傷だらけのスーパーマン
動物園からの帰り道は夕日に染められて、まるで昔の回想場面のようなセピア色をしていた。路面に伸びる二つの影が、そのような懐かしい気分にさせるのだろう。こうやって二人きりで家路を歩くのはいつ以来だったか思い出していると、半歩ほど後ろを歩いていたゆうみが僕の名前を呼んだ。
僕は自転車を引きながら肩越しに振り向いた。ゆうみは、「色々あったけど楽しかったね」とはにかむと少し声のトーンを低くして、「でも疲れちゃった」と呟いた。
「慌ただしい一日だったからね」
僕がそう言うと彼女は首を横に振って、
違うよ。
唇を殆ど動かさずに声を出す。僕は不安に襲われる。これは昔からの彼女の癖で、心が疲弊しているときに発せられるサインのようなものだった。舌の動きだけで短い言葉を表現する。
疲れちゃった。
自転車のブレーキを握って僕は立ち止まる。ゆうみは一歩半前に進んだところでそれに気づく。
「どうしたの?」
夢から覚めたばかりで頭に靄がかかっているときのような、平坦な声に聞こえた。僕は彼女の目を見つめながら、口を開く。
「ちょっと公園に寄っていかない?」
僕たちの家からほど近い場所にある小さな公園は、幼い頃の二人にとっては遊園地のような遊び場だった。当時は背丈ほどもあった公園を取り囲む柵は、今では簡単に跨ぐことができるくらい小さくなっている。名前の知らない危険な遊具は姿を消していて、僕たちの時間は確実に進んでいることを如実に現している。久しぶりに足を踏み入れた公園は、もう遊園地ではなかった。
敷地の端に申し訳なさそうに点在しているプラスチックのベンチはそのままだったので、ハンカチで座面を拭き、僕たちは腰を下ろす。夕日が家並みに隠れようとしていた。
僕は黙ってゆうみが話し出すのを待っていた。無言の言葉やメールなどではなく、震えていても聞き取りづらくても彼女の心がこめられた声を待っていた。
背後の外灯が淡い光を放つと、それを合図にしたように彼女は口を開いた。
「ジャングルジムって、今じゃどこの公園でも見かけないんだってね」
僕は記憶の中の公園を思い浮かべてジャングルジムが置かれていた場所に目を向ける。そこには何もなくて地面に敷かれた砂利が広がっているだけだった。
「滑り台もブランコもなくなったよね。そんなに危険な物じゃないと思うけど、まあ、しょうがないか」
「ねえ、こっち向いて」
砂利からゆうみへと首を向けた僕は、彼女の顔を見て心臓が鷲掴みにされたような痛みを覚える。
泣いていた。
薄闇の中、外灯の明かりが一筋の涙の軌跡を浮き彫りにしている。目の縁から溢れ出た涙は頬をつたって口端を横切り、顎から地面へと滴ったように見えた。
「ジャングルジム好きだったよね? 危険だから一番高いところまでは登っちゃ駄目だって注意されていたけど、二人きりのときは言いつけ破って登ってさ。そこから町を見渡しながら、たくさん話をしたこと覚えてる?」
正直に言うと、あまり記憶になかった。しかしそうとは言えずに僕は曖昧な笑みで誤魔化してしまう。
「あたしは覚えてるよ。たっくんが悩み事を話してくれたり愚痴をこぼしてくれたりして凄く嬉しかったから、だから覚えてる。この歳で昔を懐かしむなんてさ、馬鹿みたいに思われるかもしれないけど、大切な思い出だし」
僕は喉の奥がヒリヒリと痛むのを感じた。棘のついた「何か」が込み上げてくるのを、唾を飲み込んで押さえつけた。
ゆうみは嘆いている。まるで幼い頃の方が幸せだったかのように。動物園での「いつもありがとう」の言葉は嘘だったのだろうか。
「じゃあさ、動物園での約束も覚えてないよね?」
彼女の言う「動物園」とは、幼い頃に僕と母とゆうみの三人で遊んだあの日のことを指しているのだろう。僕は先日に見た夢の内容を思い浮かべた。
たっくんのうそつき!
うそなんかついてない!
だって泣いてたよ!
こーら、喧嘩しない。
この後のやりとりがどうしても思い出せなかった。しかしこの続きが心に引っかかるのは、僕の中にその「約束」が残っているからだろうか。
「『全部の動物を見ていないから、また来ようね』って言ったんだよ。それに……」
ゆうみが言い終わる前に、記憶の歯車がカチッと音を立てて回り出す。朧気だった幼い頃の情景が、鮮烈な色を帯びて脳内に広がりだした。
たっくんのうそつき!
ゆうみは唇を尖らす。
うそなんかついてない!
幼い僕は抗議する。
だって泣いてたよ!
