ジャスコに行けば大抵の人と会える
「今日も早見と帰るんだよね」
翌日の放課後。鞄の中に教科書を詰めていると、ゆうみがやってきて疲れを帯びた声音で呟いた。僕は複雑な思いをしながら控えめに頷く。
「さっきチカ先輩に怒られちゃった。あーあ、せめて仮病でもすれば良かった」
ゆうみは陸上部の中で「長距離」に所属していて、その先輩というのは長距離をまとめるリーダーなのだと彼女は補足した。容姿端麗で学力もクラス上位に位置しており、男子顔負けの男気を持って長距離グループを率いているらしい。
「すっぽかしたあたしだって悪いけどさ、『堂々と怠業するとは長距離に所属する者としての自覚が足りん。厳罰に処する。グラウンド五十周』って酷くない? 鬼よ鬼。地獄の鬼」
ただでさえ陸上部は釜の蓋が開くことがないのに、その上厳罰があるとはなんて恐ろしいのだろう。
「そのチカ先輩はきっと完璧超人なんだね」
「そうね。鉄の掟に縛られているのよ」
ゆうみは早見さんがいる方へと一瞥すると、「じゃあね」とだけ言って教室から出て行った。僕は彼女の姿が完全に見えなくなるのを確認すると、机に座って窓の外を眺めていた早見さんの脇へ移動する。
「二人の間に何が起こったのかはわからないけど、きちんとゆうみに説明するべきだと思うよ」
昼休みの光景を思い出す。教室を出て行く早見さんを、ゆうみは弁当を持ちながら静かに見つめていた。仲の良い他の女子と弁当を食べている間、彼女は頻繁に視線を教室の引き戸へと向けていた。
「ゆうみさんの」
彼女は言葉を途中で句切り、一泊置いた。
「背中が窓に映っていました。とても悲しそうで、見ていられませんでした」
雨曇りのため外は灰色に染まっている。蛍光灯の光を反射した窓は、教室の引き戸をうっすらと映していた。
「私が我が儘なだけで、ゆうみさんは悪くないんです。今は後悔しています」
「どうしてゆうみに怒ってしまったのか、原因がわかっているんだね?」
「はい。でも説明したら、きっと呆れられます。それくらい馬鹿げた理由なんです」
「それでも説明するべきだよ。早見さんはゆうみのことが好き?」
彼女は周囲に視線を巡らせると、「……はい」と声のトーンを落としながら頷いた。
「ゆうみのことが好きだったら、たとえ自分が呆れられることになったとしても、きちんと伝えなよ。もしそれで今度はゆうみが早見さんをさけるようになったら僕が力になる。大丈夫、簡単だよ。一発ぶん殴れば済むことだから」
「い、一発ぶん殴る……ですか?」
「ゆうみも当然殴ってくるだろうね。で、また一発ぶん殴る。当然相手も殴り返してくる」
「それだと一発ぶん殴って済む、ということではないと思うのですが」
「言い忘れてたけど舞台は河原。最後は大の字になって空を見上げて解決だ」
「それは男の人と女の人の間でも成り立つものなのですか? 本によると男性同士特有のスキンシップらしいのですが」
「男女なんて関係ないよ。互いに信じ合ってさえいれば、大抵は殴り合いで解決さッ!」
「なんて野蛮な考えなの」「私はガンジーを信じている」「暴力反対」「俺は野蛮な男ってそそられるがな」
ひそひそ声が周囲から聞こえてくる。早見さんの心に響かせるために声を少しだけ大きくしたことが失敗だったようだ。
気を利かせてくれたのか早見さんは立ち上がると、「お腹が空いてしまいました。もしよろしければ軽くご飯でもいかがですか?」
早見さん、最高です。
健全な高校生が暇をつぶしたりご飯を食べたりする場所についてアンケートをとった場合、多くの健全な高校生はこう記入するだろう。
ジャス○! JUSC○!
