動物園3

 目を開けると空には太陽ではなく早見さんの顔があった。引き結んでいた口元が緩んだ彼女は、「良かった……」と目頭を指先で拭っている。僕は数秒の間状況が読み込めずに彼女を無心に見つめていたが、徐々に沸き上がってくる「ロマンティック」に胸が苦しくなり上体を起こした。

 身体がバランスを崩しそうになって横に倒れそうになったところを、早見さんが肩を掴んで支えてくれる。どうやらベンチで横になっていたようだ。そう気づいた瞬間、僕はぎょっとする。

 僕はベンチで眠っていた。そして今僕の隣には早見さんがいる。後頭部に残るほんわかとした温もり。まさか……。

 ひ・ざ・ま・く・ら。

「顔が赤いようですが、まだ痛みますか?」

「いえ。赤いのは健康な証拠ですよ。ふむふむ」

 僕はこっそりと拳を握って喜びを表現した。ありがとうゆうみ様。

 ゆうみは近くのケヤキの樹にもたれながら腕を組んでいる。僕と視線が合うと、「悪かったわよ」と弱々しい声を出して横を向いた。

「思いっきり腹にきまっていたようだが、大丈夫か?」

 ライヒは手に持っていた缶ジュースを僕に渡すと、口元に指先を当てながら神妙な面持ちになる。

「それにしても漫画や小説では可愛らしく表現される行き過ぎたツッコミは、現実だと洒落にならないものだな」

「たぶん漫画だと十メートルは吹っ飛んで、壁に亀裂を生じさせるだろうね」

「だから悪かったって言ってるでしょ!」

 僕が吹き出すとつられるように早見さんも笑った。ゆうみの「と・び・げ・り」がどれほどの恐怖を伴って自分に襲いかかってきたのか一頻り早見さんに話した後、僕は彼女がリュックサックを背負っていないことに気づき、うっかりしてどこかに置き忘れたのではと不安になって訊ねた。

「ライヒさんが代わりに持ってくださいました」

「私としたことが迂闊だった。リュックを背負うことで生じる早見氏への負担を考えていなかったなんて。この中で体躯が一番しっかりしている私が力仕事を引き受けないなど恥ずべきことだ。『おにいちゃん』の余韻を引きずり過ぎたことが原因なのかもしれない」

「恥ずかしくなんてないですよ。凄く嬉しいです」

 僕は少しジェラシーを抱きながら、そもそもどうしてここにみんながいるのか訊ねた。レッサーパンダがいる区域にいたはずではないのか。その疑問にはライヒが答えた。

「ゆうみ氏が『やはり追いかけよう』と提案したからだ」

「ちょっ……ああもう……何でそんなこと言うかな。もう……ごめん、なさい。はい! ごめんなさい! 意地悪なこと言ってごめんなさい! それよりも、さっきの女性は何なのよ」

 そういえば苺さんの姿がない。

「女性……ですか?」

 早見さんが小首を傾げる。そのような人などいなかったと言うような反応に僕は違和感を抱く。ポーニーテールで水色のショルダーバックを持っていたと補足すると、彼女は思い出したように頷いて自動販売機のある方角へと視線を向けた。

「あちらの方へ走っていきました。たぶん田中さんが倒れて驚いたのかもしれません」

 ライヒが溜息を漏らす。

「面識のない人のことをとやかく言うのは野暮かと思うが、知り合いが倒れたのにその場を逃げるなんて、私はあまり好きではないな」

 僕が告白を断ったことにショックを受けていたとしたら、心の整理がつかなくてこの場を離れたくなるかもしれない。どんな理由であれ、彼女がいなくなったことを責める気は微塵もなかった。

「喧嘩でもしたわけ?」

 ゆうみがぽつりとこぼす。眉間に皺を寄せて苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

「喧嘩はしていないよ。ただ……」

 僕は口を噤んだ。ゆうみは苺さんが泣いていた理由を知りたいのだろう。しかし苺さんの気持ちを考えると、他の人に話す気にはなれなかった。

「ただ……何よ? 言えないわけ? 女性を泣かしてたでしょ」

「ごめん」

 ゆうみは何かを言いたそうに口を開くが、そのまま言葉を飲み込むようにぐっと唇を閉じた。彼女は三度、素早く瞬きをした後に片頬だけを小さく持ち上げると、僕から目線を外した。

 沈黙が流れる。

 柔らかな陽光に照らされながら、ケヤキの枝葉が擦れ合うくすぐったそうな音に包まれた中での沈黙。途端に居心地の悪さを感じた。早見さんはどんな気分でこの場に立っているのだろう。たぶん、戸惑っている気がする。

 案の定、早見さんは三頭身状態で口を三角形にしながら、頭上に汗をとばしていた。

「あ……あの」

 早見さんが沈黙を破った。そして次に発した言葉に、僕たちは絶句することになる。

「申し訳ございません、どうしても気になってしまったもので。田中さんと一緒にいた方ですが……女性ではなくて男性ですよね?」

 初めは言葉の意味が理解できなかった。苺さんのことを言っているのだろうが、彼女は女性であって男性では断じてないからだ。胸だって大きいとは言えないものの天保山よりも登りがいがありそうだし、お尻は……あれ、覚えていない。このときになって初めて自分はお尻よりも胸に興味があることを自覚した。そして悲しいことに僕の中で女性の特徴は胸とお尻の二つしかないことに気づいてしまった。これでは中学生ではないか、と僕は愕然とする。

「それってほんとなの? きちんと見たわけじゃないけど、あたしも女性だと思った。だって凄く……綺麗な人だったし」

「顔は見ていないが、確かに骨盤が男性的だったように思えるな」

「骨盤?」

 僕は聞き返しながら苺さんの服装を思い出す。彼女はデニムのパンツを履いていたが、それほどタイトな感じではなかったと思うが。

「これまで多くの女性を見てきたが、田中が会っていた女性は骨盤が平均よりも縦に長く、横に短かった」

 ライヒは骨盤の形状について滔々と語り始めた。腸骨やら恥骨やら角度が何十度だから出産には苦労しそうだとか、真顔で説明してくれたがあまり頭に入らなかった。要するに服の上から胸の大きさを当てる人がいるように、ライヒは骨盤の形状がイメージできるようだ。

「つまりは綺麗なハート型だったと言うことだ」

 とライヒは締めくくった。僕は思わず拍手をしてしまう。ゆうみは嫌悪感剥き出しの蔑む視線を彼に向けている。

「キモい」

「えっと……その……」

 ライヒの説明があまりにもインパクトがあったため、もう何を言われても驚かない自信があった。ごめんなさい、早見さん。

「は、鼻が雄花でした!」

 僕とゆうみは声を揃えて、「そうだったのか」と納得した。

「ちょっと待ってくれないか。何故それで納得する」

 早見さんの視界にそう映った以上、にわかには信じられないが苺さんは男性なのだろう。男性……。

 お・と・こ(しかも綺麗なハート型)

 下手したら人間不信になりそうな事実に、僕は呆然とする他なかった。

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