テレビには映ることのない大きな事件

 僕とゆうみは職員室前の廊下で早見さんが出てくるのを待っていた。先ほどドアをこっそり開いて職員室の奥をのぞいてみると、担任の机の傍らに立つ早見さんを見つけたからだ。何を話しているのか遠くからだと判然としなかったが、担任が眉をハの字に下げて心配そうにしていたので、愉快な話題ではないことは明らかだった。

「まさか職員室だったとはね。どうして思いつかなかったんだろ」

「さあ……ね」

 すれ違いという先入観から、「早見さんはどこか人気のないところへ隠れてしまったに違いない」と無意識に決めつけていたのかもしれない。その自己分析が頭を過ぎったのは短いやりとりのすぐ後だった。

 ドアの開く音が意識を現実へと戻す。気まずそうに肩を窄める早見さんが上目遣いでこちらを見ていた。

「早見。大事な話があるから、ちょっと時間いい?」

 早見さんはぎゅっと目をつむると、すぐに開いてゆっくりと頷いた。

 話し合いの場は早見さんが提案して、自ら先導してくれた。着いた先はグラウンドと同じ敷地内にある屋外プールの脇に建つ、倉庫として利用されているコンクリートで造られた小さな建物の陰だった。天気が良い日にもかかわらず人の気配を微塵も感じさせないほどの喧噪とは無縁の場ではあったが、そこはかとない違和感があった。もっと別の場所はなかったのだろうか。ねえ早見さん、倉庫の風化の度合いが酷くてちょっと不気味なんですが。外壁……ぼろぼろですよ。

「ごめん!」

 ゆうみは迷いや不安を微塵も感じさせない声で口火を切り、頭を下げた。その声音はとても真っ直ぐでゆうみの誠意が伝わってくるものだったが、僕はその光景を見ながら小さな違和感を抱いてしまう。

 なぜ早見さんの機嫌が悪くなってしまったのか、ゆうみは知らない。知らないのであれば、まずは知ることが重要ではないのか。己の過ちを知って、反省して、謝罪する。しかし続くゆうみの言葉によって、僕の違和感がまったくの的外れで、自身の思慮の浅さを思い知らされる。

「ある生徒が『自分の気持ちを見つめ直せ』って説教してきてさ。何を偉そうにって思ったけど、確かに見えていなかった。心の奥で早見のことを軽く見ていた自分に気づいたの。全部に頷いてくれて、反抗も一切しないから、なんか思い上がっていたのかも。だから初めて早見に怒られて、どうしたらいいのかわからなくなって。ごめんね、早見」

 再びゆうみは頭を下げた。髪がさらっと顔を覆い、表情を隠すベールとなっている。数秒間の沈黙を置いた後、彼女は頭を上げると言葉を続けた。

「あたしはもっと早見と喋りたい。もっと遊びたい。いろんなバカしてさ、もっと楽しみたい。辛いことや悲しいことを一緒に共有したい。だから気にくわないことがあったら教えて欲しいの。だって仲直りしたいから」

 ゆうみは正面切って言い放つ。それは清々しいくらい勢いに満ちていて、彼女が少し格好よく見えた。

 気にくわないなんて……思ったことは、早見さんは掠れた声を出す。ゆうみさんは優しくて、昼休みには一緒にご飯を食べてくれて。

「……」

「……」

「……」「……」「……」「……」「…………」「…………」「………………」「………………」

「……私は、これまで親しく話す友達がいませんでした」

 早見さんは制服の襟元を強く握りしめながら、息苦しそうに言葉を搾り出す。

「でもそれが、当たり前の毎日で、特に不満も悲しみもありませんでした。それどころか、気をつかわずに済むので、平坦な日常を望んでいる自分もいました。だけどゆうみさんと出会って、自宅にまで招いてくれて、気がついたときには以前の当たり前には戻れなくなってしまって。私も、ゆうみさんと一緒だと楽しい気持ちになります。でも楽しい気持ちの裏には、ゆうみさんが突然……いなくなるのではないかという不安がいつもあって」

 僕はフードコートでのやり取りを思い出す。彼女はゆうみがいなくなることを極端に恐れていた。それは病的といっても過言ではないかもしれない。たぶん原因は彼女の以前の日常にあるのだろう。