三階建ての大型ショッピングモールには様々なテナントが連なっていて、客層は老若男女と幅広い。無料送迎バスが一日に何台か走っているので(当然僕たちも学校の最寄り駅から二十分かけて送迎されてきた)、平日の夕方でも健全な生徒がちらほらと見受けられる。親子連れや老夫婦も多い。
書店やCDショップなど見るべき店は多々あるけれど、まずは三階にあるフードコートで軽食をとることにした。何店舗か並んでいるので僕たちはそれぞれ好きな物を注文して、番号札とドリンクバーの飲み物を持ちながら空いているテーブルを探して座る。すぐ脇に視線を移すとそこは吹き抜けになっていて、一階のフロアまで見通すことができるのでちょっとした壮観さを感じた。
「早見さん、なんか顔が赤いよ」
店内に足を踏み入れてからというもの、早見さんは落ち着きなく周りをキョロキョロしていた。
「そ、そんなに変ですか? どうしましょう……」
「もしかして風邪気味とか?」
「いえ、そうではないのですが……笑わないでくださいね」
「はい。前向きに検討します」
早見さんはじっと僕を見つめながら口を……ひら……開かない。お口にチャックでもされているかのようだ。恥ずかしいのだろう、頬の赤みが増している。何をそんなに逡巡しているのか考えていると、彼女は眉をハの字にしながら口を……ひら……開いた。
「し、しゃらないひょと……」
「ぷっ」
「笑いましたねッ!」
早見さんは非難の目をしながら上体を乗り出してくる。
「ちょっと待った! 今のは不可抗力だ」
眉をハの字にしながら赤ら顔の早見さんは下唇を噛んで忸怩たる思いに耐えている。その姿に僕の胸はズッキーニした。可愛すぎる。
「……知らない人、がたくさんいると緊張してしまうんです」
「人見知りなんだね」
人見知り? カボチャ見知り? 感づいてはいたが、人見知りはやはり治っていないようだ。
「それに学校の帰りに寄る場所といったら、本屋くらいですし。こういう……賑やかな感じは久しぶりなんです」
「あの本屋は静寂に満ち満ちているからね」
店主でさえ爆睡している始末だし。
「田中さんは読書は好きですか?」
「好きと断言できるほど読んでいるわけではないけど、まあ人並みくらいかな」
僕はそう前置きすると、最近読んだ作家の著書を何冊か上げた。早見さんは目を輝かせながら頷いている。本当に「本」というのが好きだというのが伝わってきて、僕もつられるように話す声に力がこもった。
「本の素晴らしさは情報量の多さだと思うんです。特に今の私にとって小説は欠かせないものです」
「欠かせないとはどうして?」
「人物描写は人の顔や表情についての情報を私に与えてくれる貴重なものですから」
たしかに自分の顔には魔法がかからないからといって、他人の顔がカボチャ化してしまう早見さんには活字がもっとも適当であることは想像がつく。幼い頃の彼女は現実と小説の違いについてどんな考えをして、それをどう受け止めていたのだろう。
「この前教室で、カボチャの視界で不自由な目にあったりしなかったからそれを日常として、これまで生活してきたって話してたよね。だけど人物描写を『貴重』と意識しているってことは、少なからず自分の視界に違和感を抱いてはいたってこと?」
「確かにそう指摘されますと不自然な点ではありますね。どうしてでしょう、全く気にしておりませんでした。この視界に違和感を抱いておきながら何も行動に移すことをせずに、日常の一部として生活してきた……ということなんですよね。自分のことなのに変ですね。私は本当はずっとカボチャの視界化を解きたいと思っていたんでしょうか?」
「そこまではちょっとわからないかな」
本当に不自由ではなかったのか、他人との感覚のズレに悩んだりはしなかったのか。それらの疑問が喉元までせり上がってきたが、なんだかこれ以上追求すると過去の早見さんを否定しているようで言い出せなかった。
