突然父親が家を出て行くって、よほど心の整理をしないといけないくらい悲しいことだと思う」

「それに話を聞く限りお父さんは早見からカボチャとして見られることが嫌で出て行ったんだよね。早見が悪いわけじゃないけど、きっと自分のことを責めてると思う。あたしが同じ立場だったらずっと引きずるもん」

 ゆうみが呟く言葉を聞きながら、僕は思考を巡らせていた。カボチャの視界が原因で父親がいなくなってしまったことから、父親の不在はそれほど重要視していなかった。そして恥ずかしいことに、僕は意識的に父親の件から目を背けていた。深く考えてしまうと、自身の母親の不在まで浮かび上がってしまい、言いようのない感情に胸が裂けそうになるからだ。母親の死を受け入れてはいるし片時も忘れたことはないが、できるなら頭の片隅にそっと置いておきたかった。

 しかし。先ほどのゆうみとのやりとりで過去を振り返り、気づいた。状況は違えど片親である早見さんの心情を、もっと考えるべきなのだ。父親の不在は必ず心に影響を与える。同じ心から生じるカボチャの視界化と何らかの関わりがあるはずだ。

 僕がそのことをゆうみに話すと、彼女は神妙な面持ちで頷き口を開く。

「こう考えるのはどう? お父さんの不在がカボチャの暗示をより強いものにしている」

「確かにそうかも。元々の原因が早見さんの人見知りからきているとしたら、カボチャの視界に改善と言わなくても少しは変化が起こるはずなのに、実際は何も変わってないからね。これって絶対に変だ」

「じゃあ、あたしたちのやることは一つね。早見のお父さんを捜すこと」

 確かにそうなのだが、引っかかる部分もあった。父親が家を出て行ったとして、果たしてそのまま何もせずに放置するものだろうか。早見さんの話を聞く限りでは家族関係は良好だったはずで、それなら捜索願などそれなりの方法を使って捜すのが道理だ。そのあたりの経緯がわからない今、父親捜しを実行するのは少し軽率だと言えなくもない。僕たちが父親を見つけ出したとして、それが良い結果になるとは断言できないのだ。しかしだからといって、何もせずに思考だけを巡らせていても解決はしない。

「問題はどうやって捜すか。お父さんの話って早見からそんなに聞いてないから、まずはそこからよね」

「いや。しばらく父親捜しの件は早見さんに黙っていた方がいいと思う」

 僕は父親捜しのことで危惧している旨をゆうみに話す。初めは訝しげに聞いていた彼女だったが、僕が話し終えると考える間を置いてから小さく頷いた。

「わかった。取り返しのつかないことにならないよう慎重にいかないとね」

「打ち明けるかどうかは、捜し出して詳しい話を聞いた後にでも判断しよう」

「じゃあさ、早見のお母さんにも訊けないよね。あたしたちだけじゃ捜すにも限界があるんじゃない? さすがのライヒもこんなに情報がないんじゃお手上げだろうし」

 ゆうみは眉間に皺を寄せながら腕を組んで唸っていると、突然腕を解いてポンと手を叩いた。

「ねえ知ってる? この町って腕利きの探偵がいるんだって。噂なんだけど二十の面相を場面によって使い分けるとかどうとか」

「初めて聞くんだけど。探偵って実在するものなの?」

「この前、コンビニにあった求人情報のうっすいやつ暇で読んでみたんだけど、アルバイト募集してたよ」

「募集してんのかい!」

「だけどその伝説の名探偵なのかどうかは、わかんないわよ」

「そもそも僕たちって探偵を雇うほどのお金を持ち合わせてないしね。まずは少ない情報の中から、それらしいものを挙げていこうよ」

「それらしものって言っても、うーん。浮き木に亀が突っ込んだ話とかはインパクトあったけどな。後は……あっ、早見ってお父さん似だよ」

 そのことについては以前、早見母の写真を見たときに同じようなことを思っていた。息子は母親に似て、娘は父親に似るとよく言われもするし、何よりも早見さんの容貌は年齢に似合わない幼さが残っていて、男勝りと思わせるような精悍な顔つきの母親とは真逆の性質だったからだ。

「ゆうみも早見さんの母親が写っている写真を見たんだ。まあ、それだけで決めつけるのもどうかって思う気もするけどね。祖父か祖母のどちらかに似た可能性もあるだろうし、もしかしたら誰にも似ていないって可能性もなくはないだろうし」

 僕の言葉を的外れな妄言だと言うように、ゆうみは片頬を持ち上げて勝ち誇ったような不適な笑みを作る。

「はっはー。さては聞いてないわね。早見が写真を渡されたときに『お父さん似』だってお母さんに言われたそうよ」

 そんな顔をされても聞いていなかったものはしょうがないので、僕は呆れながら、「はいはい」と受け流すが、不意に一つの疑問が浮かび上がる。

「今の『お父さん似だって言われた』もそうだけど、早見さんってあまりにも父親の記憶が曖昧だよね。小学校一年生に入り立ての頃にいなくなると、意外と顔も忘れてしまうものなのかな」

「わかんないけど、カボチャに見えてる時期が長いとそんなものなんじゃない?」

「カボチャに見えてる時期が長いと……か。確かに想像もつかない。暗示って恐ろしいね」

「そういえば私なりに暗示について調べてみたのよ。暗示って何か半信半疑なイメージがあったから。よくテレビであるじゃない。『眠くなーれ』みたいな胡散臭いやつ。それですぐに寝ちゃって言うこと聞くってどうなのよ。早見のやつは本物だけどアレは嘘ね」

