巡 和樹



 「私が殺しました。」



 事件の第一発見者である少女___宇佐美燈子うさみとうこは、私が正面に座るなりそう言った。

 一瞬、目の前が白い光に包まれて爆音が鳴る。雷が落ちたようだ。

 「君が二人を…あそこから突き落としたって?」

 「あんなことをしなくちゃいけなくなったのは、私のせいなんです。」

 「どういう意味かな?」

 「私が二人に出会わなければ、二人は死ななくてよかったからです。」

 宇佐美燈子は深呼吸をした。

 「少し、お話ししてもいいですか。」

 悠長にお話ししている時間はない、本当ならそう言うべきだった。でも言えなかった。

 

 その瞳があまりにも暗くて、美しかったから。


 そこから亡くなった二人___幼馴染の澄川水樹すみかわみずきと先輩の九島美織くしまみおりについて話し始めた。

 

 雨はまだ止みそうにない。



 『宇佐美燈子の回想』


 「っか…神奈川県から…来ました…。す…澄川…み、水樹…です。」

 飛び降りたうちの一人、澄川水樹は、小学生の頃からの幼馴染です。水樹は私の通っていた小学校に転校生としてやって来ました。水樹の最初の印象は、正直言って「汚い子」という感じでした。髪はボサボサ、爪は真っ黒、洋服はよれよれ。つーんとする変な匂いまでしました。

 水樹はすぐにいじめの標的になりました。男の子たちからはバイ菌扱いされて、女の子たちは裏でコソコソと悪口、見えないところで嫌がらせをしていました。私は可哀想だなと思いつつも何もしない傍観者でいました。

 それから一ヶ月くらいが経ったある日。教室に忘れ物のプリントを取りに戻った私は、誰もいないはずの教室の中からすすり泣くような声がするのに気がつきました。

 「っ…ぐすっ…」

 その人に悟られてしまわないようにゆっくりドアを開けると、そこには机にうずくまって泣いている水樹がいました。こちらには気がついていないようで、顔を隠しながら静かに泣いていました。

 水樹の泣いている姿を見て、私は心の奥が押しつぶされるような感覚に襲われました。

 今までいじめを見過ごしていたことによる罪悪感? 泣いている人に対する同情?

 そのどちらでもあってどちらでもなかったんです。

 「…澄川さん、大丈夫?」

 なぜなら、口を突いて出た言葉は私がずっと言って欲しかった言葉だから。

 私は水樹に自分を重ねていたんです。

 この時、私は男の子になりたいと思っていました。髪も短くしたり、言葉遣いとか外遊びを真似したりとか。でもそれって、「男の子が欲しかった」っていう両親に好かれたいがためにやっていたんです。虚しい気持ちを抱えていました。

 そんな気持ちを抱えて暗い部屋の中で泣いている、そんな自分と水樹が重なりました。

 大丈夫?

 そう言ってもらえたら、助けて、って言えたかもしれないから。

 驚いて顔を上げた水樹の瞳には確かに光がありました。暗い深淵の中で、一筋の光の糸を見つけたみたいに。そこから私たちは秘密の友達になりました。他の誰にも明かさない二人だけの関係。私たちは他の友達には絶対に話さないことまで話しました。男の子になりたいけど可愛くありたい、という秘密も話したと思います。

 

 「うち、お母さんだけしかいなくて。しかも全然帰ってこないんだ。」

 

 私と同じように、水樹も秘密を打ち明けてくれました。当時は知らなかったのですが、水樹はネグレクト…育児放棄をされていたんだと思います。お風呂に入れるのは週に三回だけで、ひどいと一回しか入れない。ご飯はいつもカップ麺か菓子パン、お小遣いはもらったことがない。水樹は私の想像を絶する環境の中で暮らしていました。


 「どうしたら、みんなにいじめられずに済むかなあ…」

 

 水樹がそう言ったのは、ちょうど夏休みに入る直前の頃でした。

 いつになく暗い表情の水樹。私と一緒にいる時はいつも楽しそうに気にしていないような雰囲気だったけれど、本当はずっと辛かったんだ。私は思い切って、それまで絶対に口にしないと決めていた言葉をかけることにしたんです。