こーら、喧嘩しない。
そう言いながらも母は大口を開けて笑っている。
だってたっくんってごうじょうなんだもん。
幼い僕は「ごうじょう」の意味がわからなかったが、問い質すこともできなかったので、頬を膨らませて小さな反抗を試みた。
やっぱつまんなかった。だってゆうちゃん、うるさいもん。
どうぶつえんはうるさくしていいんだよ。そのほうがゾウさんやパンダさんもうれしいんだよ。
ゆうちゃんいいこと言うねぇ。
母が幼い僕とゆうみの髪を撫でた。木綿が包み込むような柔らかな手の感触にくすぐったい気持ちになる。どんなに悲しいことや辛いことがあっても、母から頭を撫でられると全てが吹き飛んだ。魔法の「てのひら」だった。幼い僕は「てのひら」が好きで、撫でられると機嫌が良くなるものだった。
わかったよ。こんどはぜったいに泣かない。ゆうちゃん、またどうぶつえんに行こうね。
うん、ぜったいだよ。やくそく。
幼い僕とゆうみはお互いの小指をからめて「約束」を交わした。ゆうみはパンッと両手を合わせると、楽しみを見いだしたように頬を上気させた。
ゴリラみてなかった! ゴリラみよ、こんど。たっくん泣かないよね。ぜったいゴリラすごいよ。
僕があからさまに顔をしかめると、二人は笑い出した。
ゆうちゃんがいれば、安心してたっくんを任せられるね。ゆうちゃん、是非とも我が子を引っ張ってあげて。
母の言葉にゆうみは強く頷いた。
だいじょうぶッ。まかせなさい!
たっくんは心配性で人見知りでしょ。お母さんはそれが心配で心配で。だからゆうちゃんがいて安心するのよ。でも本当はたっくんが頼もしくなってくれれば嬉しいんだけど、って心配性はお母さん譲りね。
母は小さく笑う。何故か少しだけ悲しそうだった。
ぼくだってひっぱれるよ。たのもしいよ!
幼い僕は甲高い声で抗議した。幼い子供ながら子供扱いされたことに小さなプライドが傷つけられたのも抗議の理由だったが、悲しそうな母を安心させたい気持ちもこめられていた。
再び僕の頭に「てのひら」がのった。
ごめんね。お母さんが思っているよりもたっくんは強いよね。もうお母さんより強いかも。でもたっくんは強いから、たまに無理をしちゃうでしょ。ねえ、たっくん。引っ張られることは弱いことじゃないのよ。
母はそこで一拍置くと、言葉を続けた。
無理だけは絶対にしないで。これはお母さんとの「約束」だからね。
「無理だけは絶対に、しないで」
僕がそう呟くと、ゆうみは泣いているようにも笑っているようにも捉えられる表情をした。
「思い出すの遅いよバカ」
「ゆうみがずっと覚えていてくれたのに、ごめん」
「だって動物園の約束は……忘れられないし。ううん、忘れたくない。三人で遊んだ最後の思い出だから」
三人で遊んだ最後の思い出。その言葉に胸が痛んだ。
「あの後、色々あったからたっくんが忘れちゃってもしょうがないとは思ってたけど……どうしても気になっちゃって」
「また動物園に行こうって約束しておきながら、ここまで忘れてたんだから嫌な気分になるのは当然だと思う。大切な約束だったら、それはなおさらだし」
普段のゆうみは強気で振る舞っているが、結構繊細な部分を持ち合わせていて、精神的に崩れやすい。僕がそのことに気づいたのは、母の葬式のときだった。
三人で動物園を楽しんでから数週間後に、母は交通事故にあって夭折した。だから、たぶん母もゆうみの意外な脆さに気づいていなかったと思う。
ゆうみは不安げな面持ちで僕に視線を向けると、しばらく逡巡したのち、唇を震わせながら、声を絞り出すように、話し始めた。
「動物園に行く約束を忘れていたのは確かにショックだったよ。だけどそれは、たっくんと遊びたかったからじゃない。もう一つの約束のことも、忘れているんじゃないかって不安になったからだよ」
「もう一つって、無理をしないってこと?」
てっきり僕が約束を失念してしまっていたことに腹を立てていたと思っていたので、呟く言葉が平坦な響きになってしまった。ゆうみは僕のどこに「無理」をしていると感じたのだろう。
「無理なんかしていないよ。ゆうみだっていつも言ってただろ。『僕の言葉は薄っぺらい』とか『軽い』とか。無理して薄っぺらくなるほど僕は器用じゃないよ」
「ねえ」
「何?」
「どうして笑ってるのよ?」
僕は頬に手を当てた。口端が持ち上がり頬が隆起している。
「なんでだろう。たぶん緊張しているのかも。さっきから心臓が高鳴ってるのわかるし」
「どうして緊張しているか、教えてあげる」
ゆうみの目に力が入る。彼女の表情に迷いの色がなくなったように見えた。
「大切なお母さんとの約束を忘れてたことに、ショックを受けているからだよ」
ゆうみの言葉が頭の中で鈍く響き渡る。視界が揺れて、心臓も早鐘を打つ。
「ゆうみって凄い。僕よりも僕のことを、知ってるみたいだ」
「どうして、そんな突き放すような言い方なの?」
「え?」
