おにいちゃん2
昨日のバナナ事件が頭から離れず、午前中の授業は殆ど上の空だった。あの女性(年齢は僕と同じか少し上のような気がする)は何者なのか。どこで会ったのか。答えが見えそうで見えないもどかしさに、何度か教室の窓にバナナの幻影を描いてしまう。そのたびにメガネ屋での楽しかったやりとりを思い浮かべてはバナナの亡霊を打ち消した。
ブルーライトカットメガネは持ち金が厳しくて来月のお小遣いまで持ち越しとなったが、すでに購入する商品は決まっていた。来月が待ち遠しくなる。
午前中の授業があっという間に過ぎ去り、昼休みが始まる。
僕は早見さんとゆうみを交互に見やった。二人とも机から動かずに神妙な面持ちをしている。周りの生徒は二人の葛藤に気づくこともなく動き回り、それぞれのグループへ収束していく。バナナ事件もメガネのことも、二人の間に漂う緊張感の前には霞んでしまうほどだった。
段々と僕の視界には二人だけしか映らなくなり、ついには音という音までも聞こえなくなる。引き延ばされる時間。
最初に立ち上がったのは、早見さんだった。ゆうみがハッとした顔で彼女を見上げ、奥歯を噛むのがわかった。
早見さんもゆうみに首を向けるが、空中で交わりあった視線はすぐに解ける。早見さんが歩き出した先は、教室のドアだった。
僕はゆうみが悲しむ姿をこれ以上見ていられない。早見さんに声をかけて呼び止めた。ドアの前で立ち止まる彼女の背中は「ごめんなさい」と嘆いているように見えて、とても小さく感じた。
そして振り返ることなく、彼女は教室からいなくなった。
僕はゆうみの机に駆け寄ると彼女の両肩に手を置き呼びかけた。
「このままでいいの?」
「バカッ。そんなわけないでしょ。だけど……」
「だけど?」
「また拒絶されたらって思うと」
おーい痴話喧嘩かぁ。何泣いてんの? 何が起こった? えっ、誰か俺に教えてよ。
ヒソヒソ。クスクス。ヒソヒソ。クスクス。クスクス。
僕はゆうみの腕を無理矢理引っ張って彼女を立たせると、教室から出て人気のない階段の踊り場まで一気に走った。踊り場まで来ると僕は握った腕を放して、力なく項垂れる幼馴染みに打ち明けた。
「早見さんはゆうみを嫌ってなんかないよ。それだけは絶対に嘘じゃない」
「あんたには、そんなことまで話してくれるんだ」
「何を……」
「秘密の相談事もされてるんだよね。あたしの方が一緒にいたはずなのに」
赤く滲んだ瞳を僕に向けて、彼女は小さく笑った。
「あたしってそんなに頼りないかな……ううん、わかってる。いつもは強気なくせに、ほらこのざまよ。何も変わってない」
「そんなことは……」
「だったらッ!」
だったら?
ゆうみはその先に何を続けようとしたのだろう。しかし彼女は口を閉じた。
僕が相談された理由は未だにどうしてなのか判然としないが、選ばれた相手がゆうみではないのは彼女が頼りないからといった理由ではないことは明らかである。早見さんはゆうみに頼りたいのだ。しかし秘密をゆうみに知られるのを極端に恐れている。目の前からいなくなってしまうのではないかと、怯えている。
「言い忘れてたけど、ゆうみがこの前オススメしてくれた『ロミオとジュリエット』読み終わったよ」
急に場違いな話をしたので、当然ゆうみは訝しげに僕を見ている。
「言い回しが難しいからあんまり内容を覚えていないんだけど、一つ印象的な台詞があって。『バラの名前が変わろうとも、香りに違いはない』だったかな。なんて素敵な表現なんだろうって思ったんだ」
「……それがどうしたのよ」
「物事の本質を捉えていれば、どんなに複雑な言葉を重ねても惑わされることはないんだと思う。まあ僕は惑わされっぱなしだけどね」
「最後の自虐はいらないから」
「何が一番本質を捉えやすいかというと、僕は結局自分自身だと思うんだ。さすがに自分のことを全部知るのは無理だと思うけど、他人のことを知るのはもっと難しいはずだよ。自分には自分が一番近いんだからね」
「何が言いたいわけ」
「ゆうみは早見さんが好き?」
「そんなの……当たり前じゃない」
「だったらそれを信じればいい。早見さんのことで色々と悩んだら、その中心にある『好き』っていう気持ちを思い出すんだよ」
「好きなら……拒絶されても突き進めってわけ?」
「そう」
「簡単に言ってくれるわね。そんな偉そうなこと言っておいて、あんたはどうなのよ」
「どうって?」
「自分と向き合ってるのかってこと」
「僕は……」ここで口を濁らせてしまうのは駄目だとわかっていても、僕はすぐには口を開けなかった。「どうかな」
「自分には自分が一番近いかもしれないよ。だけど近ければいいってものでもないと思う。遠くから見えるものもあるし。近いからこそ見て見ぬふりしてしまうことだってあるしさ」