 「も…もっと綺麗になったら、いじめられないかも。」

 水樹に対して「汚い」と思っていたことを口に出してしまったら、それを認めてしまう気がしてずっと言えませんでした。水樹を傷つけることにもなるし、私自身がひどい人間であると自覚することになる。恐る恐る水樹の表情を伺いました。

 

 「どうやったら、綺麗になれるかな?」

 

 また、光の糸を見つけた瞳をしていました。

 そっか。

 水樹は私を信頼してくれている。私の善意を信じることができる、優しい女の子なんだと思いました。

 ドクン、と心臓が大きく跳ね、私は顔が熱くなるのを感じました。


 思えばこれが私にとっての初恋だったんだと思います。

 

 そこから私は夏休みの間、水樹を綺麗な女の子にするべく沢山のことをしました。まずは自分で洗濯ができるように、お母さんに教えてもらったことを水樹に教えたり、私のお下がりの洋服をあげたり、安価で買えるお洋服を揃えたり、綺麗に爪を切る方法を教えてあげたりしました。

 お風呂に一緒に入ったりもしました。

 「…っ」

 「燈子ちゃんどうしたの?」

 水樹の裸を見て私は息を呑みました。

 傷があったとかあまりにも汚れていたからとかではありません。

 美しかったからです。それからしばらく頭に焼き付いて離れないくらい、魅力的に見えたからです。自分の心臓の音がうるさいくらいに響いて、息苦しい。

 こんな気持ちは抱いちゃいけない。そう思えば思うほど、私の水樹に対する思いは高まるばかりでした。

 「髪の毛、洗ってあげる。」

 「燈子ちゃん、ありがとう。」

 水樹に触れるだけで、私の心臓はまたうるさいくらいに跳ねました。

 気持ち、悪い。

 友達にこんな気持ちを抱いてしまう自分が気持ち悪い。水樹のありのままの体を見ていたいと思う自分が気持ち悪い。水樹に触れていたいと思う自分が気持ち悪い。

 自己嫌悪に陥っても、心臓は落ち着いてくれませんでした。

 

 水樹の容姿は、「変身」と言う言葉がぴったり合う変わりようでした。長く美しい髪は後ろで結ばれ、清潔感のある服装に美しい肌、切り揃えられた爪、私がアドバイスした姿勢の良さ。

 夏休みが明けて水樹にいじめを行う人はいなくなりました。

 『あんな子同じ小学校にいたっけ?』

 『やばいよね。モデルみたい。』

 小学校を卒業して中学に上がると、その美しさはますます磨きがかるようになりました。

 でも水樹はまた、些細な悪意に苦しめられることになりました。

 『澄川水樹ってビッチらしいよ』『頼めばヤらせてくれるってマジ?』『担任とヤって成績良くしてもらってるらしいぞ』

 水樹の美しさは、同性からは嫌悪を、異性からは性の対象として好奇の目を向けられるようになりました。

 

 そんなある日、あの事件は起きました。

 

 「あの、本当に困ります…」

 「いいじゃんいいじゃん、絶対楽しいって。」

 水樹は先輩の不良グループに目をつけられてしまいました。私は陸上部に所属していて、その部活の帰り道…夕方6時くらいでしょうか。路地裏に連れて行かれる水樹の姿を見かけました。

 「み…みず…」

 咄嗟に声をかけようとしました。

 でも、できませんでした。足がすくんで動けなかったんです。情けない、友達一人助けられないのか。

 そう思っていた時でした。

 

 「君たち、何をしてるんだい?」

 

 九島美織さん。…今回の飛び降り事件で亡くなった一人で、陸上部の先輩でした。

 

 「ちっ…なんでもねえよ…ただ…」

 「君たちが無理やり彼女の手を引っ張って路地裏に連れ込もうとしているのは、ちゃんとスマホで撮ってある。あんまり人を困らせるようなことはしちゃいけないね。」

 九島先輩は勇敢な人でした。女の子にしては身長が高くて、ショートカットで運動神経も良かったから、一部では王子様的人気があった人です。その噂に違わぬくらい、水樹にとってはヒーローに見えたと思います。

 「あ、あの、ありがとう…ございます。」

 「大丈夫。君こそ、どこか怪我してない?」

 王子様のような九島先輩と、噂の絶えない美しさを持つ水樹。

 

 この事がきっかけになったのか、二人はお付き合いを始めました。

 

 「美織先輩って、昔の燈子ちゃんに似てる。」

 「…え?」

 「髪型とかさ、活発なところとか。あと…私を助けてくれるところ、とか。」

 何それ。

 じゃあ、九島先輩じゃなくて私でいいじゃん。なんでそんなこと言うの。もしかして、当てつけ?