 数日が経つと、みんな私と一緒に帰るのをやめちゃうんですけどね。

 僕とゆうみと早見さんの三人で下校しているときに、彼女が垣間見せた表情。あれは様々な感情が複雑に入り乱れたせいで表情として出せなかった結果ではないだろうか。人がカボチャに見えてしまうことで男女の違いに疎くなってしまったこともあるのだろうが、性別関係なく人が自分の元からいなくなってしまうことに悲しみを感じないはずがない。壁を作ってしまうのはカボチャの件とは別に、親しい人がいなくなってしまう悲しみを避ける理由もあるのかもしれない。

「一昨日の昼休み……ゆうみさんは教室から出て行きましたよね。いつもゆうみさんとご飯を食べていたので、一人だと……心細くなってしまって。ゆうみさんが明日から一緒にご飯を食べてくれないのではないのかと、思ってしまいました。わかってはいるんです。そんなことはないって、わかってはいるのですが、でも、どうしても不安になってしまって。そんな気持ちのまま放課後をむかえて。駐輪場でのゆうみさんの一言で……その不安が爆発してしまったんです」

 僕はその一言を思い出そうとしたが、まったく記憶に残っていなかった。それはゆうみも同様のようで、必死になって思考を巡らせている。

「『ちょっと待ちなさいよ』という一言です。覚えていないのも当然かと思います。私の我が儘なんです。でも……『先にいなくなったのはゆうみさんではありませんか』って醜くも思ってしまったんです」

 教室に一人取り残された早見さんは心の中でゆうみを非難したのだ。裏切られた、と。

「謝るのは……私の方なんです。私の、我が儘でゆうみさんを……嫌な気持ちにさせてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」

 早見さんは言い終わると同時に肩を震わせてしゃくりだした。そして堰き止めていたダムが崩壊するように、大声で泣き出す。その小さな身体を包み込むように、ゆうみは優しく抱きしめると早見さんの背中をポンポンとゆっくりと叩いた。しばらくあやすように手を動かした後、制服の背中をぎゅっと強く握って、ゆうみも嗚咽を漏らす。二人は共に涙を流した。

「早見って、人見知りなくせに、寂しがりやだよね」

「寂しがりや。たしかに、そうです。ごめんない、今になって、気づいてしまいました」

 しばらく泣き声が響いた後、どちらともなく涙はやみ、二人はくすぐったそうに身体を震わせ始める。僕は人と人との距離が縮まる瞬間を初めてみた。満面の笑顔で早見さんが僕の方を向いて一つ頷くと、すぐに顔を戻して口を開く。きっと素敵な言葉が空気を震わすのだろうと、僕は思った。

「私を殴ってください」

 私を殴ってください。私を殴ってください。私を殴ってください。私を殴ってください。私を……

 殴ってください? 

 聞き違いだろうか。否。確かに早見さんは口にした。あまりにも感動的過ぎて夢だと思ったのだろうか。現実だと実感したくて頬を殴ってもらいたいのだろうか。つねるだけでは、物足りないのだろうか!

「どういう、こと?」

 ゆうみも唖然としている。当たり前か。

「私、ずっとゆうみさんと田中さんの関係に憧れていたんです。二人はとても仲がよくて、羨ましいと思っていました」

 僕とゆうみは同時に、「ただの腐れ縁だから」と否定した。

「隠さなくても大丈夫ですよ。二人は殴り合った仲なんですよね? 田中さん、おっしゃってたじゃないですか。殴り合って解決することに男女は関係ないんだと。それはゆうみさんとの実体験なのではないですか?」

 あんたそんなこと言ったの? とゆうみは無言の非難を向けてきた。言ったような言ってないような。

「こいつ口だけだから」

「私は殴り合って仲良くなるのは男性同士だとばかり思っていたので、凄く驚きました。本の情報だけが全てだと妄信していたわけではないのですが、まだまだ修行不足ですね」

「その本っていったいどんな内容なのよ!」

 早見さんは興奮してテカテカしていた。きっと今は何を言っても通じないだろう。

「大きな勘違いをしてるって。あたし、こいつ好きじゃないから」

 そ、そんなバッサリと拒否しなくてもいいではないか。

「でも、田中さんの話になるとゆうみさん凄く生き生きとしていましたよ」「ちょっとバカ、してないから! まったくと言っていいほどしてないって!」「わかりました。していなかったのですね」「いや、その……そんな完全に否定するのもちょっと違うような気がしないでもないんだけど」

