動物園2

 昼食が終わるとモノレールに乗ってレッサーパンダがいる区域へ移動した。ゆうみはどこか元気がなく、目的のレッサーパンダが立ち上がってもどこか上の空で、何を思っているのか時折寂しそうな笑みを浮かべていた。ベンチがあったので僕は一休みしたいと提案する。

「なんか元気ないようだけど、どうしたの?」

 ベンチに腰掛けたゆうみに僕は訊ねる。彼女は拗ねた子供みたいに唇を尖らせながら「ふんっ」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「もしかして喉が渇いたとか?」

 何を言っているんだこいつは、と言いたげにゆうみは眉根に皺を刻む。僕が困り果てていると、一転して彼女は笑顔になった。

「意外と気が利くわね。そうそう、ちょうど何か飲みたいって思ってたのよ」

 この笑顔、怪しい。絶対に何か企んでいる。ニコッとした彼女のスマイルに百円では済まない何かを感じた。そして僕の予感は的中する。指定してきた缶ジュースはベンチの近くに設置してある自販機にはない物だった。

「休憩所のところにだったらあったわよ。ほら昼ご飯食べたとこ」

「僕の記憶が正しければちょっと距離があるような気がするんだけど」

「あんたの記憶は当てになれないから大丈夫よ。何? 自分から言っておいてすっぽかすの?」

 僕が、「そんな殺生な」と肩を落としていると、それを見かねたのか早見さんが不安そうな面持ちで、「一緒に行きましょうか?」と服の袖を軽く引っ張ってきた。

 早見さんの言葉にゆうみが首を振る。

「駄目。早見も疲れてるでしょ。弁当が入ったリュックをずっと背負ってたんだし」

 叱られた子犬のように早見さんはシュンと目を伏せてしまう。僕は下心を必死に隠しながら、そっと彼女の肩に手を添えた。

「大丈夫だよ。僕は無事に帰ってくる。だから待っていてくれ」

「……はい、待ってます。絶対に帰ってきてくださいね」

「ああ。絶対に帰ってくるさ。だって伝えないといけないことが……あるから」

「えっ。そうなんですか? いったいなんでしょうか?」

 エクスクラメーションマークが三つくらい彼女の頭上で浮遊している。途端に恥ずかしくなってしまった。

「すみません。人生の中で一度は言ってみたい台詞だったもので、調子に乗ってしまいました」

「そんな、謝らないでください。素晴らしい台詞だと思いますよ。だって絶対に帰ってくるってことですよね。伝えないといけない言葉を伝えないといけないんですから」

 それって死亡フラグじゃない? と言いたげな呆れ顔のゆうみは無視して僕は下心を必死に隠しながら、そっと彼女の両手を掴んだ。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 なんだこの幸せなやりとりは。早見さんの手はとても温かくて柔らかかった。ああ、僕はなんて変態なのか。でも、それでいい。だって、僕はいい変態なのだから。

「おのれ、さっさと行かんか」

 モノレールに乗って昼に立ち寄った休憩所に着くまで、僕は両手に残った早見さんの温かさをじっくり思い起こしながら堪能した。芸能人や憧れの人と握手をすると手を洗えなくなるという意味がわかった気がする。それどころか誰とも手を握られなくなるくらい、自分の掌が愛おしく思えた。ああ、僕の掌。よくよく思うと「てのひら」ってかわいい響きではないか。この名詞を考えた人は天才か。

 僕が自販機の前に立って目的の缶ジュースを見つけたとき、背後から声をかけられた。

「もしかして君、この前ジャスコで会った人だよね?」

 僕は肩越しに振り向くと、黒髪を後ろで結いでポニーテールにした美少女が佇んでいた。

「たしか……すみません。お名前を伺っていませんでしたね」

「イチゴだよ。野菜か果物かよくわかんない赤いアレね。個人的には苺と書いてバナナと呼んでもいいくらいのバナナっ子なんだけど。私、滑り知らずだからさ、バナナとは縁がなさそうだと思われがちだけど、バナナとは朋輩だからさ。あれ? いったい何を話そうとしてたんだっけ」

 若干太めのハスキーな声と華奢な外貌がアンバランスさを醸しているが、親父ギャグをこよなく愛する性格が乳化剤の役割を果たしているようで、奇跡的なバランスで存在している彼女との会話が何気に好きだった。

