動物園

 天候にも恵まれ、空を見上げると透き通った青がどこまでも広がっている。視線を下げると隣にいる早見さんもちょうど青空を見終わったようで、「いい天気ですね」と口にした。

「ほんといい天気ですねぇ」

 僕は天気の話題は会話が続かない場合に繰り出される伝家の宝刀だと思っていた。しかしもっと気軽に使用してもいいのかもしれない。目を細めた早見さんはとびっきりかわいいのだ。

 駅で待ち合わせをした僕と早見さんは、バスに揺られて予定通りの時刻に動物園に到着した。あとはゆうみが来るのを待つだけだったが、周囲を見渡しても子供連れやカップルが目立つだけでゆうみの姿は見当たらない。彼女は「動物園に行くから、絶対に!」と倒置法を使ってまで豪語していたが日曜日の、それもこんなに天気の良い陸上日和に、部活を休むことができるのだろうか。携帯を確認しても朝に『ごめん。動物園で合流する。チカ先輩を侮ってた。最終手段使う』と送られてきたメールが一通だけで、その後の連絡はなかった。

「ゆうみさん大丈夫でしょうか。無事だといいですが」「グラウンドを五十周させられていたら、ただでは済まないだろうね。あのチカ先輩だから、強力な猿とキジと犬を使役していかないと勝ち目はないと思う」「桃太郎ですか?」「はい。桃太郎です」「チカ先輩が鬼ということですか?」「はい。チカ先輩が鬼です」「ではゆうみさんが桃太郎ということですね」「そうなっちゃいますね。でも実際は村人Aです」「村人Aですか」

「ちょっと、人がいないからって好き勝手言わないでくれる? それにあんたは『木』の役だったでしょ」

 いつの間にか僕たちの目の前に村人Aが現れていた。村人はオレンジのポロシャツに緑のショートパンツ(天気が良いとはいえ肌寒いと思うのだが)という、早見さんの白のワンピースとは真逆のいでたちだった。

「木の役をなめたらダメだよ。いざというときに天の声として主人公に助言するんだから」

「ゆうみさん、おはようございます!」「早見、おはよう!」「ゆうみ! おはよう!」「あれ? 木がなんか喋ったように聞こえたんだけど気のせい?」「ふぉっふぉっふぉっふぉ。我は木の精」

「どうやって、チカ先輩からお許しをいただいたんですか?」

 早見さんはミステリー小説の続きが気になって仕方がないような口ぶりで訊ねた。ゆうみはさっと向こうを指さす。その先には自動販売機があって、一人の男が飲み物を買っていた。

「ライヒよ。あいつに頼んだの」

「あの方がライヒさんですか。凄く綺麗な顔の形ですね。左右対称で艶もいいです」

 これまで目にしたことのない極上のカボチャを発見した農家の子供のような面持ちで、ライヒを見つめている。くそっ。悔しいがあいつは人智を超えた存在だ。もうメガネをかけたカボチャ王子にしか見えないだろう。

「どうしてライヒがいるのさ」

 僕は嫉妬のあまりゆうみを咎める口調になってしまった。

「あれ? あれれ? もしかしてぇ早見って面食い?」

 ゆうみは顔をにやけさせながら人差し指で僕を小突いた。行き場のないジェラシーに僕はゆうみの髪をくしゃくしゃにする。

「ちょっ何すんのよ」「早見さんは面食いではないし、異性を意識しないってこの前言っただろ」「じゃあ別に気にしなくていいじゃん。何怒ってんの」「怒ってない」「怒ってるよ」