 あの時足がすくんだ私を「臆病者」って馬鹿にしたいの?

 そんなことを考えている自分が、一番嫌いでした。中学に進級しても水樹と表立って仲良くしなかったのは、秘密の関係を続けていれば水樹は私に頼ってくれると思ったからです。

 私はどこまでも醜くて、汚くて、気持ち悪い人間ですから。

 何故かわかりませんが、九島先輩はやたらと私に水樹の話をしてくるようになりました。私としては、そんな話は聞きたくなかったのですが。

 「水樹ちゃんって、本当に宇佐美さんのことが好きなんだね。」

 「…またその話ですか?」

 「二人でデートする時もさ、『燈子ちゃんが好きそう』とか『燈子ちゃんと食べたことあります』とかさ。なんかね…。」

 何を思ったのか、九島先輩は私の頬に手をかけてきて優しくさすりました。

 「私まで、宇佐美さんのこと…」

 「あの、本当にわかんないです。からかってるつもりなら、やめてください。」

 私は水樹に対する複雑な思いで手一杯だったので、九島先輩のそういうスキンシップにも強い嫌悪感を持ちました。やたらと水樹の話題を出したと思えば、体を触ってくる九島先輩をその時初めてちゃんと拒絶しました。

 

 それからしばらくして、九島先輩は学校に来なくなりました。



 「失礼します。一条いちじょうさん、少しいいですか?」

 

 ノックの音と共に、取調室のドアが開く。後輩刑事が捜査の進捗を報告しに来たようだった。

 「宇佐美さん、すみません、少し席を外しますね。」

 取調室を出ると、廊下には私と後輩の二人だけ。閑散とした署内に雨の音だけが静かに響く。

 「多田ビル飛び降り事件ですが、心中と見て間違いないようです。」

 捜査結果をまとめた資料は、時間がなかったのにも関わらず丁寧にまとめられていた。

 「…そっか。了解。じゃあ、宇佐美さんはカウンセリングを通して、フォローした方がいいね。」

 「そうですね。ただ…」

 さっき渡した資料とはまた別の資料を倉島は提示した。

 「死人の墓を暴くような行為かもしれませんが。…九島美織は過去に強盗殺人に巻き込まれているみたいです。それに、自室にこんなものまで。」

 ドクン。

 心臓が大きく跳ねる。

 指し示したように、冷や汗が背中を伝い、目の奥がぎゅうと締め付けられる感覚に襲われる。

 九島美織の顔写真、経歴をもう一度確かめる。

 

 間違いない。この子は。


 「この資料、少し預かってもいい?。後は私がやっておくから、もう上がっていいよ。」

 「分かりました。また何かあればすぐに呼んで下さい。失礼します。」

 

 九島美織…名字が変わっていて分からなかった。”飛鳥”さんの家の子供だ。

 東京の六星で起こった強盗殺人事件。

 

 九島美織は、私が刑事を目指したきっかけになった事件の被害者だ。



 『一条奈緒なおの回想』


 「誰かぁ! 助けてください!」

 六星強盗殺人事件に遭遇したのは、私が高校二年生の頃だった。学校が午前中に終わったある日。帰路に着いていた私の耳に飛び込んできたのは、幼い少女の叫び声だった。

 開け放たれたドア、その奥に見える荒らされた跡。只事ではないと思い、震える手で警察を呼んだ後に家の中に入った。廊下を抜けたところで少女の声がする。

 「誰かぁ…」

 「っ…!」

 絶句した。腰を抜かし、その場に無様にもへたり込む。 

 

 人が死んでいる。

 

 おじいさんとおばあさん、そして若い女性。全員が腹部から血を流しており、リビングの床は血塗られている。視界の隅で、声の正体である少女が座り込んでいた。

 

 「お、お姉ちゃん、助けて…!」

 先ほどとは打って変わって弱々しく声を震わせて私の方を見る。その瞳は安堵と恐怖が入り混じり揺れていた。もしこの時、私が”正しい選択”をしていれば、あんなことにはならなかったのかもしれない。