「確かにゆうみの言うとおりだ」
「言うとおりだ、じゃないわよ。簡単に言い負かされて馬鹿じゃないの」
「ゆうみ」
「今度はどんな薄っぺらい言葉を聞かせてくれるの?」
「僕は言った傍から物事の本質を見失っていたのかもしれない」
「真面目な顔で言ってるところ悪いけど、ここ笑った方がいいの?」
「僕は二人に仲直りをしてもらいたいんだ」
ふぅー、と小さく息を吐く音がした。
「ほんとあんたの言い方ってまどろっこしいわね」ゆうみは眉間に皺を寄せて睨みつけてきたが、その瞳には一切の濁りがなかった。案の定すぐに彼女は噴き出した。「てか、さっきの考えってなんかストーカーみたいでキモいから。それってどうかなー」
「僕の中では、『そうだよね! 自分の気持ちから目を背けてた。あたし頑張る』みたいな展開になる予定だったんだけど」
「なるかそんな展開。てか知識人ぶってんじゃないわよ。そういう男ってモテないって」
「な、なんて辛辣な言葉を」
「だけど一応お礼を言っとく。心配してくれてありがと」
ゆうみは僕の胸を小突くと、なぜか再び噴き出した。
「どーれ。さっさと早見を見つけて仲直りしよっと」
「僕も探すよ」
「当たり前でしょ」
すぐに連絡をとれるようお互いの携帯の電源をオンにして、手分けして探すことにした。
「あ、そうそう。あんたが引用した台詞……あたしも好き」
じゃあね、と言い残すとゆうみは脱兎の如く走り出した。僕も勢い込んで廊下をけり出す。早見さん、どこにいるんだ。
校舎内を駆け回るもなかなか早見さんの姿が見当たらない。校庭やグラウンドにも目を向けたが結果は同じで、携帯電話も沈黙したままだ。時間は無情にも過ぎていく。
早見さんが行きそうな場所といったら図書室が真っ先に思い当たるが、そこには見知らぬ生徒がいるだけだった。化学実験室や美術室、その他特別教室を見て回るも同様。体育の授業以外で走ることはなく身体は運動不足のはずだったが、不安と焦燥で疲れは微塵も感じなかった。しかし汗は止め処なく流れ、目の中に入り、ついに立ち止まってしまう。視聴覚室へ向かう廊下の途中で、僕は制服の袖で目を擦る。視界は段々と霞み始めていた。駄目なのか……諦めかけたそのとき、連なる窓から見える光景に僕は一筋の希望を見た。
中庭に佇むハナミズキの下で金城ライヒは瞼を閉じていた。両腕を頭の後ろに持って行き、長い脚を組みながら芝生の上で横になっている。いつもの黄金比だ。僕は携帯電話を取り出してゆうみを呼び出した。彼なら、現状を打破してくれるに違いない。
ほどなくしてゆうみがやってくると、ライヒに気づいて苦笑した。
「よくもまあ、あんな格好で寝られるわね」
「ライヒにとっては普通のことなんだよ。知ってた? 家族はみんな芸術に携わってるらしいよ」
「そんな環境でどうやったらおにいちゃんCDに行き着くんだか」
「『芸術は爆発だ』って至言があるんだけど、僕は初めておにいちゃんCDを目にしたとき、制作者の爆発を垣間見たような気がしたよ。たぶんライヒはその爆発に魅了されたんじゃないのかな」
「そんな崇高なもんかな。あたしは絶対ムリ」
「ライヒはおにいちゃんCDのことを気にしていると思うから、そのことに触れないようにね」
シャッターを潜り中庭に入ると唐突に場の空気が張り詰めたような、緊張感漂う視線にさらされた。周りを取り囲む校舎を見上げると、窓から顔を出してこちらを見下ろす姿が多くある。ライヒに危害を加える賊の再来だと警戒しているのだろう。おまえたちは親衛隊か。
そんな視線に怯えていては何も始まらない。僕はライヒに歩み寄ると、彼の肩に手を置き揺すった。しかし彼は狸寝入りでもしているのか一向に目を開ける気配がない。どうしたものか。
「まったく起きない」「てか、どうして起こそうと思ったわけ?」「早見さんを探す力になってくれると思ったんだよ」「えっ。そんな理由? 何それ」「ライヒなら僕たちでは想像できない方法で探してくれそうだったから」「ちょっと神格化し過ぎじゃない? 無理に決まってるでしょ」「やってみなきゃわからないじゃないか。まずは起こさないと」「もう時間ないのに……。おにいちゃんCDのことがあったから、あたしたちと関わりたくないのよ」
おにいちゃんCDの話を口にしたゆうみに抗議しようとしたとき、僕はライヒの瞼が小刻みに動くのを見逃さなかった。ゆうみの言葉に反応を示したのだ。
眠りの姫を起こすには愛のキスが必要だったが、メガネの国の王子を起こすにはおにいちゃんCDが効果的なのかもしれない。
「ゆうみ、僕の頼み事を聞いてくれ」
