第32話 受け入れられない現実

 和希が社会科見学で『山上池』に行くことになったと聞いた時は、アイティとトゥイクと和葉で、行かせるべきか家族会議を実施したが、結論としては、行かせることになった。

 何か状況が動くかもしれないという前向きな希望からだった。

 しかし、とはいえ……。


「いやいやいやいや、あり得ないですよ」

 社会科見学が終わったその足で、遠野家を訪ねてきてくれた絵美と累に話を聞いた和葉は、いの一番に否定した。

 和希が池に落ちたら女になったという、冗談にしても心情的に面白くない話を。


「あのね、私はそもそも最初から女なんだよ?」

「和希は黙ってて」

 リビングのテーブル席には、和葉が和希と隣合わせで座り、対面に絵美と累が座っていた。

「大体、このおっぱいだって偽乳……」

 証明しようと和希の偽乳に手を伸ばして揉みしだくと、予想に反して、自然な弾力が返ってきた。

「……あれ?」


「和葉、お姉ちゃんの胸揉んで楽しい?」

 和希の偽乳から手を離して、その手をまじまじと見つめる。

「……和希、パッド変えた?」

「ふふふ。残念だったね、和葉」と和希は不敵に笑った。「私はもうパッドはいらないの。何故なら、成長したから!」

「そんな訳ねえだろ」と和葉は乱暴に言った。「和希の乳が成長するなら、累さんの乳はもうHカップだ!」

「なんで和希の胸の成長に合わせて、私の胸まで成長すんだよ!」


 和葉と累のやり取りを見ながら、絵美が自分の胸を見下ろして、「大丈夫、まだ十五歳だもの、成長の余地はあるわ。大丈夫よ、絵美」と何やら呟いていた。

「ったく、しょうがねえな。おい、和希、こっちこい」

「何?」

 和希は警戒心皆無のカワウソのように、不用意に累の近くまで歩いて行った。

 テーブルから少し離れたところに立たされた和希は、累に羽交い締めにされた。


「……どうして?」

「よし、絵美。脱がせろ」

「……冗談だよね?」

 累と和希の視線を同時に受けて、絵美はたじろいだ。

「ぬ、脱がせるの? 私が? 和希を?」

「上のチャックを開くだけだって」

 和希は『山上池』の職員に貸してもらったという、黒のジャージを着ていた。チャックを下に引き下ろすだけなら、難しいことではない。


「え、絵美……」

「うっ……」

 若干涙目になっている和希に、絵美の心は随分と揺れているようだった。

「……ご、ごめんね、和希……」

 ゆっくりチャックが下ろされると、ブラジャーに覆われた控えめな胸が露わになった。

 確かに、ある。

 淡い水色の飾りのない上品なブラに支えられた胸は、Bカップほど。豊満ではないが、男性では通常あり得ない女の胸になっていた。


「…………ふはっ」

 知らず知らずの内に息を止めていた和葉は、思い出したように息を吐き出した。

「な……んで、成長する……? あの池は女性ホルモンに満ちているのか……? 浸かるだけでおっぱいが成長する? おっぱい観音でも祀られているのか……?」

 混乱の境地に立った和葉は、自分でも意味不明だと思うことを口走っていた。いや、おっぱい観音は愛知県に実在するのだったか。


「あっ、でも確か、男性でも胸が成長する病気があるって聞いたことが……もしかしてそれ?」

「おい、絵美。パンツとパンティも脱がせろ」

 唯一の逃げ道に逃げ込もうとしたところで、累から追撃が走った。

「や、止めてよ!」と和希が嫌がった。「どうして、妹の前で友達から下着を脱がされないといけないの!」

 和希の当然ともいえる抗議を受けたためか、絵美は動かなかった。


「ね、ねえ……、今、確かトゥイクさんを呼んでいるのよね……。この状況見られたら、なんか、その、あれよね……」

 トゥイクの意見も聞きたいからと、先ほど、和葉が電話で呼び出していた。こういう時、会社勤めのアイティとは違って、トゥイクのフットワークは軽いため、頼りになる。

 が、この状況は見せたくない。

 仕方なく、手早く済ませようと、和葉は和希の元まで行くと、ジャージのパンツに手を入れて和希の秘所に手を這わせた。


「ひゃっ……! なんっ……んっ……、や、止めてよ……。か、和葉ぁ……」

 パンティ越しには、柔らかい、つるんとした感触の他には疎林の気配があるだけだった。

 ない。

 ない。

 ない。

 アジアゾウが、巾着袋がない。

 ついでに胸も触るが、先っぽに突起がある、小ぶりの山岳だった。


「……さ、触っちゃ、駄目だよ……」

 そういえばと、和希の声を聞くと、いつも以上に高いような気がする。和希の地声は、変声期を越えたとは思えないほど高いため、あまり気にしていなかったが……。

「嘘だ……。あり得ない……」

 和葉はその場にへたり込んだ。


(これ、誰……?)