「私も私のことがわからなくなってしまいました。だけど断言できることは私は小説が大好きです。そして今はカボチャの視界を元に戻したいです」
幼稚園児と思しき子供が甲高い声を上げながら僕たちの脇を駆け抜けていく。子供の母親が申し訳なさそうに頭を下げながら後を追い掛けていった。
会話が途切れたところで早見さんの番号札を読み上げる声が響く。彼女が席を立ち料理を取りに行っている間に僕の方も声がかかり、あっという間にテーブルの天板には二つの料理が対峙するように置かれた。僕がナポリタンで早見さんはビビンバを注文していた。
しばらくの間ビビンバを幸せそうに堪能すると、早見さんは僕に視線を向けて思い出したように口にした。
「昨日の『疑問』とは何だったのでしょうか?」
「今更言うのも遅いんだけど、もしかしたら失礼な質問になるかもしれないけど大丈夫?」
「大丈夫です」
「小さい頃、早見さんの好物はカボチャだったんだよね。それって今もなの?」
早見さんは拍子抜けしたように目をぱちくりさせながら小首を傾げた。
「はい、今でも好きですよ。どうしてそれが失礼に値すると思っているのですか?」
「人の顔がカボチャに見えるってことは……その……僕のことを見て、『あ、この人美味しそう』とか思わないのかなって」
「田中さんが美味しそう……ですか?」
僕は少し身構えていた。ここで「そんなの当たり前じゃないですか。田中さんを食べたくてしょうがないですよ。だから一緒にいるんじゃありませんか。この非常食の分際がッ! ヒャッハー」と態度を豹変しないか一抹の不安があったからだ。
早見さんは突然電池が切れたかのようにガクッと俯いた。前髪に隠されて表情は読み取れなかったが、不穏な雰囲気にただならぬ気配を感じずにはいられなかった。
僕が息を呑むと同時に、彼女が顔を上げる。
「実は我慢していたんです。空腹を満たさないと……田中さんをいただいてしまいそうで」
なん……だと? 僕は震え、そして気づいてしまった。
早見さんがドリンクバーで選んだ飲み物がざくろジュースであることに。彼女はざくろジュースで内なる衝動を抑え込んでいたのだ!
「すみませんッ! 本当にすみません。嘘なんです。やっぱり……慣れないことはしないほうがいいですね」
早見さんは両手を突き出して頭を振った。
「嘘ということはお、お見通しでしたよ」
僕は呼吸を整えながら、肩を窄める早見さんを見やった。嘘(正しくは冗談)をつくとは思ってもいなかったので、少し意外だった。
「そんな目で……見ないでください」
「ごめん、ちょっと意外だったから」
引力に引き寄せられるかのように、段々と早見さんの頭が下がっていく。僕がビビンバをサッと端にどかすと、彼女は天板に顔を埋めてしばらくの間、静止した。今度こそ電池が切れてしまったのだろう。
充電中。
彼女が顔を上げると、まず僕の視線は赤く染まった額へと向けられた。だいぶ押しつけていたようだ。
「母から人の顔はカボチャじゃない、治した方が良いと言われてから色々と考えてみたんです」
唐突に、しかも視線をビビンバに向けているものだから、滔々と話し始めたことに僕は虚をつかれてしまい、「えっ」と頓狂な声を出してしまう。
「私の視界がこうなってしまったのは元々は人見知りが原因だということは、以前教室でお話しましたよね。カボチャはその人見知りを隠すための結果なのだとしたら、私の人見知りはまだ治っていないと思うんです」
一時しのぎという意味では悪い言葉になるが「臭い物に蓋をする」が浮かんだ。
「私の日常を少し振り返ってみたのですが、えっと、その……なんだか他の人に壁をつくっていたのかな、と思い当たる部分があって。それが元々の人見知りからくるものなのか、カボチャに見えるという症状からくるものなのか判断できませんが、とにかく『壁』をなくすることができたら、多少の変化があるのではないかと……思うのですが……どうでしょう」
