おにいちゃん

 僕は廊下を走りながら、不意に数週間前の昼の出来事を想起する。

 僕と二人の悪友は一緒にご飯を食べようと教室の片隅に集まっていた。僕が自分で作った弁当を机の上に広げたところで、悪友の一人が、「やっべ。飲み物買うの忘れてた」と嘆いて絶望感を露わにする。するともう一人の悪友が、「じゃあ買いに行こうぜ」と席を立ち、財布を手にしながら二人は教室から出て行ったので、しばらくの間僕は無言で箸を動かしていた。

「昨日の『山風にしやがれ』観た? かける君、チョーかっこ良かったよね」

 教室にはまばらに生徒の姿があるが、幼なじみの声音は僕の耳にとりわけはっきりと聞こえてくる。八百八十ヘルツの笑い声はなおさらで、一人で弁当を食べている今、意識しないほうが無理だった。

 ゆうみは早見さんの机に席を持って行き、向かい合いながらご飯を食べていた。

「ゆうみさんがオススメしてくださった番組ですよね。申し訳ありませんが、まだ録画したまま見ていないです」

 山風とは今人気上昇中の男性アイドルグループで「山風にしやがれ」とは山風のメンバーがMCとして展開されるバラエティ番組であることは、以前ゆうみに熱く語られていたので覚えていた。

「絶対観た方がいいよ、ほんとヤバいから。あそこでバク転なんて誰も思いつかないって」

 かける君がどこでどのようにバク転をしたのか僕は番組を鑑賞していないし、山風についての知識がさっぱりだったので、彼の凄さがわからなかったが、それは早見さんも同じようで、「そうなんですか」と感嘆でも同調でもない当たり障りのない頷きをしているだけだった。

「ちょっとニヒルな感じがたまんないのよね」「確かにゆうみさん好きそうですね」「今度ドラマに出るって知ってた? すでに映画化も決まってるらしいし、チェックね」「はい、必ず確認します」

 それでね、とゆうみの一方的なマシンガントークは止まることを知らない。早見さんはさぞ気が滅入っているのだろうと思ったが、彼女は言葉とは裏腹に柔らかい笑みを浮かべながら相槌を打っていた。

 しかし次の瞬間、早見さんが目と口を大きく広げて、「あっ!」と声を出した。何かを思い出したのだろう。彼女は軽く片手を上げて発言の許可を確認すると、「話は変わりますが」と前置きをして、有名なアニメ映画のタイトルを口にした。そして早見さんは興奮のあまり前のめりになってゆうみに顔を近づけた。

「ゆうみにさんに教えていただかなければ、こんなにも魅力的な作品に出会うことができませんでした」

「ちょっ……近い近い」「ああ、ごめんなさい。でも、なんでしょうか、こんなにも心が躍ることは久方振りで。この映画は私にとってなくてはならない存在となりました」「ほんとに今まで観たことがなかったのね。結構テレビでやってるから少しくらいは観たことがあるかと思ってたけど」「まったくです。観たことがない人は人生を損しているといっても過言ではないですね」

「マジ? 早見さんって観たことなかったの?」

 いつの間にか一人の女子が早見さんの傍に立っていた。名前は覚えていないが、確かゆうみとは仲が良く、一緒にいるところを何度か目にしたことがある。

「ちょーいいよね。その映画って他にも何かいっぱいあるじゃん。あれ、えっとあれよあれ。忘れちゃったけど、早見さんはそれが一番なんだー」

「……申し訳ありません。他の作品はまだおめにかかっていないんです」

 若干だが早見さんの声のトーンが低くなる。心なしか彼女の視線は女子の顔ではなく、喉元へ向けられているように見えた。

「うっそ、マジ? どれもヤバいから見てみなよ」「そうですね。チェックしてみます」「来年、新作でるってことも知らなかった?」「ごめんない……」「そんなかしこまんないでよー。どうしたのー」

「ちょっと早見をあんまり困らせないでよ」

「ごめんごめん。じゃまたね」

 女子は小走りに元いた別のグループへと戻り会話に参加した。その姿を早見さんが黙って見つめていると、ゆうみが彼女の髪を軽くなでて悪戯っぽく笑った。

「今度あたしん家で上映会ね」

 髪をさわられて少し嫌そうにしていた早見さんの表情がパッと変わる。

「は、はい!」

 早見さんは背筋を伸ばすと深く頭を下げた。


 勢いよく教室を出たものの当初の目的地であったトイレはすでに通り過ぎてしまったため、ただ一点「ゆうみから逃げる」を念頭に三階にある一年の教室から一階まで階段を駆け下りた。