「ゆうみは簡単に催眠にかかりそうだけどね」

「そんなことはどうでもいいのよ! それで暗示を解くには潜在意識に働きかけるのが効果的なんだって」

「その『潜在意識に働きかける』きっかけが父親だといいんだけどね」

 それでね、とゆうみは不適な笑みを浮かべながら、「凄い考えが浮かんだわけよ」とあんたは絶対に思いつきそうもないヤバい名案があるんだから! と形容できそうなヤバい表情で僕を見た。

「聞きたい?」「いえ、ご遠慮いたします」「……なんでよ」「だってゆうみの今の話だと『凄い考え』が浮かんだのは少し前かそうでなくても数日前くらいなんでしょ」「そうよ。それがどうしたってわけ?」「思いついたらまず試す。それがゆうみってもんだ。だけど現状は変わってない」「……水面下でちょこっとだけでも、変わってるかもしんないじゃない」「変わっているの?」「……人の細胞ってだいたい3ヶ月くらいで入れ替わるんだって。だったら数日でも何かちょこっとでも変わるわよね、うん」「まさか……早見さんの新陳代謝を促してより健康的な血液にする計画を考え出した……だと? そうか! リコピンか! リコピンが伏線だったんだね」「ばかたれ」「いただきました」

「それでよ!」ゆうみは脱線していた話を引き戻すように手を打ち合わせてパンッと甲高い音を鳴らした。「暗示って朝と夜にやるといいんだって。夜寝る前にリラックスしながら『カボチャの暗示よ治れー』って何度も自分に言い聞かせて、朝起きたときの頭がぼーっとしている状態でも『治れー』って繰り返すの。すると段々と治って行くんじゃないかって思ったわけよ。目には目を。暗示には暗示を」

 目には目をの意味を間違っているのは置いておくとして、予想に反してゆうみの考えた「目には目を作戦」は試してみるのも良いように思えた。すでにかかってしまった暗示を自己暗示で治すなんて考えは、確かに僕には思いつかなかった。

「からかってごめん。確かに素晴らしいアイディアだ。試す価値はあると思う」

 面食らったような面持ちでゆうみは、「そ、そうよね。そう思って言ったわけよ、早見に。そしたら……すでに試してた……って」ははは、と僕から視線を外しながら彼女は頭を掻いた。「何年も前らしいけど一時期カウンセリングとか色々してたときがあったんだって。自己暗示も試したらしいんだけど、全然効果が見られなかったって」

「暗示って大人より子供の方がかかりやすいって、どっかの本に書かれていたんだけど、もしそうなら今自己暗示を試してみても効果はないかもね」

「一応やってくれているようだけど、何も言ってこないから……成果は期待薄かな」

「それでも無駄ってことにはならないと思うよ。解決方法は一つではないだろうし」

「ああああ、ごめんごめん。恥ずかしいから! あんたの急に真面目になる感じ本当に恥ずかしいわ!」

「よーし。じゃあまずは早見さんの父親を見つけるってことで頑張りますか」

「どうやって見つけんのよ」

「どうしようかねぇ」

「早見は『お父さん似』かぁ」

 ゆうみが嘆息する。確かに居場所を特定するものではないが、万が一早見父と遭遇したときの有力な情報にはなるので覚えていて損はない。それにしてもモフモフしたくなるような早見さんの父親とは、いったいどんな顔をしているのか。非常に気になる。

 そのとき、ゆうみが唸り声を上げて髪を掻きむしった。憤りの滲んだ視線を僕に向ける。

「てかそもそも、何で早見の前からいなくなるわけ? 意味わかんない。『子離れできない』って自分で言ってたんでしょ。だったらいなくなんないでよね!」

 何かが引っかかった。

その「何か」はまだ輪郭がはっきりとしていなくて、煙のように逃げていきそうなほど曖昧なものだったが、確実に存在していて、凄く大事なもののように思えた。

 目を閉じて意識を集中させる。たった今ゆうみが発した言葉を念頭に置きながら、思考に深く潜った。じっくりと焦らず曖昧な感覚を頼りに巡る。

 巡る。巡る。巡る。

「いったい急にどうしたのよ」

 ゆうみの訝しげな声が聞こえた。いったん意識がそちらに向くと、途端に余計な情報が思考を邪魔してくる。まず初めに自分の呼吸の音が、次に靴越しに伝わる地面の固さが気になりだした。

 映像と音声と感情が渦巻く世界は予想以上に広大に伸びており先が見えない為、いつも以上に集中力を要するのだろう。

 ああ、駄目だ。思考が脱線している。焦りが生じていた。曖昧な感覚は、より形をなくしていた。

 諦めそうになる。そのとき、僕の手が優しく包まれた。それは安心する温もりだった。目を閉じている今だからこそ、気づくものがある。この手は……。

 際限なく広がる記憶の中から、僕たちはついに見つけ出す。そこから導き出された突拍子もない仮説は有り得ないようで、どこか真実のように感じられた。僕が少し興奮していると、「ねえ」とゆうみが言った。

「あんた、早見のこと好きでしょ」

 唐突な言葉に僕が呆然としていると、彼女は小さく笑った。

「わかるって。驚かないでよ」

 言葉が何も出てこない。その代わり、小さく頷く。

「頑張ろうね」

 長い一日が終わりを告げる。

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