僕と彼女とお山とお城
すぐに夢だと気づいた。
僕の目の前には、僕とゆうみと僕の母の三人がいて、幼稚園卒業間近の僕とゆうみにとって初めての動物園は、二人に良くも悪くも広大で生命の息吹に満ち溢れていた。
かっわいー。ほら、たっくん見て! パンダだよ!
満面の笑みを浮かべたゆうみが指さす先には、背中を丸めながら岩場で笹を食べるパンダがいる。最小限の動作で笹を咀嚼する姿に危険性は皆無で、友好の象徴だと言われると確かにそうだなと思わせる愛くるしい動物なのだが、幼い僕と言ったら母の背中に隠れて身を竦ませているのだった。
母の背中はとても大きくて、服の裾を引っ張ってもビクともしなくて、僕は必死に助けをこうように声を震わせて退園を促すが、母は声を上げて笑うだけで聞き入れてくれない。どうしてあんなにも恐い思いをしていたのか高校生にまで成長した今となってはさっぱりだが、こうして夢の中で幼い自分を客観視していると、未知の世界に放り込まれて何もできないモブキャラにしか見えなかった。
たっくんつまんなーい。もっとちかくに行こうよ。ぜんぜんこわくないよ。ねえたっくん! いっしょに見よ。
ゆうみが幼い僕の腕を掴んで母親から引き剥がそうとする。幼い僕はそれに抵抗する。母はそんな二人の姿を眺めながら腹を抱えて笑っている。僕の母はとにかく豪快に笑う人だった。
あっ、ナマケモノ、っていうどうぶつもいるんだって。それだったらたぶんたっくん好きだよ。
左手は母、右手はゆうみといった具合に手を繋ぎながら幼い僕は園内を歩いている。結局ナマケモノの檻の前でも幼い僕は恐怖におののいてしまい、ゆうみに怒られてしまった。
青空が急に橙色になる。
そろそろ帰ろっか、と母が疲れなど微塵も感じさせない顔で、幼い僕の頭を撫でた。ゆうみはまだ満足のいかない面持ちで不平を口に出そうとするが、幼い僕の顔を見ると両腕をぶんぶん振って、楽しかった! と甲高い声を出した。
どうだった?
母は幼い僕に訊ねる。
楽しかったよ。
幼い僕は嘯く。
たっくんのうそつき!
ゆうみは唇を尖らす。
うそなんかついてない!
幼い僕は抗議する。
だって泣いてたよ!
こーら、喧嘩し……
唐突に音声が途切れたかと思うと景色が暗転して、僕は目を覚ました。自室の天井。僕は上体を起こすと微睡んだ頭で会話の続きを思い出そうとしたが、さっぱり駄目だった。たぶんしょうもない会話だったと思うのだが、何故か心に引っかかった。しかし枕元の時計で時刻を確認するとそんな疑問はすぐに消えてなくなってしまい、再び眠りに就こうと枕に頭をのせてゆっくりと瞼を閉じる。
朝の教室は眠気を引きずった生徒の群れで満ちていて、それは僕も例外ではない。教室の戸口で視線を巡らせると思わず嘆息してしまった。腐れ縁の幼なじみが僕の机に座って隣の女子生徒と談笑していたからだ。
どうして陰鬱な気持ちになっているのかというと、幼なじみの笑い声は僕の鈍った頭には些か都合が悪いからである。
おーす、うーす。僕に気づいた何人かの友達が挨拶を口にするも、僕の頭の芯にピンポイント攻撃してくる八百八十ヘルツの幼なじみの笑い声は全てを掻き消す。彼女の笑い声だけが僕の頭に山びこの如くこだまするのだ。ああ、僕の頭の中は君のことでいっぱいだ。やめてくれ、僕は壊れてしまう。
「何よ、朝から怠そうにして。ほんとあんたは朝に弱いわね」
机の傍で佇む僕を見上げながら、ゆうみが片手をあげて軽く微笑んだ。僕も習って片手をあげて挨拶をすると、すぐに「どいてくれませんかね」と自分の椅子を指さす。
「今盛り上がってるんだからどっか別のとこ行ってなさいよ。ほらハウスハウス」
ゆうみが掌をひらひらさせて追い払うような仕草をする。僕のハウスはそこなんですが、と内心で思うも反論するのが面倒だったので仕方がなく友達がいる場所に足を向けた。
ふと歩みの途中で視線を早見さんの机へと移す。彼女は最前列の一番窓際の席で、一人で本を読んでいた。何かに感心しているのか小刻みに頷いている。早見さんと関わりの薄い昨日までの僕だったらそのままスルーしていたのだが、すでに僕は早見さんにしか反応しない天使を使役していて、その天使が頭上でラッパを吹いて報せているのだ。
おはようの挨拶をするべきだと。
僕は歩みを止めてシミュレーションをしてみる。
おはようの挨拶→そこはかとなく何を読んでいるのか訊ねる→えっ、ガリバー旅行記? →ガリバーって言えば馬だよね→動物園楽しみ!