何よ、とゆうみは腕を組みながら答える。
「一度でいい。たった一度でいいから、ライヒの耳元で『おにいちゃん』と囁いて欲しい」
組んでいた腕が解かれ、握られた拳に殺意がこめられる。
「殴るぞ」
「殴ってもいい。その代わり、『おにいちゃん』そう言ってくれ」
「絶対にイヤよ! なんでそんなこと言わなきゃならないのよ」「頼む。君しかいないんだ。僕が耳元で囁いてもキモいだけなんだ」「絶対に無理!」「ライヒは一人っ子なんだよ。妹も姉もいないんだ。一人っ子にとって『おにいちゃん』の一言は爆発なんだ」「わけわかんないから!」
時間がない。僕は低頭した。
「ちょっと……もう、それ反則。頭を上げてよ。いい? これで早見が見つからなかったら怒るからね。このバカ!」
ゆうみは頬を赤らめると腰を屈めて、ライヒの耳元で囁いた。
「おにぃーちゃんッ」
カッとライヒの目が開く。ゆうみが驚いて飛び退くと、彼はロボットのように上体を起こした。
「幼子の助けを呼ぶ声が、聞こえる」
「もうやだ。何この展開……」
「ライヒ、お願いがあるんだ。早見さんを探しているんだけど、どうしても居場所がわからなくて。力を貸して欲しい」
ライヒは辺りに視線を巡らせて、「幼子はどこに?」と呟く。僕がゆうみを指さすとあからさまに肩を落として落胆した。ゆうみの怒気がひしひしと伝わってきたので、どうどうと御した。
「お願いだ」
僕は廊下で見た希望の光、すなわちライヒなら早見さんへと導いてくれるだろうという直感を信じていた。彼は僕とゆうみを交互に見やると、「たしか君たちには貸しがあったな」とくの字に折った指を顎に当てる。
「貸しって何かあったっけ?」
「俺の秘密を吹聴せずに黙ってくれていることだ」
元はといえば微睡んでいるライヒの近くで僕とゆうみが彷徨いていたのが原因なのだが、ここは素直に甘んじよう。
「恐縮です」
「同じクラスに早見の名字を持つ女子がいたが、その子で間違いないんだな?」
僕が頷くのを確認すると、ライヒはおもむろに片手を上げて、「我が元へ来たれ!」声高らかに言い放った。
柔らかい風が頬を掠める。
幻でも見ているのだろうか。一瞬のうちに中庭は十数名の生徒で埋め尽くされていた。ゆうみも忽然と沸いて出てきた生徒にたじろぎ、僕の制服の袖をつまんだ。
生徒の比率は七対三で女子が多い。誰もがライヒに向かって頭を垂れている。一人の女子生徒が顔を上げた。
「只今馳せ参じました」
「あっ! チカ先輩じゃないですか」
ゆうみが驚嘆の声を上げる。
「何してるんですか?」
ゆうみが怠業したことに激昂して厳罰を科したチカ先輩のことだとすぐにわかった。彼女はバツが悪そうに顔をしかめると面伏せて、「わ、私は影」と声を震わせながら先輩という立場を否定した。
「でも、チカ先輩ですよね?」「違う。影だ」「いやいやチカ先輩ですよ」「この無礼者が!」
僕はゆうみの肩に手を置いた。
「察してあげなよ」
校舎の窓はどれもきっちりと閉じられている。どうすれば一瞬のうちにあそこから中庭へと降り立つことができるのか、多少の興味があったが今は置いておこう。
早見さんの写真を持っていないかと、ライヒが訊いてきたので僕は首を振る。ゆうみはスマホを取り出すとボタンを操作して、画面が見えるようにライヒへ突きつけた。彼はスマホを受け取るとそれを天にかざす。
ゆうみの部屋で巨大な人形に抱きつく早見さんの満足そうな姿が写っている。有名なあのアニメ映画に出てくるモンスターであった。初めて見る無邪気な彼女の表情に、僕の心臓が内側からノックしてきた。ドックンドックン。
「それ、後でちょうだい」
「イヤよ、この変態」
柔らかい風が頬を掠めて、僕の髪をふわっと浮かせた。ついでにゆうみのスカートもはらんでぺらっとまくれた。
気づけば中庭には頬を赤く腫らした僕と目を吊り上げるゆうみ、ハナミズキを愛でるライヒの三人しかいなかった。親衛隊というか忍者というか、頼もしい人たちだ。
五分も経たないうちに一人の男子生徒が、「面目躍如!」と息を切らしながら戻ってきた。
「居場所が確認できました」
僕は拳を握って天へと突き上げた。よし!
「君たちにこれを渡しておこう。もし困ったことがあったら連絡を」
ライヒはリュックの中に手を入れると何かを取り出して、僕たちに差し出してきた。僕は目を細めながら顔を近づける。ポチ袋だった。中には四つ折りになった紙が入っていて、電話番号とメールアドレスが綴られていた。僕は頭を下げる。
「滅相もございません。有り難き幸せ」
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