「今日はバナナを持ってないんですか?」

「笑止!」

 水色のショルダーバックからさっとプラスチックのバナナケースと取り出し掲げて見せてくる。幼い行動に思わず頬が緩んでしまう。かわいいは正義とは言い得て妙だ。

「それにしても偶然ですね。こんなところで会えるなんて」

「そうだねー。ねえねえ、今ちょっと時間ある? お話でもしない?」

 僕は腕時計に目を落とす。ゆうみを待たせたら、きっとただでは済まないだろう。

「すみません。ちょっと友達が待ってるものであまり時間がないんです」

「ははあ。もしかしてこれですか?」

 苺さんはニヤニヤと唇を蠢かしながら立てた小指をくるくると中空で回した。

「違いますよ。勘弁してください」

「ねえねえ、今日は何人で遊びに来たの?」

 どうやらこのまま「はい、さようなら」と別れる気はないらしい。このような場合は相手の要望に迅速かつ的確に答えることがベストだろう。僕は昼食時に使用したベンチを指さして、彼女に座るよう促した。どっこいしょ、と言いながら腰を下ろした彼女の隣に僕も並んで座る。

 頭上に広がる枝葉を陽光が透かしてこぼれ落ち、コンクリートの地面に幾何学模様の影を踊られていた。葉群の擦れあう音が心地良かった。

「デートに動物園ってさ、なかなか珍しいよね。彼女って動物好きなの?」

 目を輝かせながら苺さんは顔を寄せてきた。吐息が伝わるくらい距離が近かったので僕は上体を引く。

「どうしてデートって決めつけるんですか。友達とですよ」

「ともだち? 何それ美味しいの?」

 顔を寄せてくるまで気づかなかったが、彼女は薄く化粧を施していた。香水もほんのりと香ってきて、お洒落に気を配っているのが伝わってくる。

「男女二人ずつ計四人です。苺さんはどうして動物園に?」

 そう質問してから若干後悔してしまう。何となく彼女は一人で動物園に来ている気がしたからだ。案の定、快活な声で予想通りの答えが返ってくる。

「動物が好きなんだ。結構一人で来るんだよ」

 僕が、「和みますよねぇ」と当たり障りのない言葉を返すと彼女は、「そうだよねー」と頬を持ち上げた。

「私って大勢でガヤガヤ騒ぐの好きじゃないんだ。ゆっくりとできないじゃん」

「それわかります。勝手に迷子になられたりすると探すの大変ですしね」

「えー。君の歳で迷子になる人なんているんだね。それは大変だ」

 僕は苺さんの口振りに違和感を抱く。同い年か少し年上だと勝手に想像していたが違うのだろうか。僕は言葉を選びながら軽く訊ねてみた。

「そいつ僕と幼なじみなんですけどね、高校までずっと同じなんですよ。まあ腐れ縁ってやつですね。そういえば、苺さんってどこの学校へ通ってるんですか?」

 苺さんは、「言ってなかったっけ?」と小首を傾げてから、とある大学名を上げた。そこの三年生で今年で二十一歳になったことを彼女は滔々と口にした。

「そこって結構偏差値高いところですよね」「おお、もしかして意外って思ってる?」「正直に言っていいですか?」「いいよー。こいよー」「意外です。バナナって頭良くする成分でも入ってるんですか?」「あたぼうよー。もしかして釘を打つしか役に立たない食べ物だと思ってる? バナナ成分舐めんなよ。特に食べてから二時間経つまでバナナパワー続くよー」「そんなバナナ!」

 やはり彼女とはそれほど歳が離れていないらしい。

「ねえねえ。私の年齢知ってどう思った?」

「どうって……大人の女性だなって思いました」

「女子高生じゃなくてごめんねー。でもさ、年上ってのも悪くないと思うよ。うん。これは私の勝手な推測なんだけど。きっと私と君って相性いいよ」

 僕が面食らっている間に彼女は飄々と言葉を続ける。

「君のことが、好きなんだ」

 僕は絶句した。

「一目惚れなんだと思う。ちょっと可笑しいよね。ついこの間出会ったばっかりなのに。でも今日こうして偶然再会して確信したんだ。君ともっとお話がしたい、一緒の時間を共有したいって。実は胸がドキドキしてるんだ。恋に恋いこがれてるってこんな感じなのかな」