おはようの挨拶→そこはかとなく何を読んでいるのか訊ねる→えっ、シンデレラ→シンデレラって言えば馬だよね→動物園楽しみ!
おはようの挨拶→そこはかとなく何を読んでいるのか訊ねる→えっ、ムーミン、ああ……ゆうみ! →ゆうみって言えば馬鹿だよね→馬鹿って言えば馬だよね→動物園楽しみ!
僕は天井を仰ぎ、口を引き結ぶ。こんなにも人目のつくところで早見さんに話しかけるのは初めてだったので、少し胸が高鳴った。負けられない戦いが、ここにある! 意を決して、一気に近づき、彼女の背中に声をかけた。
「おはよう! 何読んでるの?」
沈黙。
「……早見さん? おはよう! 何をお読みになっているの?」
沈黙。
「……早見さまぁ」
ぷっ……ぷぷっ。笑いを堪えきれずに吹き出す音が背後から聞こえる。振り返らないでもわかる、ゆうみの奴め。
そのとき、早見さんの身体が電気ショックでも受けたかのように大きく跳ねた。その振動は机を床から浮かせるほどで、教室にいる生徒の視線が一斉に僕たちへと向けられた。
早見さんは首を傾けて僕を見上げると、すーっと視線を横に滑らせてカボチャの群れであろう生徒たちを見渡して、机の天板に視線を落とした。
「えっ、田中が何かしたの?」「俺は見ていた、田中が早見のうなじに息を吹きかけているところを」「マジかぁ。そうかぁ。いやぁ、マジかぁ」「ぷっ……ぷぷっ!」
ひそひそ声というのは案外聞こえるもので、ゆうみの笑い声といったら……ってゆうみ! お前はこっち見ていただろ! 弁護してくださいよ。いやぁまったく面倒に巻き込まれちまったな、と主人公が口にする常套句を脳内で漏らしながら僕は思考を巡らした。
「えーっと」
おもむろに口を開いた瞬間、続く言葉を興味津々に待ち望む群衆の熱い視線を背中に感じ、僕は狼狽した。どうするべきか。実際のところ僕はただ早見さんに声をかけただけなので、彼女が解決を図ってくれたら誤解は簡単に溶解するのだが。早見さん、たすけ……
僕は目を剥いた。早見さんはポケットから素早くハンカチを取り出して口元を拭いていたのだ。所要時間瞬き一回分。お前はマジシャンか。
真実はいつも一つ。早見さんは眠っていたのだ。
僕にも経験がある。夢の中で落下したり強い衝撃を受けたりすると身体がビクッと反応するアレだ。ああ、何とタイミングが悪い。
女性の嘘を何も言わずに受け入れるのが男の嗜みだと、誰かが言っていた。男は馬鹿であるべきだと。女性の嘘を疑ってはいけないのだと。そうだ、馬鹿って言えば馬だよね。
「動物園楽しみ!」
何か話さないと、と焦るあまり考えなく口走った台詞に僕はすぐに後悔する。何も知らない観衆からしたら僕はただの阿呆ではないか。
「はい、私も楽しみです」
空気を読んでくれたのか、いや、ここでその発言は逆に空気を読んでいないような気もするが、早見さんは頬を染めながら(たぶんヨダレが垂れていたことに赤面しているのだろう)頷いた。
それまで静寂だった教室が驚嘆の声に包まれる。
悪友どものブーイング。早見さん騙されちゃ駄目という嘆きや俺の誘いは断ったのになぜなんだッという慟哭。変態コール。
早見さんって実は愛されてるんだなあ、と僕は笑顔で泣きそうになった。
「あんたさ、動物園ってどういうことよ?」
ゆうみは僕の制服の胸ぐらを掴むと、顔を寄せてきた。彼女は身長が高いことが唯一の長所でたぶん百七十は超えている。僕より若干背が高いため、顔を寄せられると威圧感があった。
「暴行罪暴行罪!」
「不純異性交遊禁止」
「言葉の意味わかってないだろ!」
「反逆罪よッ!」
ゆうみは胸ぐらを掴んでいた手を放すと、勢いよく僕の頬を平手打ちした。乾いた音が教室に鳴り響く。
「……利き手で胸ぐらを掴むなんてまだまだだな」
ぼそっと呟いた僕はまた平手打ちをくらうことになる。