 早見さんは面伏せると首筋に手を当てて神妙な面持ちになる。そのとき、足首まで丈のある雑草がざわめくように擦れあい、彼女の腰まで伸びる黒髪が軽くなびいた。

「今から、私は突拍子もないことを口にします。だけど、ゆうみさんに知ってもらいたいことなんです」

 僕を一瞥すると早見さんはゆうみに向き直り口を開いた。小さい頃に父親に暗示をかけられて、人の顔がカボチャに見えるようになってしまったこと。その原因である父親との記憶。人見知りを解決すれば視界が元に戻るのではないかという推測。一人では限界があると思い僕に相談を持ちかけたこと。教室のときより掻い摘んだ内容だったが、一つ一つの要点を捉えた丁寧な説明だった。

 しかし幾らしっかりとした説明だったとはいえ、その内容が突拍子もないことなので、さすがのゆうみも戸惑いを隠せない顔をしていた。作り話だと一蹴したくなる内容なのに、嘘をつくとは考えられないほどの真剣さに満ちた早見さんの表情。教室での僕は興奮と驚きによって普段よりも思考が暴れてしまったが、ゆうみは戸惑いつつも視線は早見さんから離れなかった。

「びっくりしたぁ」

 たぶん人は驚いてしまうと単純な言葉しか口にできなくなるのだろう。

「早見の言うことって結構突拍子もないことが多かったからさ、ちょっとやそっとのことでは驚かない自信があったんだけど、自信撤回。びっくりしたぁ」

 ゆうみは何度も「びっくりしたぁ」を連呼する。まるでそれは「びっくりしたぁ」を口にすることで内なる「びっくりしたぁ」を放出しているかのようだった。

「よし! 殴り合いしよっか」

 僕はゆうみの短絡的思考にずっこけそうになる。

「えっ。殴ってくれるのですか?」

「うん。ちょっと色々とこんがらがってるから心の整理がしたい」

 ゆうみは両腕を広げて早見に殴るよう促した。早見さんは興奮してテカテカしている。笑顔で拳を固める彼女の姿はちょっと怖い。

 早見さんは人を殴ったことがないと一発でわかるほどの一発をゆうみの腹にくらわせた。案の定、痛がる素振りも見せずにゆうみは殴られた部分を軽く払うと拳を握った。

「よし。一発は一発だからね。早見が全力で殴ってくれたんだから、あたしも全力でいくよ」

「ちょっと待った! 本気で殴るの?」

「当たり前でしょ。相手の本気に手加減なんてしたら失礼じゃない」

「田中さん、私は望まれて殴られるんです。大丈夫ですよ」

 ここで止めることは確かにプラスにはならない。しかし早見さんが苦しそうに顔を歪める姿は見たくない。どうすればいい。いや、もう答えは決まっている。ここは黙って見守るしかないのだ。目を背けないで、しっかりと。

 早見さんのみぞおちに拳が入る。

 くの字に折れて早見さんはよろめき、口を〇にして空気を必死に吸い込んだ。僕は彼女が苦しむ姿を黙って見ているしかない。口内に血の味が広がる。手の甲で唇を拭ってみると真っ赤な血がついた。無意識に唇を噛んでいたのだ。

 必死に笑顔を浮かべる早見さんのみぞおちを、ゆうみが心配そうに撫でている。僕はその光景を眺めながら大きく息を吐いた。精神的な疲労が身体中に染み渡っていた。

「すぐに信じることは無理かもしれないけど、信じたいって思う。早見ってバカ正直で嘘つけないもんね」

 緊張の糸が途切れたのか早見さんは地面にへたり込んだ。ゆうみが、「制服汚れるって」と肩に手を添えて立たせると、「気が抜けてしまいました」と笑いながら早見さんは頭を下げる。

 そのとき、校内に予鈴が鳴り響いた。すぐに教室に戻らなければならないがこの距離では、まあ、無理だろう。二人も同じことを思ったのか急ぐ気配がなかった。僕たちはゆっくりと歩き出す。