早見さんは僕が思っていた以上に深く考えていて、そして実行していたのだ。よくよく考えてみると、他人に壁を作ってしまう人が簡単に下校を共にするなんて都合がよすぎるし、動物園だって同じだ。カボチャの話を明かしたことも全ては現状を打破するための決意の表れなのだ。
「そこまで考えているなんて早見さん凄いよ。大丈夫、きっといい方へ変化するよ」
「恐縮です……。それで先ほどの疑問に戻りますが、人の顔が美味しそうに見えたことなど一度もありません。カボチャといっても完全な別物と切り離しているので」
「それは良かった」
「あの……一つ『ギャグ』というのを思いついたのですが、聞いていただけますか?」
僕は期待と不安を抱きながら頷いた。
「肉食系女子という言葉がありますよね」
「うん、あるね」
「もし私が人の顔を見て美味しそうと感じた場合、周りから見たらきっと肉食系だと思われるかもしれません」
「まあ、そうかもしれないね」
女子が男子を見つめながら、「美味しそうー」と呟いていたら、確かに、「うわぁ、肉食系女子だ」と思ってしまうかもしれない。まあ、ちょっと何かが変だけどそこは深く考えない。
「だけどカボチャは野菜なんです。つまり草食系なんです。草食系なはずなのに、肉食系」
「う、うん」
「そ、草食系なのに……肉食……けい」
これはまさかの自虐ネタなのか! たぶん早見さんは慣れない雰囲気に動揺しているのだろう。
「うわぁ凄いよ。凄い面白いなぁ。草食系なのに肉食系なのかー」
「つまらないのであれば正直に言ってください」
早見さんは少しだけ頬を膨らませると、そっぽを向いた。
沈黙したままお互いの箸だけが動くこと数分間。僕はナポリタンから視線を上げて正面の早見さんへと動かすと、丁度彼女もこちらを見ていた。僕は気恥ずかしさに再び視線を下げてしまう。
ご飯を食べ終わりドリンクバーをおかわりしたところで早見さんがぽつりと呟く。
「ゆうみさんも一緒だったら、と考えてしまいました」
「ゆうみがいたら、しばらくはフードコートから出られないだろうね。尋常じゃない食欲だよ。陸上やってるのに食事に気を配らないなんて考えられないよね」
「私たちの高校って陸上部はかなり強い方だと思うんです。練習量は多いですし休みも全然ありませんし」
「たぶん社会に出ても過労死することはないだろうね」
「昨日はゆうみさんと一緒に帰るのも初めてだったんです。それなのに私は……」
「さっきの『壁』についてだけど、ゆうみと仲直りするのが壁をなくする近道じゃないかな」
そして僕は薄々思っていたことを続けて口にする。
「それでもし可能であれば、カボチャの秘密をゆうみに打ち明けた方がいいと思う」
ゆうみだったら早見さんの言葉を信じてくれるだろう。人と距離を縮めるには、自分のことを相手に知ってもらわなければならない。正直言って悔しいのだが、その相手は僕よりもゆうみの方が適任だと思う。早見さんがゆうみについて話すたびにそれは確信になっていた。
「打ち明けたことで、よそよそしくなって、憐れんだ目をしないでしょうか。気をつかって言葉を、選ぶようにならないでしょうか。私の前からいなくなったり、しないでしょうか?」
早見さんは僕を向いて言葉を発していたが、彼女の視界に僕が映っていないことは明らかだった。
「壁を壊したいのに、胸が苦しくなるんです。息苦しくて夜中に起きてしまうんです。ゆうみさんや田中さんとの会話を思い出して、どうしてか遠い過去のように感じてしまって……。申し訳ありません。もっと強くならないとって思うのですが……難しいんですね」
彼女の頬に涙の線が引かれる。僕が瞬きした瞬間に音もなく滴ったそれは、初めて見せる彼女の本音のように思えた。
「僕がここにいるのは早見さんを憐れんでいるからだと思う? 違うよ。昨日、古本屋で僕が怒ったこと覚えてる? 憐れみや同情で接していたら、声を荒げて怒ることは絶対にないよ」
