教室の月

 入学式でのこと。

 教壇の上に立つ校長先生のスピーチを早見さんはじっと見つめていた。斜め後方に位置する早見さんのことを何故僕が見ていたのかというと、それは目にとまったからに他ならないのだが、けっして下心というものではない。

 視線を早見さんに向けていた僕の脇腹を隣の女子が小突く。僕が首を向けると、見慣れた顔が「何よそ見してんのよ」と口の動きだけで非難してきた。竹内ゆうみは家が近所のいわゆる幼なじみで、いわゆる一緒の時間を積み重ねてきた腐れ縁だった。ちなみにもっぱら僕はサンドバックの存在で、彼女から受けてきた色々なスピリチュアルアタックは、僕のガラスのハートに勲章のような傷を刻み込んでいた。

 新入生は各クラスごと名字順に男女交互にならんでいるので、自然とゆうみは僕の隣になる。都市伝説とまでなった「幼なじみの縁」は実在するらしい。どうしてクラスまで一緒なのか。

 再び教壇へ意識を戻した僕は、校長先生の寿限無寿限無が未だに続いていることに辟易する。

 どうして僕の目に早見さんが留まったのかというと彼女が一際幼く見えたからで、そう言ってしまうと「子供っぽい」とか「アホっぽい」みたいな悪いイメージに囚われがちだが、早見さんの第一印象はそうではない。言い換えれば「若い」という表現が近いが、ゆうみからしたら、高校生が若いって当たり前でしょうがと蔑まれること間違いなく、僕が言いたいのはこれから歳をとってもあまり容姿に衰えが見られないだろう、と推測させるほどの若さを彼女は内包しているという点だった。

 ふと僕はゆうみを横目で盗み見る。肩にかかるかどうかの長さで切り揃えられた黒髪は、体育館の天井付近に並ぶガラス窓から降り注ぐ陽光を反射して、天使のリングを形作っていた。気怠そうに教壇を眺めているが、まあ、普段の彼女は整った顔立ちであるのは認める。でも……

 すぐに眉間に皺ができるな、たぶん絶対。

 声に出さずに呟くと、すぐに裏拳が顎に当たり僕はうずくまりそうになる。

 入学式は怪我人もなく無事に終わった。

 そこから早見さんの呼び出しまであっという間に時間は過ぎ去る。その間に僕は数人の友人を得て、ゆうみも同じように同姓のグループ内で談笑していたが、早見さんはというと周りに上手く馴染めないのか一人で本を読んでいる姿が多かった。彼女の容姿からしてその気になれば華やかなグループに所属できるはずなのだが、遠目から見ても彼女の会話にはある一定の距離が感じられた。

 そのときは判然としなかったが、早見さんの秘密を打ち明けられた現在では何となく想像がつく。だって周りがカボチャなんだし。それが当たり前の風景だとしても、自分以外がカボチャでは疎外感はあるだろう。

 せめてもの救いは早見さんに一番接しているのがゆうみだということだ。昼時はいつも二人で机をくっつけあって過ごしている。きっとゆうみなら大丈夫だろう。



 早見さんの秘密の暴露から気づけば小一時間が経過した。教室のカーテンから漏れ出していた橙色の光は少し陰りを帯びている。そろそろ帰宅しなければ面倒なことになるので、僕は早見さんに下校を提案してみた。

「そう……ですよね」

 早見さんはすっかり疲弊しきった面持ちだったが、どこか歯切れが悪い。もしかしたら目を離した隙に僕が彼女の秘密を吹聴するのではないかと勘ぐっているのかもしれない。それかすでに僕という存在に「恋」していて、手放したくないのか。僕的には後者の方が断然嬉しいのだが、まあ、現実的に考えれば前者の方だろう。

「正直言って凄く驚いているよ。なかなか信じがたい話だからね。でも早見さんが嘘をつくとは到底思えないし、信じがたいけど作り話にも思えない」

 そして何より本気で悩んでいる人を疑うことなんてできない。まあ、恥ずかしいので言わないでおく。柄にもないし。

「だから大丈夫だよ。君にかかったカボチャの魔法は僕が解いてあげよう」

 ハートを鷲掴みすること間違いなしの格好良い台詞と共に、僕は手をさしのべた。きまった! これで惚れない人がいたら、それは人間ではない。それこそカボチャだ。

「協力してくれるんですか! ありがとうございます」

 早見さんは背筋を伸ばすと勢いよく頭を下げた。世の中にこれ以上の誠意があってたまるかと思わせるくらいの、見事な美しきフォルム、すなわち体現だった。

 頭を上げた早見さんはわかりやすいくらい高揚していて、身体全体から湯気が蒸気していてもおかしくないほどだった。こうして話してみて気づいたのだが、意外と早見さんは喜怒哀楽の表現が豊かなのかもしれない。