 この少女こそが___飛鳥美織___あの飛び降り事件で亡くなったうちの一人、九島美織だ。


 

 「宇佐美さん。先ほどのお話の続き、聞かせてもらっても良いですか?」

 

 宇佐美燈子は驚いたような表情をした。

 きっと、もう切り上げられてしまうと思っていたのだろう。

 「長く拘束してしまってごめんね。ただ。」

 私は宇佐美の目を見る。

 「どうしても明らかにしておかなくちゃいけないことがあるんだ。」

 再びメモを広げ、宇佐美に話を促す。

 

 雨脚は少し激しくなった。



 『宇佐美燈子の証言』


 二人が学校に来なくなってから、学校では色々な噂が広がるようになりました。

 『九島美織って今ヤバいらしいね』『母親殺されてて父親しかいない』『なんか死にたいって言ってた』『一年の澄川っていう女と付き合ってんだろ』『確かにレズっぽかったもんな』

 『澄川も一緒に死ぬんじゃね?』

 私は何度も水樹にメッセージを送りました。でも水樹は「大丈夫」「少し体調を崩してて」と返信するばかりで、学校には来ませんでした。

 

 『送信者:水樹』

 『【場所を送信しました】』

 『明日の三時、ここに来て』

 『話したいことがあるから』

 

 水樹からメッセージが来たのは事件の前日。

 学校が終わってすぐだったと思います。何となく嫌な予感はしました。先生たちにも相談しましたが、「後で様子を見てみるから」というばかり。少し話を聞いただけで、二人を学校に行かせることなどはできなかったみたいです。まあ、相談してから三日も経っていないので、仕方なかったのかもしれませんが。

 

 二人を止める最後のチャンスは、私に託されていました。

 

 私の選択が二人を殺したんです。


 「水樹…九島先輩、何してるの?」

 指定されたビルの屋上。そこには、今にも落ちてしまいそうな二人が手を繋いで下を見ていました。

 「…う…そ…?」

 「あ。来たんだ。」

 水樹はひどく驚いた表情をしていました。

 「宇佐美さん。こんにちは。」

 久しぶりに見る九島先輩の顔は、酷く痩せこけていました。短かった髪も伸ばしっぱなし。もうそこに王子様の姿はなく、言ってしまえば死神のような恐ろしさと不気味さがありました。大げさな動作でポケットに手を入れた先輩。

 「…ふ、二人とも何して、」

 「来ないで!」

 水樹は震えながら大きな声を上げ、同時に、ぽつん、ぽつん、と雨が降り始めました。

 「水樹!」

 「宇佐美さ…」

 「燈子ちゃん!」

 視界がスローモーションになって、ゆっくりと水樹が体をこちらに向けました。

 一瞬が、永遠にも感じて。

 

 水樹は、笑っていました。

 

 雨に濡れたその笑顔があまりにも美しくて。

 

 彼女の腕を掴む手が空を切ったことすら気が付かずに。

 

 見惚れていました。

 

 ああそうか。これは呪いであり祝福なんだと。

 

 水樹が選んだ道に、私はいない。私自身に対する呪い。

 水樹が選んだ道は、楽になれる道。水樹が望んだ祝福。


 しばらく経って、肉がひしゃげる音と悲鳴が聞こえました。そこからの記憶は曖昧ですが、警察の方が同行して着替えてからこちらに伺いました。


 私はあの場にいて二人を見送りました。いや、違う。見送ったというよりかは、また、傍観してました。


 だから、二人は私が殺したんです。



 宇佐美燈子の瞳が微かに揺れる。

 「さっきはびっくりしました。刑事さん、九島先輩にそっくりな方だと思ったので。」

 「そう、かな。」

 私はメモを取る手を止め、九島美織の写真を思い返す。確かに、ショートへアと、少し切長の瞳は似ているかもしれない。

 「本当は言えないんだけど。捜査の結果、君が二人の死に関与していないことは明らかなんだ。」

 「…」

 「でも、少し違和感があってね。」

 また雷が落ち、二人の間に沈黙が訪れる。

 

 「澄川水樹は、死ぬために飛び降りたんじゃない。」

 宇佐美燈子の光のない目が、徐々に開かれていく。

 