 二人で取っ組み合いをしている間に早見さんはライヒへと近づいていた。彼女は頭を下げると楽しそうに話しかけている。

「前よりも人見知りしなくなってきたんじゃない?」

「そのようだね。悔しいけど、ゆうみのおかげだよ」

「当たり前でしょ。でもまあ、あんたがいなかったら、きっとあんなに楽しそうに話す早見を見ることができなかったと思う。感謝の言葉くらい言ってあげてもいいわよ」

「別にいいよ。後から壺を買わされそうだ」

「ばーか。こういうときは素直に頷けばいいのよ」

 ゆうみはそう言うと天を仰いでゆっくりと目を閉じる。僕が頷くと見えていないはずなのに、彼女の頬が少し持ち上がったように感じた。

「いつもありがと」

「こちらこそ、ありがとう」

 僕たちが早見さんとライヒの元へ行くとちょうど話に一区切りがついたようだった。ライヒは缶コーヒーを飲み終えると、「やはりコーヒーはコンビニこそ至高」と言ってゴミ箱へと捨てる。

「何話してたの?」

 ゆうみが訊ねると早見さんが、「私のことを探すお手伝いをしてくださったと聞いていたのでお礼をしていました」もう一度ライヒに向かって頭を下げる。

「それでライヒはどうやってチカ先輩を説得したの?」

「ただ一言『借りていいか?』と訊いただけだ」

「借りていい? それってゆうみのことを?」

「状況を把握していないので私も理解しているとは言い難いのだが、そのように話せば大丈夫だと言うもので」

 さすがのチカ先輩もライヒからの頼み事には逆らえなかったようだ。ゆうみはチカ先輩が親衛隊に入隊していたことを利用したのだ。今頃陸上どころではないだろう。ライヒとゆうみの関係を勘ぐっているに違いない。

 それにしてもゆうみの頼み事を聞き入れてくれるなんて、ライヒは結構なお人好しなのか。僕がからかいながら訊ねると、「俺の秘密を受け入れてくれた恩義があるからな」と言い、恥ずかしそうに目を伏せた。

「はいはい! まあいいじゃない。時間がもったいないから、ほら中へは入ろ」

「今度は録音してもよろしいか?」

「えっ、何? よく聞こえない。はーい。話はここで終わりね」

「旦那ぁ。ゆうみが何かやらかしたのですかい?」

「電話口で幼子のマネをしてくれたのだ。あれほど完璧な『おにいちゃん』は聞いたことがない」

 ゆうみは顔を引きつらせる。

「おいこら。殴るぞ」

「目を開ければ壊れてしまう美しさが世の中にはあるってことですな。ゆうみ、良かったね! 才能とは自分の望むものとは限らないってことだ」

 僕たちは早速入場券売り場前のパーティションに並ぶと、四枚分の券を購入して入園する。

 入場口を潜ると一気に視界が開けた。わぁ、とゆうみと早見さんが同時に声を上げるものだから僕は少し笑いそうになる。その声を聞いて、今更ながら楽しい一日が始まることに胸が踊った。

 バスを降りたときから鼻を掠めていた動物園特有の臭いは、突然形を成したように濃くなり僕を包み込む。動物の体臭やエサ、それに糞尿の臭いが混ざり合い、新鮮な空気が加わった懐かしい臭い。以前動物園の夢を見たことを思い出す。僕と母とゆうみの三人は同じ笑顔をしていた、はずだ。昔のことだ。母はよく笑う人だったから、きっと笑顔に違いない。

 所々に動物を収容するスペースが点在していて、小さな子供たちが無邪気に走り回っている。記憶の中の僕とゆうみも歩くことを忘れ、踊るように園内を動き回ったものだ。

 入場口付近に総合案内所があり園内マップが掲げられていたので、一通り回る順番を決める。ふとあの頃も同じようにマップを見上げていたことを思い出した。

 高校生になりました。大人か子供か線引きが曖昧で複雑な年頃です。だけど僕とゆうみはこうして動物園に来れる仲なので、悪い方向へは進んでいないと胸を張って言えます。

「キャー、ほら見て見て! 超かわいい! もっと近づこうよ!」

 一瞬、奇跡でも起こって昔の動物園へタイムスリップしたのかと思った。記憶の中の小さなゆうみが僕のすぐ傍で、懐かしい言葉を口にしたのではないかと、あり得ない想像をしてしまった。