 僕はもう少し二人の時間を続けることにした。ここで教師に見つかって怒鳴られるのも青春の真っ直中のようで悪くないからだ。

「ちなみに病院には行ったの?」

「いえ。ちょっと抵抗があって……。まずは自分で何とかしてみるということで一定の猶予をいただきました」

 確かに抵抗はあるだろうし、いったい何科に通えば良いのか迷うだろうし、医者だって前例のない症状で困るだろうし、何から何まで困難続きなのは明らかだった。

「でもどうしてカボチャに見えるようになったんだろ。生まれたときからそうだったわけじゃないよね?」

 膨らんでいた風船の空気が徐々に抜けていくように、早見さんがしぼんでいく。協力することに喜んではいるものの、自分を語ることにまだ不安があるようだった。それにしても反応が顕著でオモチャみたいだ。

「小学校一年生の頃だったので記憶が曖昧な為、そのことについてはお母さんに色々と教えてもらいました。……私はその頃、極度のあがり症で人見知りの性格に両親は頭を悩ませていました」

 早見さんは語り始め、僕の脳内に再び映像が映し出される。

 小学校に入り立ての早見さんは、人見知りどころか対人恐怖症じゃないかと疑われるくらいの隠れん坊将軍で、両親はその姿を見ては我が子の将来に一抹の不安を抱いていた。特に早見父は一人娘を溺愛しており、絶対に子離れできないと自ら宣言してしまう残念なち……いや、非常に我が子想いなお父上でした。早見父は悩みました。人混みは全然駄目、親戚も駄目、てか家族以外の人間が駄目。お人形さんや亀さんは大好き。無理強いさせるくらいならいっそのこと克服させなくても良いのではないか。

 ある日早見父に天啓が舞い降ります。

 早見家の庭には小さな池があり、早見父は考え事するとき池の水面をよく眺めていました。池には鯉が放たれていて、所々に細かい波紋を作っています。ふとそこに一匹の亀を目にしました。亀は玄関の水槽で飼っていたので逃げ出してきたのでしょう。

 早見父が捕まえようと池に近づいたときでした。水面を漂っていた浮き木の丸い穴に、亀の首がすっぽりと挟まったのです。早見父は息を呑みました。

 なんという確率。

 確率論の知識などなくとも、天文学的な数値であることは腹の底から込み上げる言い様のない激情が教えてくれました。確率に胸を打たれた早見父の視界は一変、世界が奇跡の色で満ち溢れていたのです。

 人との出会いは千載一遇。

 おお、人見知りなど勿体ない。

 それから早見父は頭をフル回転させて、神の答えのうちその一つを導き出します。早見父の頭には数日前の我が子と八百屋へと買い出しに行った光景が浮かんでいました。記憶の中で一際目立ったのは、カボチャを手に持った我が子の笑顔です。そうです、早見さんはカボチャが大好物。

 ここにいる人たちはみんな○○だと思いなさい。

 古今東西……だかどうだか判然としないが、人の緊張を和らげるフレーズ。その言霊は多くの人を救い、世の繁栄を支えてきました。その恩恵があれば、きっと我が子も。

 早見父は常時カボチャを携帯するようになりました。人に脅えたときはすぐにカボチャを差し出して、「大丈夫。ほーら、みんなカボチャだよー。美味しそうなカボチャだよー」と唱えました。その一連の動作はホストがライターを取り出すような手慣れたものでした。

 これできっと我が子のあがり症が改善するに違いない。


「あがり症を改善させるつもりが、顔がカボチャに見えるようになってしまった。さぞお父さんはびっくりしただろうね。まさかこんなことになるだなんて」

「父が私たちの前からいなくなったのは、そのせいなんです。母が言っていました。『可愛い我が子からカボチャに間違われるなんて、僕は堪えられないよ!』父が家を飛び出すときに言った、最後の言葉だそうです」

 僕はその場面を想像して、げんなりした。父親失格ではないか。母子家庭になってしまった理由だと思うと、呆れを通り越して憤りすら感じられる。

 話し終えた早見さんは一息つくと僕の言葉を待つように沈黙したが、なんて声をかければ良いのか考えあぐねてしまう。だって……ツッコミどころがありすぎるんだもの。

 徐々に早見さんの顔に心配の色が生じ始める。そんな僕だって沈黙することはありますよ。もしかしてマグロみたいに泳ぐのを止めたら死んでしまうような、会話することで生命を維持している人間だと思っていたのだろうか。

「ごめんなさい……やっぱり迷惑ですよね」

 あああ、早見さんが縮んでいく。これが恐縮か! 恐縮というやつなのか! あっという間に三頭身くらいになってしまったではないか。

「か、カボチャに見えるようになってしまったのは早見さんのせいではないし、そんな気にすることでもないよ。そうだ! お父さんってどんな人だったの?」

「父の姿を記録した写真や映像などは全て母が処分したようなので顔は覚えていません。不思議なんですが、一緒に遊んだ記憶も一切ないんです。だから母に問い質したんです。そうしたら、これをくれました」