袖で目を擦りながら早見さんは鼻を啜った。啜って喉をならした。それを何度も繰り返して心を落ち着かせると、充血していながらも力強い目で僕を見る。そしてゆっくりと頬を持ち上げて、自然な笑顔を見せてくれた。それを「ありがとうございます」と読み取ってしまった僕はおこがましいだろうか。喉元から込み上げてくる嬉しさに、鼻の奥がツンとした。
「少しだけスッキリとしました」
早見さんは鼻の穴が大きくなるくらい息を吸い込んで、細長くそれを吐きだした。僕は鼻の穴を広げた早見さんも素敵ですよ、と口に出しそうになり、寸前のところで呑み込んだ。あぶないあぶない。
「ご飯も食べたことだし、どこから見ていこうか?」
僕は脳内で店内の見取り図を広げながらワクワクする。ついに早見さんと二人きりでショッピングを楽しめるのだ。彼女はほわわんとした笑顔で、「田中さんが選んでくれる場所でしたら、どこでも興味あります」と平然と言うので、僕は恥ずかしさに言葉が詰まった。
そのせいで空いた珍妙な間を、お店選びに逡巡しているものと彼女は捉えているようで、僕を見つめながらニコニコと待っている。さあどうしたものかッ! ここで本屋がいいと提案したら、彼女は僕が気を遣ったと思うだろうか。わからない。だったら無難に服屋が妥当か。結局はどの店も最終的には見て回ることになるのだが、一番初めに選んだ場所が僕にとって一番興味のある場所だと彼女が捉える可能性は大きい。だったら服屋は鬼門だ。さっぱり興味がない。僕はジャスコに入っている店名を覚えている限り思い浮かべていく。
見つけた。
「メガネ屋に行きたいんだけどいいかな?」
僕は全国に展開しているチェーン店を挙げた。全国に店舗展開しているといってもこの周辺ではジャスコにしかないので、ここで一番初めに選ぶお店としては妥当なのではないだろうか。何よりも実際に買いたい物があった。
「いいですけど、田中さんってメガネをかけていませんよね? もしかしてコンタクトなんですか?」
早見さんは意外だという風に首を傾げている。
「いや。僕が欲しいのはパソコン用のメガネなんだ」
パソコンやテレビなどが発する、人体に悪影響を及ぼす「ブルーライト」と呼ばれる光について早見さんに説明する。彼女はブルーライトの存在を知らなかったようで目を爛々としながら聞いていた。
「田中さんが欲しいメガネがその光をある程度軽減してくれるってことですね」
「前々から気にはなってたんだけど機会がなくて。まだ買うかはわかんないけど、一緒に見てくれないかな? どれが似合うか早見さんに選んで欲しいんだ」
「でも……私の視界は他の人とは違うので、似合うかどうか自信がないのですが」
「大丈夫。早見さんが似合うと思う物が欲しいんだ」
「では、私でよろしければ喜んで!」
メガネ屋は二階にある。目的地が決まったところで早速向かおうと立ち上がりかけたとき、早見さんがちょこんと片手を上げた。
「少しだけ化粧室に行ってもよろしいでしょうか?」
僕が頷くと彼女は足早に化粧室へ向かった。よほど我慢していたのだろう。
僕は背筋を伸ばしながら、彼女が帰ってくるのを待つことにした。
そのとき、視界の端を何かが掠めた。首を向けると幾何学模様の床の上に、黄色い布のような物が落ちている。ハンカチだろうか。周囲に視線を巡らすと、ハンカチから遠ざかる女性の後ろ姿を見つける。他にはそれらしき人がいなかったので、僕は女性の背中に声をかけた。
女性は足を止めると、身体を少し捻るような格好で僕を見る。黒のポニーテールがよく似合う可愛らしい顔をしていた。薄いピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織り、肩からショルダーバッグを下げている。
僕は軽くお辞儀をすると腰を上げた。そしてハンカチを指さす。
「そこのハンカチはあなたのでしょうか?」
「あっ」
女性は目を見開き口元に手を当てた。
「ごめんなさい、私のです」
僕はハンカチを拾おうと腰を屈めて腕を伸ばした。ふれた途端、猛烈な違和感を抱く。
なんだか想像以上にひんやりとしていて、何よりもまず弾力性がある。これは……布ではない!