 僕は絶賛絶句中だった。いったい何がどうなっているのか。どうして愛の告白が? 初めての告白がこんなタイミングでされるなんて。

 動悸が高鳴る。身体が火照る。眩暈がする。

 少しでも気を緩めると視界が暗転しそうになるので、僕は下唇を噛んで痛みに身を沈めた。それでも静まることのない得体の知れないモヤモヤがどこからか込み上げてくるので、首を傾けて青碧の空を見つめ、両膝の上に置いた手をぐっと握った。

 駄目だ。得体の知れない存在はいなくならない。この存在はなんなのだ。そのとき、声が聞こえた。それも耳からではなく、脳に直接語りかけてくるような、まるで神様の啓示みたいな声だった。

『いちゃいちゃし放題って夢があるぞぉ。愉悦よのぉ』

 僕にはいっぱい「夢」がある。それが叶う。それを教えてくれた存在を、僕は知っている。何故なら以前にも神託をいただいたことがあるからだ。

 それは高校一年生に成り立ての頃だった。唐突に『この学校にはお主以上の変態はいない』と近くから遠くから声が聞こえた。僕はそれを聞いて疑問を抱き、学校中にあふれる変態と呼ばれる生徒を訪ねては確認をした。その結果、彼らは変態であることを自慢するか、逆に隠そうとするかの二つだと気づいた。僕は愕然とした。何故なら、変態だと自慢する者は変態を一種のステータスにしか思っていなく、ようは変態について無関心だった。変態を隠そうとする者は変態の存在を自覚はしているが断片的な部分しか捉えていなく、その断片的な部分が漏れ出てしまうということは自分の変態を他者に感じ取ってもらいたいというエクスタシーが内包されているわけで、ようは不完全な変態を「変態」としてはきちがえているのだ。彼らが変態について知ったつもりになっていることに、僕は気づいてしまったのだ。

 僕は変態の全容を知らない。そして知らないことを知っている。彼らのように変態を知っていると思い込んでいる者は、真の変態ではない。そして僕は理解した。『この学校にはお主以上の変態はいない』という神託を。

 変態の真理に到達することは人間という存在では時間が足りない。僕は変態について知識が不完全であることを自覚していることで、変態であると自惚れている賢者たちよりも優れていることになるのだ。だから僕は「いい変態」なのだと自負している。

 得たいの知れない存在が、形になっていく。

 童貞神。

 この世に男の性を授かったときから一緒に付き添ってくれる神様。名は童貞神。何年も傍に寄り添ってくれる頼もしい存在なので、別れは涙なしではいられないと聞く。様々な思いが複雑に混ざり合った涙は、男に磨きをかける。

 その涙の落ちる音を、僕はまだ知らない。

 ちなみ、この話をゆうみにすると、「それってソクラテスを馬鹿にしたつまらないギャグにしか思えないんだけど。弁護できないくらい悪趣味過ぎて、訴えられるわよ。道徳がなってないわね。この変態」と一蹴されて、侮蔑の視線を向けられてしまった。

 もし訴えられたら、僕はきっと何が何でも生き残ろうと無様にのたうち回るに違いな……

 やく……

 無理だ……

 絶対にし……

 たのもし……

 いってらっしゃい


「ごめんない!」

 僕の思考は鋭い声によって切り裂かれる。罪悪感よりも焦燥に駆られて飛び出したような謝罪だった。僕は視線を空から地上へ戻し、苺さんと顔を見合わせた。

 てっきり謝られたのかと思った。苺さんが、「からかってた。嘘ついちゃってごめん」と告白を訂正したとしても不思議ではないし、別段そのことで憤りを抱く気もなかった。しかしすぐにその声が自分の口から発せられたものだと、喉の違和感が教えてくれた。

「それって、他に好きな人がいるってこと?」

 僕が顔を伏せると、逃げるなと言わんばかりに彼女が下から覗き込んでくる。まるで心根を探っているように、僕の目をじっと見つめていた。

「好きな人がいるの?」

 彼女は同じ台詞を口にする。緩慢な物言いだったが、有無を言わせない力強さだった。ここで口にすべきかどうか、僕は逡巡する。気が合いそうだといっても、ほとんど他人と呼べる女性だ。そのような人に恋の話をするのは気恥ずかしかったし、内心を打ち明けるにはそれなりの心構えと意志が必要だった。

 彼女は静かに見つめている。

 その瞳はとても美しかった。真剣な表情がそう思わせるのだろう。内心を打ち明けるのは、大変だ。それは相手も同じで、告白となればなおさら強い意志が要求される。

 苺さんの心情を計ることはできない。しかし彼女の瞳には僕の態度が酷く滑稽だと思い知らせるほどの力が宿っていた。ここで曖昧な態度をとるのは失礼だと思い、僕は背筋をスッと伸ばすと一つ息を吸って言い放った。