 この女子が和希であるとは、にわかには信じられなかった。

 実は和希たちは三つ子で、この人は自分の二人目の姉さんなのだと言われた方がまだ納得できる。しかし、ならば本物の和希はどこに行ったという話にもなる。絵美と累が和葉を謀る理由もない。


「どうして……、どうしてこんな……」

 頭を抱えた。

 考えても答えなど出ない。

 和葉は空白の頭でのろのろ立ち上がると、和希のジャージのチャックを上げて胸を仕舞った。


「和希。今日の夕飯は何?」

「え……? 今日は、初鰹の刺身をタレに漬け込んであるから、それをどんぶりにして、あとは、ふきのとうの天ぷらと春キャベツの味噌汁にしようかな……」

「そっか。じゃあ、今日は私も手伝うね」

「ほんと? ありがとう。和葉は優しいね」

「おい、和葉、現実逃避するんじゃねえ! 目ぇ覚ませ!」


 和葉が、現実とも夢ともつかない超常現象から目を背けていると、窓の外から自動車が止まる音と、オレンジ色のライトの明かりが見えた。

 玄関が開く音がした。騒がしい足音と共に、リビングの扉が開くとトゥイクが入ってきた。


「おっ、みんなお揃いだね」

 タートルネックにジャケットを羽織った姿で登場したトゥイクは、如何にも大人という印象があり、全員の視線が彼に注がれた。

 視線には、何とかしてくれ、という無言の圧力が込められている。


「おいおい、そんな熱い視線を向けられちゃ、おじさん照れちゃうぜ」

「トゥイク、どうしよう、和希が女の子になった!」

「ははは。そうかそうか。女の子にねえ……」


 トゥイクはちらりと絵美と累を見ると、視線を和葉に注いできた。

 それは暗に、事情を知らない二人の前で話すことではない、と言っていた。

「あ、大丈夫っスよ、トゥイクさん。私ら、和希が男だって知ってるんで」

 トゥイクと和葉の間に流れる微妙な空気を察した累が、横からフォローを入れた。

「あれま。ほんとに?」

「はい。と言っても、知ったのはつい最近っスけど……」

「へえ。それでも、二人は和希くんの友達なわけだ。そりゃあ、ありがたいことだね」

 トゥイクは嬉しそうに破顔した。


「……うん?」

 直後に、トゥイクは表情を疑いの形に変えた。

「ちょ、ちょっと待った。もしかして、和希くんが女の子になったってのは比喩的表現であって、大人の階段を登ったって意味かい? まさか、二人が性別を知った契機というのは、ベッドの中……」

「違います!」

「違えよ!」

 絵美と累の否定がハモって響いた。


「いやあ、ビックリしたよ。違うならいいんだけどね。まあ、違わなくても、合意が取れていれば、叔父さんから言うことは、避妊しろよってことだけなんだけど……」

「トゥイク」

 と和葉はトゥイクに人差指を向けた。

「そういうところだから」

「え? 何が?」

「……」

 この場にいた女子高生二人と女子中学生は、揃って顔を見合わせてため息をついた。


「「「デリカシー!」」」


「まあ、デリカシーはさておき、それで? 和希くんが女の子になったって、どういう意味だい? というか、どうして和希くんは累ちゃんに羽交い締めにされているんだい?」

「る、累、そろそろ……」

「あ? ああ、そうだな」

 ようやく累の拘束から解き放たれた和希は、滑るように累と絵美と和葉から距離を取り、トゥイクの傍まで近づいた。


「それが酷いんだよ。みんなして、私の服を脱がせたり、胸を触ってきたりするの」

「胸って、パッドだろ? 最近の女子高生はそんなじゃれ合いをするのかい?」

「これでも成長したんだよ?」

 そう言って腰に手を当てて胸を張る和希。得意げな顔が腹立たしい。

「ははは。そりゃ、よかったね」

 対してトゥイクは乾いた笑いだったが、きちんと上まで閉められていない和希のジャージでは、トゥイクの視点からでは胸元が見えていたはずだった。


 途端に怪訝な表情になったトゥイクは、一切の躊躇なく、和希のジャージのチャックを開けて、その胸を見た。

「なんでぇぇ――――ッッ‼⁉」

 叔父の行動に素直に引いた和葉だったが、先ほどの和葉は今のトゥイクより過激なことをしたような気がするので、心の中で素直に反省した。

 和希の胸の膨らみを生で確認したトゥイクはチャックを下げた姿勢のまま硬直した。


「なんで!? どうしてみんなして私の胸を見たがるの!? おかしいよ、みんな! もう知らない! 馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!」

 和希はトゥイクの手を振り払い、半べそをかいてリビングを出ると、階段を登って部屋の扉を乱暴に閉める音を立てて引きこってしまった。


「…………女の子になったって……、え? それ、そのままの意味なの?」

「ちなみに、下はなくなってる」

「綺麗に? 何か、手術痕があるとかではなく?」

「……下着ひんむいて写真撮って確認する?」

「いや、止めておこう。和希くんに不要なトラウマを植え付けることになりそうだ」


 トゥイクは立ち上がると片手で頭を押さえながら、対面式キッチンに入って、インスタントコーヒーを入れ出し始めた。

 ざっかけなコーヒーを一口飲んだトゥイクが、息を大きく吐いてから口を開いた。

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