「この、バカッ」
ゆうみの言葉に僕は息を呑む。彼女は目を伏せて少し悲しそうな顔をしていた。
ゆうみとは姉弟(僕の方が遅く生まれた)だと思っても良いくらい小さい頃から一緒で、彼女のことを殆ど知っていると自負していた僕にとって、初めて見るその表情には戸惑ってしまった。
「そろそろ止めにしようよ」
熱狂に包まれた教室に、その声は染み渡るように浸透した。最前列の教卓の真ん前。その机に彼はいた。背筋を伸ばして姿勢良く教科書を読む姿は、まさに王子様。黒縁メガネも似合っていてメガネの国からやって来たと言われても納得してしまう。
金城大国。
彼の名前である。ちなみに大国はライヒと読む。金城ライヒ。名前によってはギャグの人になりかねない危うさがあるのだが、彼の容貌、身のこなし、それこそ一挙手一投足に備わった知的な美しさが名前までもステータスの一つへと変えている。集団には属さず常に一人、昼休みも中庭で優雅に昼寝を楽しみ、放課後は使命感に駆られた目をして帰宅する。孤独を愛する謎の多い男子高校生だ。
「盛り上がるのもいいけど、度が過ぎると担任から注意されるよ。もう少しで始業時刻なんだし、説教をくらって場がしらける前にお開きにしない?」
群衆は「担任」の存在を失念していたようで、ライヒの言葉に不平を唱える者はいなかった。各々が元いた場所へと散っていく中、ゆうみだけが唇を尖らせて仁王立ちをしている。
「動物園のことをみんなの前で言っちゃってごめん」
僕はゆうみを無視して早見さんに謝罪をした。早見さんは胸の前で両手を振って、「そんな気にしないでください。だって隠すことでもないじゃないですか」と嘘偽りのない声音で微笑みかけてくれる。その優しさに僕は少し凹んだ。
「田中さんは放課後って空いていますか?」
「部活にも入ってないし、空いてるけど」
高校生活と書いて「せいしゅん」と呼ぶには部活動は欠かせない。野球部や陸上部、吹奏楽部など王道を突き進む部活、未知の領域に踏み込もうとする野心を胸に設立される独創的な部活(個性的な美少女が多く集まる類のものも当然含まれる)、数ある部活動に属さないわけは次の一言に収束することができる。
面倒だから。
「一緒に、帰りませんか?」
柔らかい風が吹いた。それは聖母の抱擁が如き慈愛に満ちたもので、気づけば僕の拳は天に向かって伸びていた。リングの上で勝者が腕を上げるような誇らしい気持ち。生きてきて良かった!
「断る理由なんてないじゃないか」
「ちょっとどうしちゃったの? 何か悪い物でも食べちゃった?」
ゆうみは口の端を引き攣らせながら、ぎこちない笑顔で早見さんに訊ねた。
「田中さんにはちょっとした相談にのってもらっているんです。一人では解決できそうにないので、恐縮ですが手伝ってもらっています」
「それってあたしには相談できない悩み? だってさ、そういうのって同姓に打ち明けるもんでしょ」
ゆうみはなるべく嫌みに聞こえないよう冗談っぽく言っているが、目が笑っていなかった。
普通だったら悩み事は同姓に打ち明けるもので、健全な高校生はなおさらだとゆうみは考えているのだろう。僕を選んだからにはそれなりの理由があるに違いない、と。
早見さんは口元に人差し指を当てて思案顔になると、想像通りの言葉を提示した。
「性別は意識していなかったです。普通は同性に相談するものなんですか?」
同性に悩み事を打ち明けるというのは、思春期が大きく影響していると僕は思う。異性を意識してしまうのだ。早見さんもそれは例外ではないと思うのだが、他人と大きく異なるのが、そう、カボチャジャックだ。
自分の顔と他人の顔が大きく異なるのは、別の生物だと認識しないまでも、思春期の恥じらいを薄めてしまう理由にはなるだろう。
僕は男。
だがカボチャだッ!