 廊下には何人かの生徒の姿があって、大きく肩を上下させながら息を切らしている僕に怪訝な視線を向けていた。どこか隠れる場所がないか考えた末、校舎奥にある視聴覚室に向かう。

 依然、鬼の足音は鳴りやまない。徐々に二人の距離が縮まっていくのが足音の感覚でわかる。そのときになって僕は、ある事実に気づく。

 ゆうみは陸上部だった。

 自分の呼吸が止まっていたことに気づく。しかし息を吸う前に口内に溜まっていた唾液を飲み込んだ。喉元が大きく隆起して鉛のような唾液が嚥下される。

 僕は息を吸った。清涼感のある空気が体内に染み渡る。突如、呼吸とは生への執着なのだと悟った。僕は奥歯を噛みしめると廊下を走った。

 視聴覚室へ向かう途中の渡り廊下にさしかかったとき、連なる窓から見える光景に僕は一筋の希望を見た。渡り廊下の両脇にはシャッターが備わっていて片方は中庭へと通じている。そこは四方を校舎に囲まれた場所で、ちょうど中心には一本のハナミズキが佇んでおり、風流を楽しむためのプラスティックのベンチが脇に設けられている。

 僕は開いていたシャッターを潜り、敷き詰められた芝生に足を踏み入れた。昼休みの中庭は健全な高校生の嬌声やはしゃぎ声とは無縁の優雅な雰囲気が漂っている。ハナミズキが咲き誇るにはまだ早い時期だったけれど着実に白い花は垣間見られて、正午の陽光を浴びて淡く輝いていた。

 金城ライヒはハナミズキから降り注ぐ木漏れ日を浴びながら瞼を閉じていた。両腕を頭の後ろに持って行き、長い脚を組みながら芝生の上で横になっている。その姿は少女漫画に出てくるモテる男子そのもので、お花畑満載だ。メガネはきちんとかけてあったので、僕は安堵する。メガネの国の王子様はメガネが本体と言っても過言ではない。

 一足遅れてゆうみが姿を見せる。中空で僕とゆうみの視線が交わり、二人の間に緊張が走る。追い詰めた優越感にゆうみは片頬を持ち上げるが、僕の背後に横たわるライヒの姿に気づくと微笑はすぐに凍りついた。

 計算通り!

 何人たりともライヒの眠りを荒らすことはできない。なぜなら彼の寝入った姿は一つの芸術の域に達していて、昼時の中庭は芸術作品の展覧会へと色を変えるからだ。校舎を見上げれば窓越しに感じられる多くの視線。こんなにも鑑賞者から囲まれたところでは、ゆうみであろうとも沈黙せざるを得ない。

 僕はゆっくりと足音を立てずにライヒに近づく。汗が額を伝って頬から顎へかけて滴った。気を緩めることはできない。場の条件は僕もゆうみと同じで、彼を起こしてしまっては多くの逆鱗に触れることになる。視線はゆうみへ向けながら意識はライヒへと持っていく。

 そしてついに僕は、彼の四十五センチ以内まで接近することに成功した。ゆうみはハラハラしながらこちらを見ている。その姿を見て僕は勝利を確信した。敵の戦意は喪失しかかっている。相手は場の雰囲気に恐れをなしていた。

 緊張感を押しのけて言いようのない高揚感が込み上げてきた。視線を下げると、足下にはライヒが横たわっていて、わずかな寝息を立てている。よく見ると彼はイヤホンをしていた。たぶんモーツァルトでも聴いているのだろう。

 ライヒの四十五センチに入ることで僕は彼の芸術性の一つに気づいた。一見するとリラックスした格好で眠っているだけのように感じられるが、腕の角度や腰の曲げ具合、脚の組み方など細かい部分に計算された法則を見いだした。

 黄金比。

 僕は非の打ち所がない彼の存在に、眩暈がした。予期せぬ衝撃に僕の脚はふらつき、次の瞬間、足下のリュックを蹴ってしまう。

 唐突に時間の流れがゆっくりとなる。彼のリュックはファスナーが開いていた。ここで倒れてしまったら中身が四散してしまい、惨事は免れない。僕は必死に腕を伸ばす。もうちょっと……もうちょっとで、届く! しかし、指先はリュックを掠めただけで、掴むことができなかった。

 リュックは音を上げて倒れ、中身が飛び出す。難しそうな参考書、分厚い本、おにいちゃんCD、文房具……。

 ……おにいちゃんCD?