 そう言って早見さんは制服の裏地にあるポケットから一葉の写真を取り出して僕に見せた。綺麗な女性がこちらに向かってニッコリと微笑んでいる。

「お母さん?」

「はい」

 写真の女性は宝塚でも通用しそうな男勝りな容貌をしていて、幼い早見さんとは真逆の雰囲気を醸している。何となく早見母と思って訊ねてみたが、実のところ全然似ていない。たぶん早見さんは父親似なのだろう。

「でもどうしてお母さんが、自分が写った写真を早見さんに?」

 さっき早見父の写真や映像を「母が処分した」と言っていたが、きっと般若の形相だったんだろう。うむ、そうに違いない。

「この写真は父が唯一撮ったものなんだそうです。妊娠がわかったとき、はしゃいだ父が使い慣れないカメラで頑張って撮った一枚だと母が言ってました」

 僕は早見母のお腹を注視してみたが、早見さんの気配は微塵も感じ取れなかった。いや、待てよ。段々とうっすら見えてきた。淡いオーラが腹の部分を覆っている。おおお、これは生命の息吹だ! 

 それも束の間、瞬きした瞬間にオーラは霧散した。

「写真の腕前から、父親の性格、嗜好などをプロファイリングしろと?」

「はい。そうなんです」

「そうなのかぁ」

「ごめんなさい……お父さん、全然写ってないんですよ」

 あああ、早見さんが貝になりたそうな雰囲気を醸し出している。

「あれ? もしかして写真の場所って動物園?」

 早見母の背後にはコンクリート製の堀が見受けられた。人生で一度しか足を踏み入れたことのない野獣たちの住み処だったが、テレビで時たま目にするので間違いない。動物園という空間は意外とその姿を変えずに名残をとどめているものなのだろうか。

 早見さんは頷くと、予想通りの動物園の名前を口にする。

「微かな記憶しか残っていないのですが、父がいなくなるまでは頻繁に行っていたようです。だからでしょうか、母はあまり動物園が好きではないようです」

「よし決めた。じゃあ動物園に行こう!」

「えっ。動物園にですか?」

「そう、二人きりでねッ!」

「急にどうしてですか?」「聞きたい??」「なんで焦らすような口振りなんです?」「だって……だって……それを僕の口から言わせるつもりなのかい???」「田中さん?」「どうなさいましたか????」「会話に『?』が多くないですか?」「?????」「田中さん、今すごい表情をしていますよ」「??????」

 ふう、と僕は心の中で安堵する。火照った頬が少し落ち着いた。

「きっと田中さんにはお考えがあるのでしょう。承知しました。この症状が少しでも良くなるのであれば、喜んでお供させていただきます」

「ではあらためて、動物園に行きたいかー」

「はい。よろしくお願いします」

 早見さんがぺこりと頭を下げた隙に、僕は微かに額に滲む汗を手の甲で拭った。

 実際のところ、僕には彼女の言う「お考え」はなく、動物園に行くことで彼女の症状が改善される、とは到底思えなかった。下心に突き動かされた末の提案であると断言できる。だって僕は野獣なのだから、こんなかわいこちゃんをほったらかすなんてできない。

 頭を下げる早見さんの手は、膝付近で綺麗に揃えられている。指先に添えられている写真を見つめながら、僕は先ほどの光景を思い浮かべた。

 僕に写真を見せるときの早見さんは指先が僅かに震えていた。周りがカボチャだらけで自分と顔が違っていたら、無意識でもそれは他人との距離に繋がってしまうだろう。その距離というのが僕が想像できないくらい大きなもので、大河のようなそれはきっと、彼女の行動を制限しているはずだ。興味があっても誰かと共有するには距離が離れていて、次第にそれが自然なものになってしまって、一人でいることが当たり前の生活に……これは全部僕の想像だ。僕が彼女だったら、だ。だから間違っているかもしれない。でも、一度でも、そんな彼女を想像してしまうと、今こうして僕の目の前に立つまでに、どれだけ辛い想いをしてきたのか考えてしまう。

 ゆうみが早見さんに話しかけることはあっても、その逆は見たことがない。そういえば、早見さんはゆうみにはカボチャのことを相談していないのだろうか。そもそもどうして僕なのだろう。わからないことだらけだ。

 指の震えがなくなってもらいたい。

 早見さんは頭を上げると僕を見つめる。頬を持ち上げて大きく開かれた早見さんの唇は、それはそれは素敵なくらい形の良い三日月でした。

 突然、動悸が強くなり僕は胸に手を当てる。掌に温かい感触が伝わった。これは……まさか本気なのか? 早見さんはまだ三日月を崩す気配がない。

 唐突にハロウィンの黄色いアレが僕の脳裏に浮かび上がる。

 早見さんの視界はカボチャだらけで、僕もその例外ではない。そこから導き出される答えは……。

 カボチャに恋をすることはないよね。

 なんということでしょう。彼女の症状を治さなければ僕の立ち位置は「友達以上カボチャ未満」でストップなのです。

 でも、まあ、目と口が三日月状態の早見さんを見ていると、そんな悩みなど小さく思える僕でして。それくらい……まあ、月が綺麗ですねってことですよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る