ゆうみは女。
だがカボチャだッ!
自分で言うのも悲しいのだが早見さんが僕を選んだ理由は、特にないと思う。抱え込むには重すぎる荷物を誰かに持ってもらいたくて、適当に選んだのだ。そこに山があるから登るみたいな、たぶんあれだ。どれにしようかな神様の言うとおり。
選ばれし僕はゆうみの肩に手を置くと、「これが僕と君との差さ」と呟いた。
てっきり鉄拳制裁のパンチが飛んでくるとふんでいた僕は、ゆうみの予想外の反応に驚いた。
「さわんないで。何よ、動物園に行けるようなってんじゃん。あんなに恐がってたのに……たっくんのバカ」
なん……だと? ゆうみにあだ名で呼ばれることなど何年ぶりだろうか。近頃は「あんた」が主流となり、僕の名前は田中あん太なのではないかと誤認してしまうほどだったのに、いきなり「たっくん」へと先祖返りだと? 待て僕。考えろ、考えるんだ。
ゆうみの口振りからして、未だに僕が動物園を恐がっていると彼女が勘違いをしていたことは読み取れる。そもそもあの頃は幼稚園児なわけで、成長するにつれて自然と大丈夫になっていくものだと考えればわかりそうなものだが。一言「動物園恐怖症を克服したよ」と伝えれば良かったのだろうか。
「動物園は昔の一回きりしか行ってないけど、たぶん大丈夫だと思う。あの頃は小さかったし、何であんなに恐がっていたのか不思議なくらいだよ」
「あ、そう」
ゆうみは急にトーンダウンしたように鼻で息を漏らして軽く頬を持ち上げると、僕に背を向けた。
「そうよね。ずいぶん前のことだしね」
「それにしても」
「何よ?」
「『たっくん』ってあだ名、ちょっと嬉しかったかな」
ゆうみが振り返り、僕の言葉を反芻する。
「たっくん?」
「僕、たっくん!」
わなわなと震え出すゆうみ。震えるのは寂しいときだけではないことを僕は知っている。彼女は拳を握ると上半身を捻って、捻って、捻ってぇ……アーンパンチ! 硬く握られた拳が僕の頬にめり込み、力こそパワーな勢いで彼女の腕が伸びきった頃には、僕の身体はリノリウムの床に横倒しになっていた。
「なんてこと言わせてんのよ、このバカ!」
これがツンデレというご褒美なのか……。そうなのか? こんな横暴がツンデレの一言で許されるのか? そうだとしたら、ツンデレはなんて恐ろしい文化なのか!
「大丈夫ですか?」
僕の肩に触れる柔らかい感触に不覚にも息が止まってしまった。早見さんが気遣って揺り起こしてくれていると思うと、それだけで僕の心は軽くなる。軽くなりすぎて天にも昇りそうだ。
床を見つめながら僕は肘を立てて上体を起こすと、今度は膝を使いその勢いで立ち上がった。
僕の傍で早見さんは目を丸くしていた。一瞬のことで驚いたようである。
そのときになって早見さんのビー玉、いやエー玉のような瞳が若干充血していることに気づく。
「目が赤いようだけどどうしたの?」
「そ、そんなに目立ちますか?」
「パッと見だとそんなにわかんないけどちょっと気になって。もしかしてあまり寝てないとか?」
先ほどのうたた寝といい彼女からは疲労の色が感じられる。
「ごめんなさい……。眠りが浅くて頻繁に起きてしまうんです。私は比較的寝付きが良い体質だと思っていたのでこんなことは初めてで」
早見さんは少し声を落として小声になる。
「昨日、秘密を打ち明けることができたので安心して眠れると思っていたのですが……」
「それか秘密を打ち明けたことで一時的な興奮状態に陥ってしまい、逆に眠れなくなってしまったとか」
僕は早見さんの椅子の背もたれを引いて、彼女に笑顔を向ける。
「あまり気にしない方がいいよ。起こしてくれてありがとう」
早見さんが少し驚いた顔をしたので僕はおどけるように自慢の真っ白い歯をにっと見せた。
「あっ、その表情!」
早見さんは口元に手を当てながら目を真ん丸にして、有名なアニメ映画のタイトルを口にした。その映画に出てくる愛くるしいモンスターに似ているらしい。