「適当に褒めとこう、適当に謝っておこう、適当に自分をへりくだっておこう。そうしてれば、あたしが傷つかないとでも思ってた? 馬鹿にしないでよ。あたしが無理してるって思うのは、そういうこと。自覚がないだけで、たっくんはいつも緊張してるんだよ。ここまで言ったんだから最後まで言うよ。今から凄く酷いこと言うから」
ゆうみは目を逸らさなかった。
「たっくんの明るさは、不自然なのよ」
これほど辛辣な言葉をぶつけられたのに、憤りはなかった。これが言霊なのかもしれない。彼女はずっと言いたかったのだろう。でも我慢してくれていた。僕がバカをすればゆうみがバカと言ってくれる。容赦なく殴ってもくれる。
唐突に、母の葬式の情景がフラッシュバックした。
遺影の前で多くの人が泣いている。父も親戚の人も名前すらわからない人も泣いている。その中でゆうみが一番大きな声で泣いていた。瞼を腫らして声が枯れるくらい取り乱している。当然僕も泣いていたが、いつも気丈な彼女の変わりように、戸惑ってもいた。
幼いころの僕はすぐに泣いて周りを困らせていた。悲しいし痛いから泣いていたのだが、泣いていても誰かが助けてくれるから安心して泣いている部分もあった。父にもゆうみにも親戚の人にも、たくさん慰められて助けられてきた。笑顔で「大丈夫だよ」と言われると心が落ち着き、前向きになれた。
でも、泣いている僕を慰めてくれる人も、泣いてしまうことがあって。いつも僕を引っ張ってくれるゆうみを慰めることが、泣いている僕はできなくて。慰めたかったら泣いてはいけないと思った。しかしすぐに泣き虫が治るわけもないから、とりあえずは良く笑うよう無理をした。笑顔は笑顔を呼ぶというから、だったら僕はそういう人になりたいと強く思った。
慣れないことはストレスになる。最初のうちは明るく振る舞っても、内心では複雑な感情が渦巻き泣きそうになった。しかし崩れ落ちて泣き震えるゆうみに一言も声をかけられない無力な自分を思い起こせば、そんなものなど一蹴できた。
「時間が経つごとにたっくんとの距離が遠くなっている気がしたの。急に明るくなったから無理してるんだなってずっと思っていたけど、あたしを元気づけるために頑張っているんだって知ってたから、言い出せなかった。明るく振る舞っているたっくんが段々と無理をしていないように見えてきて、まるで別人のように変わって、怖かった。明るい性格になったんじゃなくて、無理していることに慣れたんじゃないかって」
彼女の視線に耐えられなくなって、僕は顔を逸らすように俯いた。そして瞼を閉じて、自問する。
大切な人をいつでも支えられるよう、弱い自分を見せまいと無理をした。しかしそのことで彼女が悲しんでしまうのであれば、無理をしたことに意味はない。幼いころの僕の決断は間違っていたことになる。でも……。
「お願いだから、もっと自分を見せてよ。もっと、あたしを頼ってよ!」
でも……間違っていたからといって、すぐに変わることなどできないんだ。もう僕には「ゆうみが望んでいる僕」が何なのかわからない。自分を見せるも何も、僕はいつでもゆうみと向き合ってきたつもりだった。かけがえのない親友だから、全力で向き合ってきたのだ。
ごめん。そう言おうとしても、唇は頑なに開こうとしない。
そのとき、背後から声がした。
「待ってください!」
僕たちはベンチから飛び退くと、声の方を向いた。柵越しに早見さんが佇んでいる。外灯の光によって陰影が強調されていたが、表情はすぐにわかった。
怒っていた。
「私は昔の田中さんを知りませんし今の田中さんを全部わかっているなどとも思ってもいません。そして無理をした結果が、必ずしも良いものになるとは断言できません。今のゆうみさんの声を聞くと、なおさらです。だけど一つ、言わせてください。下を向かないでください。無理をした自分を駄目だって思わないでください。助けられた人だっているから! そういう人がいるってことも忘れないでください」
早見さんは一息に言い終わると、両膝に手を置いて肩を上下に動かしながら息を整えていた。荒い呼吸の音だけが僕の鼓膜を震わせているかのようにはっきりと聞こえる。
「僕は……」
ゆうみの正面に立つと、自然と言葉が溢れ出した。
「強い人になりたい。悲しんでいる人を笑顔にできるスーパーマン、みたいな人に。それは……ゆうみが望むものとは違う、かもしれない」
自分の鼻がひくつき、口端はピクピク痙攣しているのが、話しているだけでわかってしまう。きっとゆうみには今の僕がぎこちなく映るだろう。
「だけど、お互いの望みが重なり合うところが……必ずあるはずなんだ。考えて、考えて行動に移して、ときには無理もして、そしてゆうみの望みと僕の望み、どちらの望みも叶えられる結果に辿り着いて、みせる」
でも見て欲しい。
ゆうみは僕をじっと見つめた後、眩しそうに目を細めて、にっと頬を持ち上げた。
「全然、答えになってないし。何それ、曖昧な言葉ではぐらかしているように聞こえるし。ほんと頼りない。あーやだやだ」
震えるゆうみの声。
「だけど、ちょっとだけ見直した。いい笑顔じゃん。ばかたれ」
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