 「本当はおかしいと思っていたんじゃないかな。九島美織の言動や、澄川水樹の驚いた顔、九島美織の言葉を遮った意味、そして、」

 呼吸を整える。

 本来はここまで話をしてはいけない。むしろ、心のケアを最優先にしなければいけない。 

 

 でも、これは、私自身の罪であって、澄川水樹と九島美織の罪でもあるから。

 宇佐美燈子もまた、この事件の被害者だから。

 

 「澄川水樹は、九島美織から君を守ろうとしていたんだよ。」

 「…どういう意味ですか?」

 

 「九島美織は、宇佐美燈子を…君を殺そうとしていたんだ。」

 

 雨の音にも慣れてきた。もう、雷を怖がることもない。



 『九島美織についての考察』


 九島美織はネクロフィリアだった。

 

 ネクロフィリアとは、死体に対して性的な欲求を抱くこと。カウンセリングの診断記録や、インターネットの履歴、自室にあったさまざまな物証からも推察できる。…死人の墓を暴くような行為だってことも分かってる。じゃあなんでこんな話を貴方にしたのか。

 

 九島美織は、他でもない、貴方の死体を望んでいたから。


 貴方に対する執着は凄まじかったみたいね。SNSのトーク履歴、インターネットの検索履歴、画像フォルダ、その全てで貴方に関連するものが出てきた。計画的な犯行も練っていたみたいね。

 でも上手くいかなかった。それは貴方自身も言っていたように、貴方が九島美織を拒否したから。

 

 『…何で私のモノにならないの…?!』

 『”お姉ちゃん”みたいな髪、顔、言葉遣い、全部完璧なはずなのに、何で…何で何で何で…!』

 

 九島美織は信じられないほどの苦痛に苛まれた。澄川水樹を助けてあげたのにも関わらず、貴方は九島美織に興味を示さない。それどころか拒絶までした。

 元々、彼女は崩壊寸前のところまで来ていたんだ。 

 澄川水樹に対する常習的な昏睡状態での暴行、ストレスによる罵倒、拒食。薬物の過剰摂取の痕跡もある。

 最後の日に貴方を呼んだのも、きっと九島美織ね。水樹の行動が予想外だったのかもしれないけれど、九島美織は貴方に手をかけるつもりだったはず。ポケットには飛び降りには必要のないナイフが隠されていたから。


 

 「九島先輩が、私を殺そうとしていた?」

 

 これ以上、彼女に負担をかけていいのだろうか。

 まだ引き返せる。ここで無理に話を止めても良い。

 でも。

 

 『お、お姉ちゃん、助けて…!』

 

 あの時、私があの子に手を差し伸べなかったから。

 ほんの一瞬目を背けて立ち止まったせいで、強烈な不安と絶望感を与えてしまった。それがあの子を苦しめてしまったんだとしたら。

 

 今度は目を背けてはいけない。

 

 伝えなきゃ。

 ”澄川水樹の行動の意味”を。

 「澄川水樹は、九島美織の計画も、真意も全部知っていた。」

 

 「その上で、貴方を守ろうとしたんだ。」



 『澄川水樹の回想』


 「澄川さん、大丈夫?」

 

 暗闇の中で一人ぼっちだった私に、光をくれた人。私の燈台になってくれた人。

 宇佐美燈子。彼女は私の光。

 

 「もっと綺麗になったら、いじめられないかも。」

 

 きっと言いにくかっただろうに、私がずっと悩んでいたことに対する、最高の答えを与えてくれた。

 

 「髪の毛、洗ってあげる。」

 

 ドキドキした。燈子ちゃんが触れてくれるのが嬉しかった。

 みんなは私を「汚い」「臭い」「ビッチ」なんて言うけど。私だって他の誰にも触れられたくなんかない。燈子ちゃんは特別なんだ。

 

 「み…みず…」

 そんな噂が出回ってしまって、無理やり連れていかれそうになった時。きっと怖かっただろうに、私のために勇気を出そうとしてくれた。

 

 私にとって燈子ちゃんはずっと特別。でも、燈子ちゃんがどう思っているかはわからない。最近はあまり構ってくれなくなってしまったし、結局無理やり連れていかれそうになった時も、別の人に頼ってしまったから。