「お恥ずかしいことに僕はその映画を観たことがないんだ」
早見さんは絶句した。世の中の人間、いや、世の中のカボチャはその映画を観ていると信じて疑わない者だけが表現することのできる、カタストロフィ溢れる絶句具合だった。
「あんたそれマジで言ってんの? 人生の半分は損してるって」
「素晴らしい映画だということは知っているけど、人生の半分は言い過ぎだと思う」
僕は会話に割り込んできたゆうみに向かって不平を漏らした。
「わかったよ。今度観てみるよ」
昼休みになり悪友とご飯を食べようと机から立ち上がろうとしたとき、「ちょっといい?」とゆうみに呼び止められた。どこか浮かない表情で、早見さんを気にするように一瞥すると、そっと僕の耳元に顔を近づけて囁くように言葉を続けた。
「朝のことなんだけど、動物園行くんでしょ? ねえ、昔3人で遊んだときのこと覚えてる?」
「……覚えてるよ。どうして?」
「そっか。じゃあさ……」と言ったところで、何か苦い物でも詰め込まれたかのようにゆうみの口が止まる。そして彼女は続きを口にすることはせずにムスッとした表情となり「なんだかな」と靴底で床を蹴った。キュッと高い音が鳴る。
「ちなみになんだけど早見の相談って何?」
彼女の言葉に、少し驚く。
「言えるわけないじゃないか。自分で訊いてみなよ」
「休み時間に訊いてみたけど、答えてくんないのよ」
「だったら尚のこと僕の口からは話せないよ」
「ケチ」
「えっ」
「ドケチ」
高校生にもなってそんな頓狂な言葉を日常会話で耳にするなんて、果たして有り得ることなのだろうか。それも幼なじみ製「ドケチ」である。もし言葉が視覚化できるものならそれは眼福であろう。もしかしたらドケチによって一つの真理にすら辿りつけるかもしれない。ドケチは頓教なのだろうか。いや、そんなはずはない。そもそも頓教なのだとしても僕には理解できない。忸怩たる思いである。
「うわーなんて顔してんのよ」
ゆうみに指摘されて、自分がにやついていたことに気づく。恥辱と喜びがない交ぜになった複雑な感情を落ち着かせるために、僕は椅子から立ち上がりトイレに向かうことにした。教室のドアに向かって歩いていると、僕の肩を掴み、ゆうみが引き戻そうとする。
「ちょっと! 待ちなさいよ」
背後から予想外の力で引っ張られたため、振り向くと同時にバランスを崩してしまう。傾いた身体を立て直そうと僕は腕を振り、指先は空をきる。
そして……ぽすん。
掌がカベに触れたことで、何とか床に倒れる事態をまのがれた。
「ど、どこさわってんのよ」
ゆうみは眉を吊り上げて僕を睨む。視線を下にずらし掌を見ると、カベの正体は彼女の胸だった。
「天保山」
「誰が日本一低い山だッ!」
あまりにも俊敏な身のこなしに、僕は無防備にもゆうみの拳を頬にくらってしまった。結局、僕は教室の天井を見つめることになってしまう。
「痛い……」
「死ね!」
喩えに築山である天保山を使ってしまうと人工物の胸を連想させてしまうことに気づき、僕は、「本当にごめんなさい」と謝罪をする。自然な山である弁天山と言うべきだった。
ゆうみの刺すような視線を感じながら僕は立ち上がる。鈍い痛みが頬に広がり、麻痺したような感覚に視界がかすむ。想像以上のダメージだった。頬を殴られたにもかかわらず僕の両脚もふらついており、ゆうみと対峙する余力がすでにつきていることを示していた。そもそも何故僕はこんな目にあっているのだろう。
「あっ、早見さんがこっち見てる」
「えっ」
「うそぴょーん」
僕は教室から飛び出した。逃げ出す瞬間、ゆうみは何か言いたそうな面持ちで呆気にとらわれていたがすぐに、「待ちなさいよ!」と後を追ってくる声が背中に聞こえた。
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