「ポケットに入れたつもりだったのに」
「あの」
僕は黄色い物体をつまみ上げながら立ち上がる。
「うん?」
「これ、バナナの皮ですよ」
バナナの皮を持った手を差し出すと、女性は小動物のような怯えた目をして、「なんですとッ」そう言葉を搾り出した。
これはどういう状況なんだ。どうしてバナナがこんな場所に落ちているのだ。僕は必死になって思考を巡らすも、どうしても説明できる明確な理由が思いつかなかった。ただ一つわかることは、このバナナは女性の物ではないということで、こうして引き留める意味はなかったということだ。
「たぶんですが、別の誰かが落とし……」
「あーははは。ごめんねぇ、うっかりして落としちゃってたみたいね!」
女性は身体をくの字におりながら腹を抱えて笑い出す。
「あなたの、バナナだと言うのですか!」
バナナを落としちゃってただと? そんなバナナと口にしそうになるも、ギャグセンスを疑われたくないので、僕は必死になって言葉を呑み込む。
「そんなバナナって感じだよねー」
「ですよねーそんなバナナですよねー」
おしとやかな性格かと思っていたが、親父ギャグを愛するお転婆さんだったようだ。確かに見た目は黒髪ポニーテールでワンピースという清楚ないでたちだが、声はややハスキーなのでさっぱりした口振りでも違和感がなかった。
「ほらポケットの中にちゃんとハンカチが入ってた。まったく紛らわしいよね。いや私ねバナナは少し青い方が好きなんだ。だから普段は間違えないんだよ」
「それ以前にどうしてバナナを落としちゃったんですか? しかも皮だけって」
「もしかして疑ってる? あっ、こいつバナナの皮ポイ捨てしちゃってるよって思っちゃってる? 誤解だよ。ってここは三階だけどねッ!」
えーっと、どうしたらいいのだろう。よし、ここは空気を読もう。
「凄いおもしろいですね! いやぁ凄いなー」
突然女性は真顔になる。
「君って嘘が下手だよね。顔に嘘って書いてあるよ」
「よく……言われすぎてます」
ポケットから取り出した黄色いハンカチを、女性は僕の顔の前で広げた。うむ。バナナよりも若干薄い黄色だが、遠目だと間違える……かな?
ハンカチをしまうと女性は急に無言になって、僕をじっと見つめた。その目は何かを探っているようにも、「あなたのバナナって下ネタじゃない?」と蔑んでいるようにも捉えられて、僕は思わず視線をそらしそうになる。
「ありがとね」
そういうと女性は水色のショルダーバッグから巨大なバナナを取り出した。通常より一回りほど大きかったため一瞬たじろいでしまったが、よく見るとそれはプラスチックで作られたバナナケースだった。貝殻のように開くと中からは案の定バナナが出てきた。
「一本あげるよ」
僕はバナナを手に入れた。
女性は待ち合わせでもしているのか腕時計で時刻を確認すると、大きく手を振りながらあっという間にいなくなった。僕はその場に佇みながら微妙な引っかかりを感じていた。女性の顔をどこかで見たことがあるような気がしたからだ。どこだっただろうか……。
「どうかしましたか?」
早見さんはいつの間にか僕の傍に立ちながら小首を傾げていた。
「よくわからないけど、バナナを貰ったんだ」
「何かのメッセージかもしれませんね」
「そんなバナナ!」
「申し訳ありません。こういう場合は……どのような反応をすれば良いのでしょうか?」
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