 相も変わらずゆうみはあのときのままです。一緒にいる僕も変わってないんですかね。

 どこからか豪快な笑い声が聞こえてくる。つられて僕も笑いそうになるが、必死になって堪えた。あまりにも必死に堪えたので、目頭が滲んだ。


 園内マップを確認したときからわかっていたことだが、一日ではすべての動物を見て回ることが不可能なくらい園内はとても広大だった。ゆうみは目を輝かせながら、「レッサーパンダ見たい!」と主張していたが、展示スペースがここから少し離れた場所にあったため、話し合った結果一番初めはパンダを見ることになった。

 友好の象徴でもあるパンダは人気の象徴でもあるようで、僕たちは大勢の人だかりに苦戦してしまう。それでもひしめきあった群衆に巻き込まれながら、屋外放飼場を囲む柵越しにのぞくパンダを目に焼きつけた。隣にいるであろうゆうみに声をかけようと振り向くと、ライヒと早見さんは確認できたが幼なじみの姿が見当たらないことに気づく。僕たちは彼女を捜すはめになるのだが、すぐに見つかった。

 ゆうみはゴリラにうっとりとしたまなざしを向けながら、「ゴリラ凄い……」と放心していた。僕はゆうみの頭をはたく。彼女は悪びれもせず、「だってパンダよりゴリラでしょ」とゴリラの生態を熱く語ってきた。

「あんなにパンダ好きだったくせに」「あんただって動物園嫌いだったでしょ」「子供の頃の話だ」「それはあたしだって同じよ」

 早見さんは恐怖に耐えるように目をきつく閉じながら、僕とゆうみの間に割って入ってきた。

「喧嘩しないでください!」

「ごめんない」

 唖然としてしまい、僕たちは同時に謝罪した。

「あたしがパンダ好きだったこと、よく覚えていたわね」

 ゆうみは早見さんに聞こえないよう顔を寄せて話しかけてきたが、その口ぶりにはどこか非難するような響きが感じられた。僕が動物園の夢を見たことを話すと彼女は何かを期待するように目を輝かせたが、帰り際での会話の途中で目を覚ましたことを伝えると、あからさまに落胆の色を表した。

「やっぱりね……」

「やっぱりってどういうこと?」

「あたしがバカだったってことよ」

 ゆうみは力なく笑った後、顔を引き締めて早見さんの元へと駆け出した。そこはかとなくその背中が小さく見えたので、僕はなんと呼び止めればいいのかわからなかった。

 その後ゾウやサル、ライオンを堪能したところで時計を確認すると時刻は正午を過ぎていたので、猿山の近くにある休憩所で昼食をとることになった。建物の脇には食事のために用意されたベンチが数多く設けられてあったので、樹木の陰になる場所を選んで座る。

 待ち合わせのバス停で早見さんと会ってからずっと気になっていたが、このときが来るであろうことを期待して黙っていたことがあった。彼女は背負っていた茶色のピクニックリュックを膝の上に置くと、まるでごめんないと言いたげな視線を僕たちに投げかけてから、そっと長方形の包み箱を取り出した。

「お口に合えば良いのですが」

 ベンチの上で包みを広げるとプラスチックのケースが三つ重なり合っていて、フタを開けばサンドイッチが「よお、おまたせ! 息苦しかったぜ!」といった具合にぎっしりと詰まっていた。ハムサンド、タマゴサンド、ベーコンレタスサンド。それらを引き立てるプチトマト。