 九島美織。

 少しだけ昔の燈子ちゃんに似ている、燈子ちゃんの部活の先輩。私を助けてくれた恩人だけど。その正体には正直驚いた、というより、怖かった。

 「…宇佐美さんってさあ、どんな人が好みなのかなあ。」

 燈子ちゃんに対する想いは、恋とか愛を越えた何かだったと思う。

 「水樹ぃ、今度三人でこれ、やろうよ?」

 薬を盛られて、首を絞められながら、美織先輩は私の体を触ってきた。途切れかける意識の中で私は必死に抵抗した。こんな事、燈子ちゃんにさせるわけない。


 私の光を汚さないで。暗闇に堕ちる役割なら、私が引き受けるから。

 

 この時から私の気持ちは決まってた。

 何があっても燈子ちゃんを守る。この人に触れさせてたまるか。この人に汚されてたまるか。

 そしてその日はやって来た。

 

 「水樹…九島先輩、何してるの?」


 無理やりビルの屋上に連れてこられたその日。私はいるはずのない、初恋の人の姿にひどく驚いた。

 何で燈子ちゃんがここにいる?

 きっと美織先輩が呼んだんだ。先輩はここで全部を終わらせるつもりなんだ。燈子ちゃんもろとも暗い深淵の中に堕ちようとしているんだ。

 「来ないで!」

 美織先輩は不気味に笑い、ポケットに手を入れる。きっと自宅から持ってきたナイフを握っている。呆然としている燈子ちゃんに襲い掛かって、その後一緒に飛び降りる気なんだ。

 

 そんなことさせない。

 

 さっきまで恐怖心で震えていた足が、不思議と一瞬で止まる。視界がスローモーションになる。

 覚悟が決まった。私がやるべきことはきっと、たった一つ。

 

 本当は死にたくなんかない。

 

 燈子ちゃんと、一緒にいたい。

 燈子ちゃんと、離れたくない。

 燈子ちゃんと、向き合いたい。

 でも、私には、これしかできないから。

 「燈子ちゃん!」

 全身で振り返り燈子ちゃんの顔を見る。泣かないで、私の光。

 美織先輩の手を強く掴み、全体重を後ろに掛けた。

 

 私ね、ずっと消えたかったんだよ。家にも居場所がなくて、学校にも居場所がなくて。何で生まれて来たのかな、とかずっと考えてた。どうかしてしまいそうな気持ちと、何にもできやしないんだって気持ちでいっぱいだったの。時間が経ってからも、根っこは何にも変わってない。でもね。

 

 燈子ちゃんに会えたから、生まれてきてもよかったのかなって思えた。


 さようなら、私の光。


 私の初恋の人。

 

 ずっと大好きな人。


 この時、生まれて初めて心の底から笑えた気がした。



 宇佐美燈子は、何も話せなかった。大粒の涙が光の戻った瞳から溢れて頬を伝う。

 

 私は弱い。だから守れなかった。あの頃の自分よりももっと若いこの子に、これほどまでの重圧を押し付ける意味はあったんだろうか。

 「私も、手を掴んであげられなかった。」

 「…え?」

 私は真っ直ぐに宇佐美燈子の瞳を見る。その奥に熱が宿っているのが分かった。この子は人のために泣ける、真実を受け入れて進む力がある子だ。

 「…燈子ちゃんが自分で自分を責めるように、私も、何度も自分を責めた。」

 この子は私に似ている。

 だから、自分に向き合うように、この子にも向き合ってあげたいと思った。

 それが未来へ進む原動力になると信じているから。

 「のこされた人たちが出来るのは、悔やんでも進んでいくことなんだと思う。…応えられなかった思いも、逃げずに背負って。」

 私は燈子ちゃんに手を差し出す。

 差し出された手をじっと見つめる燈子ちゃん。

 あの時、美織ちゃんにはしてあげられなかったこと。水樹ちゃんのような友達がいたとしても、私はきっと出来なかった。握り返してもらえなくたって構わない。

 

 ただ、私はもう逃げない。

 

 君のような私からも、私のような君からも。

 

 「…正直、全然わかんないです。でも…」

 

 涙を拭った燈子ちゃんの手が、私の手に重なる。

 「私は水樹のことが大好きです。この気持ちからは、もう逃げません。」

 

 煌々と月明かりが取調室を照らす。私たちは確かに現実に向き合い始めた。

 

 気がつけば、雨はもうすっかり止んでいた。



 終

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巡 和樹 @Qaz_kids

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