「めちゃくちゃ好きな人がいます」

 苺さんの表情は変わらなかった。

「『めちゃくちゃ』っていったいどのくらい?」

「え?」

「だから『めちゃくちゃ』なんて形容詞だと、相手を思う気持ちが伝わってこないってことだよ」

 さすがにたじろいでしまう。だがもう退くことはできない。

 僕は目を閉じて瞼の裏に早見さんを思い描いた。

 初めて早見さんと会話をした教室は茜色に染まっていて、風にたなびくカーテンにどこか映画のような雰囲気を感じていた。女子に告白されると舞い上がっていた僕は、彼女の悩み事を聞いて驚いたものだ。だけど心の底では、話の内容が本当のことだとすでに信じ始めていたし、信じたいと思っていた。

「とても笑顔が素敵なんです。笑顔って一番その人の性格が表れる部分だと思っているんですが、僕の好きな人は豪快さと柔らかさを併せ持ったような不思議な笑顔なんですよ。なんだそれって思いますよね。ふわっとした温かい笑顔なんですが、心の底から楽しそうに声を出して笑ってくれるんです。だから見ているこっちも楽しくなってずっと傍にいたくなるし、生きている中でこの笑顔を一つでも増やせることができたらいいなって、ちょっとクサいことも思ってしまうんです」

 一緒にいるだけで温かい気持ちにさせてくれる人なんですよ、僕はそう締めくくった。

 僕はそっと目を開ける。ゆうみや他の知り合いには絶対に口が裂けても言えないことを話してしまい、急に照れくさくなった。しかし僕はこの想いを誰かに打ち明けたかったのだろう。嬉しい気持ちで胸がいっぱいだった。

 苺さんは目を見開いたまま固まっていた。なんと声をかければいいのか動揺していると、彼女の大きな瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい!」

 僕は頭を下げた。

 今回の謝罪はしっかりと苺さんを意識した。相手の誠意ある告白に、こちらも精一杯応えないといけない。ごめんない。あなたの想いには応じることができません。

 彼女の膝の上で、固く握った手が震えていた。親指を内側に納め、手の甲には血管が浮かび上がっている。華奢な手だと思っていたけど、拳となった姿には力強さを感じた。

「えっと……その……」

 頭上から苺さんの震える声が聞こえた。僕が顔を上げようとしたとき、

「おあぁぁあいぃぃッ! なぁぁあにぃぃしてぇぇえんだあぁぁよおぉぉおッ!」

 馬車馬の如く荒い足音が近づいてきたと思った瞬間、胸ぐらを捕まれて持ち上げられた。額に極太の血管を浮き上がらせたゆうみの顔が、僕の視界一面を覆い尽くす。口の端は笑っていたが、瞳孔は拡大していた。怒気と殺気がない交ぜになった表情に僕はおののき、両手を顔の脇まで上げて降参の意志を示した。

 胸ぐらを掴んでいた手が急に解ける。僕は地に足をつけると安堵の息を吐く。実際のところゆうみが激昂している理由が判然としなかったが、グーパンチが繰り出されなかったことに今は喜ぶべきだろう。

 ゆうみがクルッと踵を返して背中を向ける。足早に僕から距離をとると、肩越しにこちらを向いた。その目を見た瞬間、背中に粟立ちを覚えた。

 其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆。

 脳裏に風林火山が過ぎったときには、僕の腹にゆうみの両脚が槍の如く迫っていた。

 これすなわち「跳び蹴り」である。

「ぐはぁえッ!」

 腹に靴がめり込む感触が痛みを呼ぶ。

「心配して来たのに……どうして女の子を泣かしてんのよ!」

 僕は身体をくの字に折りながら腹に手を当て、痛みが過ぎ去るのを待った。呼吸をしようとするが、口を開けても空気が入ってこない上に意識が朦朧とするため、立っているだけで精一杯で彼女の誤解を解く余裕すらもなかった。

「駄目ですよ! 田中さん大丈夫ですか?」

 霞む視界の中、黒髪を乱しながら走り寄ってくる早見さんの姿を僕は見た。どこかほっとする自分がいて、気が緩んだのか一瞬のうちに視界が暗転した。

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