「うっほほーい」

 テレビではよく目にする光景だけど、実際に体験すると心の蔵が飛び出し昇天しそうなほどの威力であった。

「凄く美味しそうだよ。まず形がいいよね。それに色合いも綺麗だ。ああ! 僕の語彙力ではとうてい太刀打ちできない!」

 僕の言葉が見えない掌となり、早見さんをこねくりまわす。愛でて愛でて愛でまくって、掌サイズの三頭身早見さんが完成する。手乗り早見さん。まるでプチトマトのようだ。ああ! 早見さん! 君のあだ名はリコピンだ。

 僕はハムサンドを一口で食す。ほっぺたがリコピンしそうであった。

「田中さん、美味しいですか?」

「うん! とっても! ありがとうリコピン!」

 早見さんは、「リコピン?」と小首を傾げている。

「こいつテンション高くなると頭のネジが飛んじゃうのよ。ほんとバカ」

「リコペンではないのか?」

「ライヒはわかっていない。『ピン』が大切なんだ。そう、爆発だ。ピンは爆発なんだ。他のに置き換えれば『ちゃん』も爆発だ。『さん』ではそうはいかない。だろ?」

 おにい、ちゃん。おにい、さん。後者だと「お兄さん」といった堅苦しい表現になってしまう。

 ライヒは眼光鋭く正面切って見つめてきた。

「君はわかっていないな。『さん』も一つの完成系だというのに。まだ間に合う考え直せ、二十歳まで人格は変えられるらしい」

「ライヒは僕をどうしたいんだ?」

「君はいいやつだからな。誤った道に進まないようサポートさせていただきたい」

「サポートだって? 俺たちはベーコンレタスじゃあないぜ」

「ふふふ」

「ははは」

「ふふふ」「ははは」「ふふふ」「ははは」「ふふふ」「ははは」

「おい、キモいからやめろ」

空気が漏れるような音がしたので視線を向けると、早見さんが唇を引き結んで笑いを堪えていた。僕は微笑ましい気持ちになる。

 人見知りしなくなっているのか、人と関わることの喜びを知ったのか、僕は彼女の心に生じた変化を完全に把握することができないけれど、確実に他者との壁は薄くなっているはずだ。そうだとすると、カボチャの視界が変わらない以上、他に原因があるとしか考えられない。

 彼女は幼い頃にカボチャの暗示にかかってしまい、人の顔がカボチャにしか見えなくなっている。それでも男女をすぐに見分けられるのは人の鼻が花になっているからで、男性は雄花、女性は雌花として見えるからだ。性格や人柄などの内面はカボチャとしての艶や色でなんとなくわかるという。

 こんな視界変化はよほどの理由がない限り起こりえないはすで、もし起こったとしても父親からカボチャの暗示をかけられたという外的要因が原因では、いまいち説得力に欠ける。では、もし他に理由があるのだとしたら。彼女から説明されていない真実があるとしたら。

 それは何だろうか。いくら思考を巡らせても糸が絡み合うばかりで頭を悩ませていたそのとき、

 アハハハッ。

 初めて笑顔を目にしたときからずっと聞きたかった声。

 それは唐突だった。

 早見さんはぎゅっと目を閉じながら、頬を赤く染めて、腹を抱えていた。大きく口を開いて、真っ白な歯列をのぞかせ、心底楽しそうに笑い声を上げている。

 想像以上に聞いていて心地良い笑い声だった。こんなにも幸せそうに笑うなんて、本当に早見さん、最高です。

「早見って、笑い方豪快ね」

 ゆうみは意外そうな顔をしているが、僕は早見さんがこのように笑う人だとわかっていた。理由はない。教室で笑顔を見せてくれたときに直感で思った。良かった……。僕もつられるように笑いが込み上げてきて、周囲の目など気にせずに大声で笑った。

「この二人は何が面白くて笑っているんだ?」

「あたしにわかると思うの?」

 僕たちは笑って笑って笑いまくった。腹が筋肉痛になるのではないかと思うくらいひとしきり笑った後、喉が使い物にならなくなったので肩で息をした。

 間違っていなかった、と僕は確信する。胸に手を当てると、掌に温かい感触が広がった。

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