 おにいちゃんCDだとッ!

 これは幻か? 否! 現実だ。しかし僕はあまりの衝撃に立ちつくしていた。

「な……なんてことしてんの」

 ゆうみは震える声を発しながら、おぼつかない足どりで僕の傍に立って、リュックの中身を見下ろす。そして息をのんだ。その一連の動作を僕は無言で見つめていた。

 なぜ僕がすぐに「おにいちゃんCD」だと認識できたのは理由があって、それは僕が所有しているからとか、どこかのお店で目撃したことがあるからとか、そんな間接的なものではない。CDのジャケットに大きく書かれているのだ。

 おにちゃんCD、と。

 ゆうみが緩慢な速度でおにいちゃんCDを手に取る。ジャケットにはアニメ絵で描かれた小学校低学年と思しき幼女の顔が大きく載っていて、巨大な瞳でこちらを見つめている。ジャケットの上部、幼女の額の部分に「おにいちゃんCD」の文字。

「キモい……」

 ゆうみの手が震えて文字が躍りだす。僕はイヤな予感を抱き、声をかけようとするも時すでに遅し。彼女の腕が振り上げられる。CDを地面に叩きつけるつもりだ。

 この距離からして周囲の生徒はジャケットの絵がなんなのかを把握していないはずだ。そんな中、ゆうみの行動は傍若無人にしか映らず非難の的になることはわかりきっていた。負の感情に包まれては、さすがの彼女も辛い思いを避けられないだろう。

 ゆうみの泣き顔がフラッシュバックする。大声で泣き崩れる幼い頃の彼女。その隣でしゃっくり上げる僕。周りの「大人」も嗚咽を漏らしている。誰もが泣いている。泣いて泣いて、泣き続けている。

「駄目だッ!」

 嫌な記憶を振り払うように僕はゆうみの腕に飛びかかった。唐突な僕の行動に彼女はCDを持つ手を硬直させて唖然としている。

 無理に腕を伸ばして変な体勢になったことで腰に激痛が走った。なんということでしょう。あまりの痛さに耳から変な汁が垂れそうになる。そのせいといったら何だが、バランスを崩してしまい、僕の身体はゆうみの身体とぴったりくっついてしまう。

「きゃっ!」

 そのまま僕はゆうみを押し倒してしまった。

 一瞬の静寂の後、頭上から興奮に満ちたはしゃぎ声が響き渡る。彼女の上に重なりながら僕は安堵する。押し倒してしまったのは予定外だったが結果として観衆の意識を向けることができた。声の調子からして、ゆうみがおにいちゃんCDを投げつけようとしたことはすでに忘れてしまっているだろう。

「良かった……」

 ほっと息を吐くと、「なーにが『良かった』だって?」と地獄の底から沸き上がってきたような、殺気に満ち満ちた声音がすぐ耳元で聞こえた。

 次の瞬間、ゆうみは僕の両肩をガッシリと掴むと、横に払い飛ばした。仰向けに倒れると、青空を背景にゆうみの顔が現れる。地獄の使者と呼ぶべき鬼の形相で、僕の胸ぐらを締め上げた。

「今度は押し倒したわよぉ」「キャー大胆!」「これが昼ドラというやつか……」「リア充、爆発しろ!」

 観衆の声は絶頂に達していた。

「わ、悪かったよ」

「言霊がぁ……こもってないわッ!」

 制服のボタンがはじけ飛びそうな勢いで上体を起こされると、そのまま左右に身体を揺すぶられた。神主さんが大幣を振るような、僕の中の邪気が退散させられるような清い行いだった。

 目まぐるしく歪む視界がやっと落ち着いてきたとき、上下するゆうみの肩越しに何かが動く気配がした。廊下にいる生徒がシャッターの下からこちらを盗み見ている。ひょこっと顔をのぞかせては、ささっとすぐに引っ込んでを幾度と繰り返して、まるでオモチャのようだった。

 オモチャ?