「ちょっと青春しちゃったんじゃない?」

 照れくさそうに言葉を発したゆうみは、本当に恥ずかしがっているようで僕と早見さんの二歩ほど先を歩いている。予鈴を耳にしたことで興奮していた気持ちにも多少の落ち着きが戻ったのだろう。

「ゆうみさんも動物園絶対に来てくださいね」

 早見さんは二歩ほど先にある背中に声をかけた。陸上がなぁ、と返答が返ってくるも何となく背中が「絶対行くに決まってるわよ」と語っているように見えたのでどこか可笑しかった。

 田中さん、と囁く声がするので隣の早見さんに首を捻ると、彼女は秘密の話を打ち明けるように口元に片手を当てながら顔を近づけた。

「本当にゆうみさんとは殴り合っていないのですか?」

 人と人とが仲良くなるには殴り合いの儀式が必要不可欠だと思いこんでいるのだろうか。早見さんの脳内では、学ランとモヒカンと肩パット、そして釘バットが跋扈するバンカラ世界が広がっているのかもしれない。

「はっきり言うけど殴り合いではゼロからイチになることは殆どないよ。たしかに殴り合った後に仲直りできればお互いの距離は以前より縮まるとは思うけど、それが上手くいくのはある程度お互いを認め合った間柄の場合に限るだろうし」

「では田中さんとゆうみさんのような関係性を目指すにはどうすればよろしいのでしょうか?」

「やっぱり『生まれた環境』なんかは少なからず影響があると思うよ。小さい頃の……」

 唐突に言葉がつかえてしまう。まったくだ。小さい頃の出来事はよくも悪くも影響力が大きい。僕は一つ咳払いをする。

「僕たちの関係はそんなに憧れを受けるほど良質なものじゃないよ」

「そんなことありません!」

 彼女は声のボリュームを落としながらも強い語調で僕の言葉を一蹴する。どうしたものか。

「素敵ですよ。田中さんが幾ら否定しようとも、私は断言します。羨ましいです」

「はあ」

「自分のことを想ってくれる人がいるって、素敵なことだと思うんです。田中さんの話になるとゆうみさんって凄く楽しそうな顔になるんですよ。カボチャの顔は本当の顔ではないですが、溢れ出る感情を間違えるほど私は盲目ではないと自負しています。そんなゆうみさんの顔を見るのが好きなんです」

 早見さんに悪気はないのだろうが、ゆうみが訊いたら絶対に発狂するだろう。発狂して、僕を殴るに違いない。

「私がカボチャの相談相手に田中さんを選んだ理由はご存じですか?」

 予期せぬ質問だったので僕は何も答えられずに無言で首を振る。

「ゆうみさんからこんなにも想われている方だったら、きっと素晴らしい人なんだと思ったからです。恥ずかしいことなのですが、ゆうみさんに相談する勇気がありませんでした。でも一人だとどうすればいいのかわからなくて。田中さんに相談して良かったです。お力になってくださって、本当にありがとうございます」

「ちょっとさっきから何コソコソ話してんのよ」

 唇を尖らせて不満そうな表情をしながらゆうみが振り返る。僕と早見さんは顔を見合わせると同時に、「なんでもないですよ」とはぐらかした。目を真ん丸にしたゆうみを見て、早見さんがヒュッと隙間風のような笑い声を漏らす。


 世間からしたら大事件とは呼ばれることのない、たぶん多くの高校生が経験したことのあるすれ違いは、ひとまず解決したと言ってもいいだろう。ゆうみと早見さんは遠くから見ていても仲が良いのがわかるほど、以前より距離が縮まった気がする。しかしまだ早見さんの視界はカボチャだらけで、僕は彼女の考えである「他者との間にある壁をなくすることができたら視界が元通りになる」に一抹の不安を抱くようになっていた。早見さんが感じている「壁」は完全になくなってはいないだろうし、たぶん消え去ることもないだろう。人との関わり合いに壁というのは必ず生じるものだと思うからだ。でも早見さんの内面が変化しているのは明らかで、「他者との壁」=「視界のカボチャ化」が正しければ視界が元通りにならないまでも多少の変化はあるはずなのだ。しかし実際はまったく変わらない。他に原因があるというのだろうか。

 でもだからといって他に解決策があるわけでもなく、ついに約束の日の当日へと時は流れる。

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