 メトロノームを彷彿とさせる生徒の動作に一抹の不安を感じながら、「早見さん?」と僕は声をかけてみた。

 ピタッと生徒は顔を出したまま停止する。案の定、早見女史だった。

「早見? えっ、早見がいるの?」

 僕とゆうみが熱い視線を送るものだから早見さんはバイブレーション機能を働かせてしまった。ゆうみが、「早見?」と呼んでも彼女は目を丸くしてバイブしている。

 駄目だ! 早見さんはマナーモードになってしまったよッ!

 溜息を吐くような空気が抜ける音と制服の衣擦れが聞こえたので視線を移すと、ライヒがちょうど起き上がったところだった。覚醒しきれていないのか欠伸をつくと、瞼をこすりながら僕を見上げている。

 そんな呆けた顔が崩壊するまでに時間はかからなかった。

 地面に投げられていたおにいちゃんCDを目にしたライヒは顎がはずれるくらい口を開いて(それはお偉いさん御用達の温泉に見られるようなライオンの口と喩えても問題はないだろう)、泣き出しそうな妹をあやすお兄ちゃんを彷彿とさせる仕草でCDを胸に抱いた。

 事情を把握していない観衆は慈愛に満ちたライヒの抱擁にぞっこんかもしれないが、僕の気持ちは醒めきっていた。

 初めてライヒを見たときの衝撃は忘れられない。入試の時点で噂は耳にしていたが、僕は伝聞によくある誇張された情報だと高をくくっていた。しかし教室での顔合わせのときに、それは間違いだと思い知らされる。

 マジ、ハンパねぇ。

 そう思った。

 ライヒの美しさを「マジ、ハンパねぇ」で表現するしかないくらいの、衝撃だったのだ。それ以外の語彙は完全に失念していた。

 そのときすでに僕はライヒの「国」の住人に取り込まれてしまっていたのだろう。しかし今は違う。もう治外法権は通用しない。その胸のおにいちゃんCDがすべてを変えたのだ。

 ライヒは歯を食いしばりながら僕に非難のまなざしを向けて、「……見たな?」と低い声を出した。

「うん、見ちゃった」

「ちょっと何飄々と言ってんのよ」

 耳元でゆうみが声を潜めながら囁いているが、僕はお構いなしに言葉を続ける。

「でも大丈夫だよ。CDのことは誰にも言わないから」

「……その証拠は?」

「だって吹聴する利点がないじゃないか。ライヒや周りの生徒を不幸にするだけでなんの生産性もない」

「……君は、いいやつなんだな」

「ああ……僕はいいやつなんだ。でも惚れるなよ。BLは趣味じゃあないんでね」

「ふふふ」

「ははは」

「ふふふ」「ははは」「ふふふ」「ははは」「ふふふ」「ははは」

「おい、キモいからやめろ」

「もの凄く気になるんだけど、おにいちゃんCDってどんな内容なの?」

「……十二人の妹が百種類のシチュエーションで『お兄ちゃん』と呼んでくれるリラクゼーションCDの白眉」

「それはそれは……百種類とは凄い数だね」

 これまで自分の趣味を打ち明けられなかった反動なのか、ライヒはおにいちゃんCDの魅力を長々と熱弁してくれた。目を輝かせて語る姿は少年のようで親しみを感じさせた。そうだった。ライヒは僕たちと同じ霊長目ヒト科ヒト属なのだ。

 おにいちゃんCDの魅力を説明し終わると熱が引いて恥ずかしくなったのか、ライヒは目を伏せるとCDをぎゅっと強く抱いた。

「……やっぱり幻滅しただろ?」

「正直に言うと、幻滅はしていないけど複雑な気持ちにはなったかな」

 彼は何かを言いたげに口を開けるが、舌先から言葉が離れることはなかった。

「趣味とはなかなか他人には理解してもらえないものだから隠したくなるのはわかるけど、バレたときはもっと堂々としたほうがいいと思うな」

「……もっと堂々と?」

「堂々とした人って格好いいだろ?」

「君の言うとおりたしかに格好いいな」

「ぶっちゃけた話、あたしたちが中庭で騒動を起こしたのが原因なんだけどね」

 耳元でゆうみが声を潜めながら囁いているが、僕は無視した。

「そろそろ教室に戻らないとね」

 すでに早見さんの姿はなく、僕はゆうみの肩を叩くとその場を後にした。

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